第一章 錆びた音叉と子守唄
リヒトの世界は、寸分の狂いもなく調整された音階で構成されていた。彼が働く「再教育センター」の第四調律室は、その世界の中心だった。壁も床も継ぎ目のない乳白色の金属で覆われ、空気は濾過されて埃一つない。ここで彼は「魂の調律師」として、戦争で捕らえられた敵国の兵士たちの精神を「調律」する。恐怖、憎悪、故郷の記憶。そういった戦争遂行の邪魔になる不協和音を、特殊な音叉を使って消し去り、従順な労働力へと作り変えるのが彼の仕事だった。
リヒトにとって、それは崇高な医療行為であり、芸術ですらあった。彼は対象を「患者」と呼んだが、心の中では「壊れた楽器」と見なしていた。彼の銀色の音叉が、患者の額の数センチ上で微かに震える。キィン、と澄んだ音が空間を支配し、共鳴技術によって相手の脳神経に直接働きかける。抵抗する精神は不快なノイズを発し、記憶の棘は鋭い高音となってリヒトの感覚を刺す。彼はそれらを一つずつ丁寧に取り除き、魂を滑らかな無音の状態に整えていく。彼の指先から生み出される調律は完璧で、これまで一人の失敗も出したことはなかった。
その日、彼の前に運ばれてきたのは、記録によれば「エリアス」という名の若い兵士だった。泥と血に汚れた軍服は剥がされ、白い衣に着替えさせられている。長い睫毛に縁取られた瞳は、消耗しきってはいるが、他の捕虜たちのような完全な絶望とは違う、静かな光を宿していた。
「始めよう」リヒトは助手に短く告げ、いつものようにエリアスの前に立った。銀の音叉を構え、集中力を高める。彼の意識が、エリアスの精神の表層へと沈み込んでいく。戦場の轟音、硝煙の匂い、仲間の断末魔。ありふれた戦争の記憶だ。リヒトは眉一つ動かさず、それらのノイズを慎重に剥がしていく。
作業が中盤に差し掛かった時だった。不意に、リヒトの耳の奥で、奇妙な旋律が鳴った。それは、これまで彼が扱ってきたどの記憶とも違う、温かく、もの悲しいメロディ。荒れ狂う精神の嵐の、その一番深い場所から、微かに聞こえてくる子守唄だった。
リヒトの手が、コンマ数ミリほど震えた。心臓が冷たい金属に締め付けられたような衝撃。なぜなら、その子守唄は、彼自身が忘れたはずの、記憶の片隅にこびりついて離れない旋律だったからだ。誰に聞かせるでもなく、無意識に口ずさんでしまう、自分だけの歌。それがなぜ、この「壊れた楽器」の中から聞こえてくるのか。
調律室の完全な静寂の中で、リヒトは初めて、自分の音階が乱れていくのを感じていた。目の前の男は、ただの患者ではない。彼の完璧な世界に、あり得ない不協和音を響かせる、一つの巨大な謎だった。
第二章 記憶の残響
リヒトはエリアスの「調律」を中断させた。公式には「予測不能な精神抵抗のため、経過観察を要す」という報告書を提出した。前例のないことだったが、彼の完璧な実績が、上官の疑念をかろうじて封じ込めた。
独房に移されたエリアスを、リヒトは毎夜、密かに訪れた。監視システムの記録をループさせ、誰にも気づかれずに第四調律室へと彼を運び込む。それは職務を逸脱した危険な行為だったが、リヒトを駆り立てる衝動は、恐怖を凌駕していた。あの子守唄の正体を突き止めなければ、彼の調律された世界そのものが崩壊してしまう。
リヒトは音叉の出力を最小限に絞り、エリアスの精神に深く、慎重に潜っていった。もはやそれは「治療」ではなかった。禁じられた盗掘行為に近い。エリアスの記憶の地層を、彼は息を殺して掘り進める。
