色彩葬送曲

色彩葬送曲

0 4888 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 灰色の前線

世界から、色が消えて久しい。

空は鉛を溶かしたような鈍い灰色で、大地は乾いた骨のように白茶けていた。かつて緑豊かだった森は、今では濃淡の違う黒いシルエットが重なり合う不気味な影絵だ。俺、リヒトが覚えている最後の色は、確か「黄色」だった。前線の塹壕で凍える夜、隣で震えていた若い補充兵が、故郷の向日葵畑の話を夢うつつに呟いた直後、敵の砲弾が彼を光の記憶ごと消し去った。その瞬間、世界からあらゆる黄色が――陽光の温かみも、菜の花の鮮やかさも、彼の故郷の向日葵さえも――永遠に失われた。

人々は、この現象を「色彩消失」と呼んだ。長引く大陸戦争が始まって以来、人が一人死ぬたびに、世界から一つの色が失われていく。まるで、神が描いた壮大な絵画から、一つ、また一つと絵の具が剥がれ落ちていくように。

俺は元々、王都の片隅で画家見習いをしていた。光と影、そして何よりも色彩の調和に心を奪われていた俺にとって、このモノクロームの世界は呼吸すら難しい牢獄だった。徴兵され、銃を持たされた今、俺の任務は奇妙なものだった。「青」を守ること。

青は、この世界に残された最後の原色だった。空は灰色に染まっても、なぜかサファイアの宝飾品や、古い教会のステンドグラス、そして敵国の指導者の娘が持つという瞳の中に、かろうじてその彩りは残っていた。上官はそれを「希望の象徴」と呼び、敵も味方も、最後の色を手に入れようと、あるいは破壊しようと血眼になっていた。

俺の部隊が守るこの高地には、「蒼穹の石」と呼ばれる巨大な青水晶の鉱脈がある。それが今日の最前線だった。

塹壕から身を乗り出し、単眼鏡で敵陣を覗く。煤と泥にまみれた敵兵たちが、蠢く蟻のように見えた。その中で、ふと、一人の兵士のヘルメットに目が留まった。そこに、何か模様が描かれている。雨と泥でほとんど消えかかっていたが、それは間違いなく、かつてこの世界に存在した「赤い花」の絵だった。

無機質な灰色の世界で、その存在しないはずの色の記憶が、俺の心臓を強く掴んだ。誰が、何のために、失われた色を描いたのか。そのかすかな赤の残像は、この終わりのない戦争の無意味さと、俺たちが失ったものの巨大さを、痛いほどに突きつけてきた。俺は、引き金にかけた指の力が、わずかに抜けるのを感じた。

第二章 赤の残像

夜間偵察の命令が下ったのは、その三日後のことだった。敵陣の背後に回り込み、補給路の情報を探る。それが表向きの任務だったが、俺の心は別のものに囚われていた。あのヘルメットの持ち主を探し出したい。失われた赤を描いた男に、会ってみたい。無謀な感傷だと頭では分かっていた。

月明かりすらない暗闇は、黒の濃淡だけで構成された世界だ。俺は音を殺して廃墟と化した村を抜け、敵の警戒網を潜り抜けた。その時、崩れかけた納屋の影から、微かなかすれ声が聞こえた。咳き込むような、苦しげな声。

反射的に銃を構え、納屋に飛び込む。そこにいたのは、一人きりの老兵だった。壁に背を預け、荒い息をついている。その傍らには、あの赤い花の絵が描かれたヘルメットが転がっていた。

老兵は俺の姿を認めると、驚きもせず、ただ諦めたように微笑んだ。その顔の深い皺は、まるで干上がった大地そのものだった。

「若いの、わしを殺しに来たか」

その声には、戦意など微塵も感じられなかった。俺は銃口を下ろし、問いかけた。

「その絵は、あんたが?」

「ああ…」老兵はヘルメットに目を落とした。「娘が好きだった花だ。もう、何色だったかも思い出せんがな」

彼は懐から、油紙に大切に包まれた一枚の写真を取り出した。セピア色に褪せてはいるが、そこには確かに色彩があった。鮮やかな「赤」に実ったリンゴ畑で、若い夫婦と小さな女の子が笑っている。老兵の若い頃の姿だった。

