第一章 触れることのできる記憶
リクの工房は、沈黙と微かなオイルの匂いで満たされていた。壁一面に並ぶ工具は、まるで外科医のメスのごとく整然と配置され、作業台の古い木肌には、無数の傷と染みが歴史のように刻まれている。彼の仕事は「遺物感情修復師」。人々は彼をそう呼んだ。大戦が始まってから生まれた、あまりに奇妙で、そしてあまりに必要とされた職業だった。
戦争は、人の命だけでなく、彼らが遺したモノにも深い傷を刻む。兵士が最期に握りしめた認識票、恋人からの手紙が入っていた革財布、故郷の風景が描かれた懐中時計。それらの遺品には、持ち主の強烈な最後の感情――恐怖、怒り、絶望、あるいは愛――が残留エネルギーのようにこびりついていた。遺族がそれに触れると、その激しい感情の奔流に呑まれ、心を病む者さえいた。リクの仕事は、特殊な音叉と共鳴装置を使い、遺品に宿る感情の波形を調律し、穏やかな「記憶」へと昇華させることだった。それは死者の魂を鎮め、残された者の心を慰める、聖なる鎮魂の儀式だと彼は信じていた。
今、彼の手元にあるのは、錆びついた銀の懐中時計だった。北方の凍てつく塹壕で発見されたものだという。リクはヘッドフォンのような集音装置をこめかみに当て、そっと時計の蓋に指を触れた。途端に、脳内に冷たい風が吹き荒れる。凍てつく泥の匂い、遠雷のような砲声、そして何よりも強い、焼きたてのパンの香りと幼い娘の笑い声。故郷への強烈な思慕。次の瞬間、その温かい幻影は閃光と共に引き裂かれ、すべてを飲み込む絶対的な恐怖の絶叫が鼓膜を突き破った。
「うっ…!」
リクは思わず指を離す。額には冷たい汗が滲んでいた。これが日常だった。彼は呼吸を整え、最も周波数の低い音叉を手に取った。チィン、と澄んだ音を立てる。その清らかな振動を、そっと時計に伝えていく。荒れ狂う感情の波に、一滴の静けさを落とすように。何度も、何度も。気の遠くなるような精密さで、恐怖の棘を抜き、悲しみのささくれを滑らかにしていく。
数時間後、時計から感じられるのは、穏やかな郷愁と、家族への静かな愛だけになっていた。これでいい。遺族は、彼が英雄であった記憶だけを抱きしめることができる。
しかし、最近、リクは奇妙な違和感に苛まれていた。彼が修復するいくつかの遺物から、これまでのどの感情とも違う、微かで、しかし深く突き刺さるような異質の感覚を受け取るようになったのだ。それは恐怖でも怒りでもない。まるで、何か取り返しのつかない過ちを犯してしまった者の、冷たい「罪悪感」のような響きだった。敵に殺された味方の遺品から、なぜこんな感情が? 謎は、黒い染みのようにリクの心に広がっていった。
第二章 英雄の拳銃
その日、工房の扉を叩いたのは、軍服に身を包んだ壮年の士官だった。彼が携えてきた桐の箱には、リクがこれまで扱ったことのない特別な遺物が収められていた。
「これは、先日の『鷲ノ巣丘』の戦いで壮絶な最期を遂げられた、ヴァルター・シュミット少佐の拳銃だ」
ヴァルター少佐。その名は、今や国中の誰もが知る英雄だった。単身で敵の機関銃座を破壊し、部隊の活路を開いた末に戦死したと、新聞は連日彼の武勇伝を報じていた。士官は厳粛な面持ちで続ける。
「少佐の偉業を後世に伝えるため、この拳銃は国立軍事博物館に永久収蔵される。だが、このままでは展示できない。拳銃には、少佐のあまりに強烈な闘志と怒りが宿っている。触れた学芸員が三人、精神に異常をきたした。君の腕で、英雄の魂を鎮めてほしい。我々が記憶すべきは、彼の勇気と祖国への愛だけだ」