そこに見えたのは、敵国のプロパガンダが語るような、野蛮で暴力的な世界ではなかった。黄金色の麦畑を渡る風の音。焼きたてのパンの香ばしい匂い。暖炉のそばで、木彫りの小鳥を削る父親の皺深い手。そして、優しい笑顔で自分たちを見守る母親。その風景は、なぜか強烈な郷愁をリヒトに感じさせた。彼には両親の記憶も、故郷の記憶もない。彼は国の施設で育った戦災孤児であり、彼の過去は白紙のはずだった。
夜ごと続く精神のダイブの中で、あの子守唄は次第に鮮明になっていった。それはエリアスの母親が、彼と、そしてもう一人、彼の隣で眠る小さな弟のために歌っていた歌だった。リヒトは、その弟の視点から記憶を追体験しているかのような、奇妙な感覚に襲われた。弟の手の温もり、兄の背中の広さ、母親の歌声の揺らぎ。五感が揺さぶられるたびに、リヒトの胸には説明のつかない感情が込み上げてくる。それは、彼がこれまで効率化のために切り捨ててきた、温かくも切ない「何か」だった。
彼はエリアスの公式記録を調べ直した。改竄と欠落だらけのデータの中から、かろうじて彼の出身地が「アストラの村」という、現在は紛争によって地図から消えた場所であることを見つけ出した。リヒトは自分の個人記録も照会してみた。彼の記録もまた、「所属不明の戦災孤児、保護地アストラ近郊」という記述で始まっていた。
点と点が、線で結ばれようとしていた。リヒトは自分の喉が渇き、指先が冷えていくのを感じた。彼は知りたくなかった。信じたくなかった。だが、彼の魂が、目の前の男の魂と共鳴し、一つの真実を奏でようとしていた。
第三章 ひび割れた調律
最後のダイブを決意した夜、リヒトは決意を固めていた。どんな真実が待っていようと、それを受け入れ、そしてこの不協和音を完全に消し去るのだ、と。彼は音叉を強く握りしめ、エリアスの精神の最深部、子守唄が生まれる源泉へと一気に降下した。
嵐が吹き荒れていた。しかしそれは戦場の嵐ではない。悲しみと喪失の嵐だった。燃え盛る家々。黒煙を上げる麦畑。そして、リヒトのよく知る軍服を着た兵士たちが、村人たちを容赦なく撃ち倒していく光景。それは、リヒトが所属する祖国の、輝かしい「領土解放」の歴史の一幕だった。
そして、彼は見てしまった。
暖炉のあった家で、木彫りの小鳥を握りしめた父親と、二人の息子を庇うように両腕を広げた母親が、銃弾に倒れる瞬間を。
幼い兄弟は、兵士たちに引き裂かれた。泣き叫ぶ弟の手を、必死に掴もうとする兄。その兄こそが、エリアスだった。そして、恐怖に顔を歪め、連れ去られていく弟は――。
リヒトは息を呑んだ。弟の瞳に映る絶望は、鏡に映した自分自身の顔だった。
失われた記憶が、濁流となってリヒトの脳内になだれ込んできた。エリアスは敵ではなかった。彼は兄だった。僕の、たった一人の兄さん。僕たちが住んでいたアストラの村は、僕の祖国によって滅ぼされ、僕は記憶を消され、敵を憎むように教育され、そして今、この手で実の兄の魂を破壊しようとしていた。
「ああ……ああああ……っ!」
声にならない叫びが、リヒトの口から漏れた。彼が信じてきたすべてが、ガラスのように砕け散った。正義、祖国、崇高な任務。それらは全て、彼から家族と故郷と記憶を奪った者たちが作り上げた、巨大な嘘だった。彼が施してきた「調律」は、医療行為などではない。魂の殺戮だ。彼は、自分と同じような境遇の人間を、何人も、何十人も、感情のない機械に変えてきたのだ。