「『赤』が消えた日を、覚えとるか」

老兵は、遠い目をして語り始めた。

「わしの村が、お前さんたちの軍に焼かれた日だ。このリンゴ畑も、家も、何もかもが燃えた。そして…孫娘が、瓦礫の下で死んだ。小さな体を抱き上げた瞬間、わしの腕に流れた血の温もりとともに、世界から『赤』という色が消え去ったんだ」

彼の言葉は、雷のように俺の全身を貫いた。色彩の喪失は、無作為の現象ではなかったのだ。それは、誰かの死と、その死に結びついた強烈な記憶や想いが引き起こす、世界の悲鳴だった。黄色が消えたのは、向日葵畑を夢見たあの新兵の死によって。赤が消えたのは、この老人の孫娘の死と、血塗られたリンゴの記憶によって。

だとしたら、他の色も?緑は、森で散った兵士の望郷の念か。紫は、高貴な誰かの死か。俺たちが奪い合っている最後の「青」もまた、誰かの大切な記憶と繋がっているのではないか。

「もう、どうでもいいんだ」老兵は写真を胸に抱き、静かに目を閉じた。「色がなくても、腹は減る。色がなくても、人は人を憎む。だがな、若いの。色を失くすということは、心を失くすことと同じだ。わしらはもう、愛しいものの色さえ思い出せん」

その夜、俺は老兵を見逃した。彼のヘルメットに描かれた赤い花の残像が、俺の中で決して消えない烙印のように焼き付いていた。

第三章 青の標的

俺は、狂ったように自陣へと戻った。老兵から聞いた話を、司令官に報告するためだ。色彩消失のメカニズム。これが真実なら、この戦争の意味そのものが変わる。我々はただ領土を奪い合っているのではない。互いの記憶と心を、根こそぎ消し去ろうとしているのだ。

司令部のテントに駆け込み、俺は息を切らしながら全てを報告した。色の喪失が、個人の死と記憶に連動していること。最後の色である「青」もまた、誰かの大切なものである可能性が高いこと。

司令官は、無表情に俺の話を聞いていた。眉一つ動かさず、ただ灰色の瞳で俺を見つめている。報告を終えた俺を待っていたのは、賞賛でも、驚愕でもなく、氷のように冷たい沈黙だった。

「ご苦労だった、リヒト兵曹。下がっていい」

あまりに素っ気ない反応に、俺は言葉を失った。信じてもらえなかったのか。それとも、ただの戯言だと思われたのか。

その日の深夜、俺は密かに司令官に呼び出された。テントの中には、彼一人しかいなかった。ランプの光が、彼の顔に深い影を落としている。

「リヒト兵曹。君の報告は、興味深かった」

彼はゆっくりと口を開いた。「だが、我々上層部が、それに気づいていないとでも思ったかね?」

空気が凍りついた。司令官の言葉の意味を、脳が理解するのを拒んだ。

「我々は、とうの昔にそのメカニズムに気づいていた。そして、それをどう利用するかを研究してきたのだよ」

彼は一枚の地図を広げた。そこには敵国の首都が示され、一点に赤い円が描かれていた。赤という色が存在しないこの世界で、その円は異様なまでに禍々しく見えた。

「我々が守ろうとしている『青』。それは、あの『蒼穹の石』のことだけではない」

司令官は続けた。その声は、感情を一切排した機械のようだった。

「敵国の現指導者には、溺愛する一人娘がいる。生まれつき病弱で、屋敷から一歩も出られない少女だ。その少女の持つ、世にも美しい『青い瞳』。それこそが、我々が真に狙う『青』だ」

全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

「まさか…」

「その通りだ。我々は特殊部隊を送り込み、その少女を暗殺する。少女の死とともに、世界から最後の色である『青』が消えれば、敵国民の心は完全に折れるだろう。希望の象徴を失い、指導者は精神的に崩壊する。戦争は、我々の勝利で終わる」

俺に与えられた「青を守る任務」とは、敵の注意を「蒼穹の石」に向けさせるための陽動に過ぎなかった。俺が希望だと信じて守ろうとしていたものは、最も卑劣で、非道な作戦の標的だったのだ。