リクは頷き、桐の箱を丁重に受け取った。黒光りする自動式拳銃は、ずしりと重い。グリップには使い込まれた跡があり、銃身には乾いた泥が付着している。これがあの英雄の魂が宿る遺物か。リクは武者震いにも似た高揚感を覚えながら、作業台へと向かった。
集音装置を装着し、震える指で冷たい鋼鉄に触れる。その瞬間、リクは激しい潮流に引きずり込まれた。だが、それは予想していた英雄的な怒りや、祖国を思う崇高な闘志ではなかった。脳髄を直接掴まれるような、圧倒的な質量を持った感情の塊。それは、底なしの沼のような後悔。魂が内側から腐っていくような自己嫌悪。そして、許されることのない罪を犯した者の、絶望的なまでの「罪悪感」だった。
「な…ぜだ…?」
リクは呻いた。英雄が、なぜ。これは敵兵を前にした兵士の感情ではない。むしろ、何か恐ろしい禁忌を犯してしまった者の慟哭だ。彼は混乱した。この拳銃に何が記録されているというのか。国が喧伝する英雄の姿と、この拳銃が叫ぶ魂の姿は、あまりにもかけ離れていた。
それでも、これは任務だ。英雄の記憶を、あるべき姿に「調律」しなければならない。リクは深呼吸し、最も高度な技術を要する多重共鳴調律に取り掛かった。複数の音叉を同時に鳴らし、複雑に絡み合った感情の糸を一本一本解きほぐしていく。彼は知らず知らずのうちに、この感情の正体を探ろうと、その深淵へと意識を沈めていった。拳銃が発する絶望の叫びに、ただ耳を澄ませながら。
第三章 反転する情景
調律作業は三日三晩続いた。リクは食事も睡眠も忘れ、拳銃の記憶と対峙し続けた。感情の波は次第にその形を現し始め、リクの意識は、持ち主であるヴァルター少佐の最後の瞬間の記憶へと引きずり込まれていった。
閃光と轟音。硝煙の匂い。リクは、ヴァルター少佐そのものになっていた。鷲ノ巣丘の頂上。敵の機関銃座はすでに沈黙している。戦闘は終わったのだ。しかし、彼の目の前には、破壊された農家の地下室から這い出してきた、数人の民間人がいた。怯えた目をした老人と、その腕に抱きつく幼い少女。彼らは敵国の言葉で何かを必死に訴え、両手を上げて降伏の意を示していた。
部下たちが制止の声を上げる。「少佐、彼らは民間人です!」。だが、少佐の耳には届いていない。彼の目は血走り、異常な興奮と疲労で正気を失っていた。長い戦闘、失った仲間たち、そして終わりの見えない恐怖が、彼の理性の箍を外していたのだ。
「敵だ…まだ敵がいる…」
少佐は震える声で呟き、拳銃を持ち上げた。その銃口が、震える少女に向けられる。少女の大きな瞳が、絶望と恐怖に見開かれる。その瞳に、一瞬だけ、故郷に残してきた自分の娘の面影がよぎった。
その瞬間、少佐の心に、わずかな正気が戻る。やめろ、と魂が叫ぶ。だが、疲労しきった指は、すでに引き金にかかっていた。
――乾いた銃声が、丘に響き渡った。
リクは絶叫と共に、現実の世界に引き戻された。工房の床に倒れ込み、激しく喘ぐ。今、見たものは何だ。英雄の武勇伝などでは断じてない。それは、戦争という極限状況が生み出した、狂気の殺人だった。
そして、彼は悟った。この拳銃から溢れ出す圧倒的な罪悪感は、殺された少女の恐怖や無念ではない。引き金を引いてしまったヴァルター少佐自身の、魂が砕ける音だったのだ。少女の瞳に映った自分の醜悪な姿に、英雄の仮面が剥がれ落ち、ただの「人殺し」としての自分が刻み込まれた瞬間の、永遠に続く後悔。