銀色の音叉が、彼の手から滑り落ちた。カラン、と乾いた音が、乳白色の部屋に虚しく響く。それは、リヒトの世界が完全に崩壊した音だった。彼はその場に膝から崩れ落ち、虚ろな目で、眠り続ける兄の顔を見つめた。その寝顔は、遠い記憶の中の、隣で眠っていた無邪気な少年の面影を色濃く残していた。
第四章 ふたつの魂のためのソナタ
夜明けが近づいていた。リヒトに残された時間は少ない。彼は選択しなければならなかった。兄を「調律」して無音の魂に変え、これまで通りの完璧な調律師として生きるのか。それとも、すべてを裏切り、人としての道を選ぶのか。
答えは、とうに出ていた。
リヒトは床から音叉を拾い上げた。しかし、彼がこれから奏でるのは、忘却の旋律ではない。再生のソナタだ。彼は目を閉じ、意識を集中させた。自分の記憶、砕け散ったガラスの破片のような記憶を一つ一つ拾い集める。母親の歌声、父親の木彫りの小鳥、兄と駆け回った麦畑。そして、兄弟であったという、たった一つの、しかし何よりも強固な真実。
彼はその記憶のすべてを、音叉に乗せた。それはもはや調律ではなかった。魂の移植だった。彼は、エリアスから奪われようとしていた記憶を修復し、さらに自分の取り戻した記憶を、兄の魂へと注ぎ込んだのだ。僕たちが兄弟であったという証を、決して消えないように、深く、深く刻み込むために。
キィィン、とこれまでとは全く違う、温かく力強い音が響き渡った。エリアスの瞼が微かに震える。
リヒトは最後の力を振り絞り、施設のメインコンソールを操作した。最高レベルの警報を意図的に発報させ、全区画のロックを一時的に解除する。けたたましいサイレンが鳴り響き、廊下を兵士たちの怒声と足音が満たした。
彼は眠りから覚めかけたエリアスの腕を掴み、力強く揺さぶった。
「兄さん! 目を覚まして! エリアス!」
エリアスの瞳が、ゆっくりと開く。その目はもう虚ろではなかった。混乱と、そして微かな認識の光が宿っている。
「……リヒト?」
かすれた声で呼ばれた名に、リヒトの胸が締め付けられる。そうだ、それが僕の名前だ。
「逃げるんだ、エリアス。ここから出て、西へ。国境の森を越えれば、中立地帯がある」
リヒトは自分の認識票を兄のポケットにねじ込んだ。「これがあれば、いくつかの検問は抜けられる。行け! 僕の分まで生きて、母さんの歌を、僕たちの故郷の歌を歌い続けてくれ!」
ドアが破られ、武装した兵士たちがなだれ込んでくる。リヒトは彼らの前に両手を広げて立ちはだかった。エリアスはその一瞬の隙に、混乱の中へと姿を消した。
兵士たちに取り押さえられながら、リヒトは穏やかな気持ちでいた。彼の世界を構成していた冷たい音階はもうない。だが、彼の魂の中では、温かい子守唄が、兄との記憶が、力強い和音となって響き続けていた。彼は初めて、本当の自分自身の音を聴いた気がした。
***
数ヶ月後。雪に覆われた国境近くの森で、一人の男が焚き火にあたっていた。男、エリアスは、凍える手で木片を削り、一羽の不格好な小鳥を作り上げた。彼は夜空を見上げ、震える声で、しかし確かに、懐かしい子守唄を口ずさみ始めた。
それは、遠い場所にいる弟が、その命と引き換えに託してくれた記憶の旋律。戦争はまだ終わらない。世界は嘘と憎悪に満ちている。だが、たった一つの魂の共鳴が、巨大な偽りの世界に、消えることのない小さな真実の灯をともした。その歌声は、二つの魂のためのソナタとして、冬の夜空に静かに響き渡っていった。