「これは、勝利のためだ」司令官は言った。「少数の犠牲で、多数を救う。それが戦争の道理というものだ」

俺の足元が、ガラガラと崩れ落ちていく。正義も、大義も、希望も、全てが欺瞞だった。画家見習いだった頃に夢見た、世界を彩る美しい色の数々。その一つ一つが、誰かの悲鳴とともに消えていったのだと知った今、その最後の色までをも、俺たちの手で汚そうとしている。俺は、自分が信じてきた全てのものに裏切られた絶望の底で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 名もなき光の誕生

俺は、軍を抜けた。もはや、どちらの軍に正義があるかなど、どうでもよかった。俺が守りたいのは、国家の勝利ではない。名も知らぬ少女の命と、彼女の瞳に宿る、この世界最後の青い輝き。それだけだった。

敵国の首都へ向かう道は、地獄そのものだった。かつて街だった場所は瓦礫の山と化し、灰色の空の下で、人々は色のない亡霊のように彷徨っていた。俺は敵兵の軍服を奪い、身分を偽って検問をいくつも通り抜けた。画家見習い時代に培った観察眼が、皮肉にもここで役に立った。

数週間後、俺はついに首都に潜入し、指導者の屋敷の場所を突き止めた。厳重な警備網。だが、俺と同じ目的を持つ者たちの気配も感じた。自軍の暗殺部隊だ。時間は残されていない。

俺は満月が黒い雲に隠れた夜を狙い、屋敷の壁をよじ登った。そして、一つの窓から光が漏れている部屋を見つけ、息を殺して中を覗き込む。そこに、彼女はいた。ベッドの上で静かに本を読む少女。月明かりに照らされたその瞳は、聞いていた通り、澄み切った空のような、深い青色をしていた。このモノクロの世界にあって、その存在だけが奇跡のように輝いていた。

その時、背後に複数の気配を感じた。暗殺部隊だ。俺は窓を突き破り、部屋の中に飛び込んだ。少女が驚いて小さな悲鳴を上げる。

「動くな!僕が守る!」

俺は短剣を構え、次々と部屋に侵入してくる黒装束の男たちと対峙した。彼らはかつての仲間だった。だが、彼らの瞳には何の感情も浮かんでいない。ただ任務を遂行する機械だった。

戦いは、一瞬だった。多勢に無勢。俺は腹部に深々と刃を突き立てられ、冷たい壁に背中から崩れ落ちた。視界が急速に白んでいく。ああ、これで「青」も消えてしまうのか。俺のくだらない感傷のせいで、結局、少女も、最後の色も、守れなかった。

薄れゆく意識の中、俺はポケットに忍ばせていた小さな木炭を握りしめた。画家だった頃の、最後の名残。震える手で、血に濡れた壁にそれを走らせる。

線を描く。単純な線。色などない。でも、俺には見えていた。笑う父の顔。優しかった母の顔。故郷の黄色い向日葵畑。燃えるような赤のリンゴ。生命力に満ちた緑の森。そして、俺が焦がれた、どこまでも広がる青い空。失われた全ての色彩を、俺は祈りを込めて線に託した。

最後に、ベッドで震える少女の青い瞳を描こうとした瞬間、俺の指から力が抜け、木炭が床に落ちた。それが、俺の最期だった。

しかし、世界から「青」は消えなかった。

代わりに、信じられないことが起きた。俺が壁に描いた、ただの木炭の線画が、ふわりと淡い光を放ち始めたのだ。それは赤でも青でも黄色でもない。何色でもない、名もなき光。暖かく、柔らかく、まるで夜明けの最初の光のような、新しい「彩り」だった。

暗殺者たちは、その予期せぬ光景に立ち尽くしていた。ベッドの上で、少女は涙を流しながら、その光に見入っていた。彼女の美しい青い瞳に、俺が遺した名もなき光が、小さな星のように映り込んでいる。

失われた色は、もう戻らないだろう。戦争も、すぐには終わらないかもしれない。だが、世界には新しい彩りが生まれた。誰かの死によって色を奪い合うのではなく、誰かの生きた証が、創造の意志が、新たな光を生み出すことができる。その壁の絵は、灰色の世界に灯った、最初の希望となった。破壊の果てに、名もなき画家が遺した、消えることのない光の誕生だった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る