リクは愕然とした。今まで自分がしてきたことは何だったのか。彼は、戦死した兵士たちの「無念」を鎮めていると信じていた。しかし、そうではなかった。彼が扱ってきた遺物の中には、味方の兵士が敵国の誰かを殺した瞬間の、「加害の苦悩」をも鎮めてきたのだ。あの懐中時計の持ち主も、故郷を思う直前に誰かを殺していたのかもしれない。最近感じていた奇妙な罪悪感の正体は、これだったのだ。
彼は国に、戦争に、利用されていただけだった。兵士たちが犯した罪の記憶を浄化し、彼らを穢れなき「英雄」に仕立て上げるための、都合の良い装置として。彼の信じていた正義、誇り、そして仕事の神聖さ、そのすべてがガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。作業台の上で、黒い拳銃が静かに、そして嘲笑うかのように沈黙していた。
第四章 沈黙の鎮魂歌
数日間、リクは工房に引きこもり、抜け殻のようになった。何も手につかなかった。工具の冷たい感触も、オイルの匂いも、今はすべてが偽善と欺瞞の象徴に思えた。もう、何も修復したくなかった。
しかし、作業台に置かれたままの拳銃が、彼を呼び続けていた。そこからは未だに、ヴァルター少佐の救われぬ魂の叫びが、静かに漏れ出ていた。許してくれ、と。誰か、この罪を、と。
リクはふと気づいた。この苦しみを、誰かが受け止めなければならない。国が英雄として祭り上げ、その罪から目を逸らさせようとしても、ヴァルター・シュミットという一人の人間が犯した罪と、その魂が負った傷は、決して消えはしない。それを無かったことにしてはならない。
彼はゆっくりと立ち上がり、作業台に向かった。再び集音装置を身につけ、拳銃にそっと触れる。流れ込んでくるのは、やはり耐え難いほどの罪悪感と後悔だ。しかし、今度はリクの受け止め方が違っていた。彼はそれを浄化しようとも、鎮めようともしなかった。ただ、寄り添った。一人の人間が犯した過ちの重さを、その絶望の深さを、静かに共有した。それはもはや「調律」ではなかった。加害者となってしまった人間の、誰にも届かない懺悔を聞く、ただ一人の聴罪師となる行為だった。
どれほどの時間が経っただろうか。拳銃から発せられる感情の波が、次第に穏やかになっていくのを感じた。それは消え去ったわけではない。激しい嵐が、静かな悲しみの雨に変わったような、そんな変化だった。罪悪感は、深い哀悼の念へと昇華されていた。
数日後、あの士官が再び工房を訪れた。「英雄の魂は鎮まったかね?」と彼は尋ねた。
リクは静かに首を振った。「この拳銃は、修復できませんでした。いえ、修復すべきものではなかった」
彼は桐の箱を士官に返さなかった。
「これは英雄の証などではありません。これは、戦争が人の魂をいかに破壊するかを物語る、一つの『祈り』です。博物館に飾られ、嘘の物語を語るべきではない」
士官は眉をひそめたが、リクの揺るぎない瞳を見て、何も言わずに立ち去った。
リクは修復を終えた拳銃を、工房の片隅にある小さな祭壇のような場所に置いた。そこは、彼がこれまで修復してきた遺物の中で、どうしてもその「真実」を消すことができなかったものたちが眠る場所だった。
彼の仕事の意味は、あの日を境に完全に変わった。彼はもはや、国のために英雄の記憶を造り出す調律師ではない。戦争という巨大な狂気の中で、加害者にも被害者にもなりうる、名もなき一人ひとりの人間の、声なき魂の叫びを聞き届け、その記憶を静かに守る「墓守」となったのだ。
工房には今日も、沈黙とオイルの匂いが満ちている。しかし、その沈黙はもはや空虚ではなかった。忘れ去られてはならない無数の魂たちの、静かな鎮魂歌が響いていた。