感情の柩
第一章 泥濘の記憶
腐った肉と鉄錆の混じり合った悪臭が、鼻腔の奥にへばりついて離れない。
俺、カインは泥濘(ぬかるみ)に膝をつき、激しく嘔吐した。胃の中身などとうに空だ。吐き出されているのは、俺のモノではない。三日前にここで死んだ若き兵士の、故郷に残した母への絶叫だ。
「やめろ……入ってくるな……」
頭蓋の内側を、無数の他人の指がかき回す感覚。
この谷は「感情の澱(おり)」が濃すぎる。死者たちの憎悪が土壌を黒く染め上げ、踏みしめるたびに足首を掴むような粘り気を発していた。
視界の端で、黒い靄(もや)が人の形をとる。影の兵団だ。彼らはまだ、自分が死んだことさえ知らず、見えない敵に向かって永遠に剣を振るっている。
俺は震える手で、胸元の「錆びた懐中時計」を握りしめた。
冷たい金属の感触。盤面のガラスはひび割れ、長針は永遠に「十二時五分前」で止まっている。これは、かつて俺の部隊で最初に死んだ男の遺品だ。彼が最期に抱いた「家に帰りたい」という強烈な未練が、この小さな筐体に封じられている。
「鎮まれ」
念じると、時計が微かに熱を帯びた。その熱が俺の血管を巡り、逆流してくる他人の絶叫を一時的に押し流す。
だが、代償に時計の分針が「カチリ」と音を立てて動いた気がした。止まったはずの時間は、俺が死者の力を借りるたびに、破滅へと一刻ずつ進んでいく。
ふと、泥の中から微かな歌声が聞こえた気がした。
それは戦場の呻き声とは違う。優しく、温かい、雨上がりの匂いがする声。
エリス。
俺の愛する女。彼女だけは、戦火に焼かれることなく穏やかに逝ったはずだ。その記憶だけが、俺を人として繋ぎ止める最後の楔(くさび)だった。
第二章 双子の慟哭
戦場の最深部、かつて王都と呼ばれた廃墟の中心で、俺はその「根源」と対峙していた。
そこには、二つの巨大な影が渦巻いていた。
一つは、氷のように冷徹な青い影。それは「秩序による平和」を叫び、すべての自由を断罪しようとしていた。
もう一つは、燃え盛る炎のような赤い影。それは「解放による救済」を咆哮し、すべての支配を焼き尽くそうとしていた。
「我こそが正義! 恒久の安寧のために!」
「我こそが真理! 無垢なる自由のために!」
相反する絶叫が、俺の鼓膜を突き破り、脳髄を焼き切らんばかりに響く。
これだ。世界中の戦場で俺が感じ続けてきた、相容れない二つの感情。すべての兵士を狂わせ、殺し合いを強制する「矛盾」の正体。
俺は理解した。これは神の喧嘩ではない。
かつてこの世界を創ろうとした何者かの、たった一人の人間のような、あまりにも悲しい自己分裂だ。
平和を願うあまりに「他者を管理したい」と願った恐怖と、「誰も傷つけたくない」と願った優しさ。その二つが極限まで純化され、互いを敵と認識して殺し合っている。
俺の体内で、吸収してきた数千の死者の魂が共鳴し、悲鳴を上げた。
限界だ。視界が赤く明滅する。
皮膚の下で何かが蠢き、俺の肉体が「器」としての形を保てなくなりつつある。もし今、俺が理性を手放せば、俺自身が新たな災厄、「未練の怪物」となってこの地を蹂躙するだろう。
懐中時計が、かつてないほど激しく脈打っていた。
針は、十二時まであと一分。
第三章 無色の祈り
「……俺が、終わらせる」
俺は懐中時計を強く握りしめ、二つの影の只中へと歩みを進めた。
青い影が俺を凍らせようとし、赤い影が俺を焼こうとする。だが、俺の体は既に、それらを凌駕するほどの「澱」で満ちている。
俺は心の防壁を、すべて解き放った。
拒絶するのではなく、受け入れる。
兵士たちの無念、母たちの嘆き、そして目の前で争う創造主の孤独な絶望。その全てを、俺という一点に吸い込み、圧縮する。
「う、ああああああああッ!」
全身の骨が軋み、砕ける音がした。血管という血管が沸騰し、魂がミキサーにかけられるような激痛が走る。
俺の存在が、黒い渦となって世界中の「感情」を飲み込んでいく。
憎しみも、悲しみも、喜びさえも。
「カイン……」
薄れゆく意識の底で、エリスの声がした。
そうだ。これだけは渡さない。
俺は魂の最も深い場所に、彼女の温かい記憶を隠した。夕暮れの台所でスープを作る背中。雨上がりの空にかかる虹を見て微笑む横顔。その鮮やかな色彩だけを、硬い殻で包み込み、飲み込まれる世界の奔流から守り抜く。
懐中時計の針が、ついに十二時を指した。
ガラスが砕け散る音と共に、俺の世界は完全な静寂に包まれた。
第四章 感情の果て、色彩の始まり
雨が降っていた。
灰色の雲が垂れ込める空から、音もなく降り注ぐ雨が、乾いた大地を濡らしている。
少女は窓辺に立ち、ぼんやりと外を眺めていた。
戦争は終わった。というより、誰も戦う理由を思い出せなくなったのだ。
人々は淡々と畑を耕し、淡々と食事をし、淡々と眠る。隣人が死んでも「ああ、いなくなったな」と事実を確認するだけだ。怒りもなければ、嘆きもない。世界はとても静かで、そして、どこまでも平坦だった。
「……あ」
少女が不意に声を漏らす。
灰色の雲が割れ、一筋の光が差し込んだ。
雨上がりの空に、七色の帯がかかっている。
それは、この無機質な世界には存在しないはずの、暴力的なまでに鮮やかな色彩だった。
少女は胸の奥が、きゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。痛いような、でも温かいような、名前のつかない感覚。
理由もわからず、彼女の瞳から雫がこぼれ落ちた。
「きれい……」
彼女は呟く。その言葉には、微かな熱が宿っていた。
虹はすぐに消えてしまったが、少女の胸に残った小さな灯火は消えなかった。
それは、かつて誰かが命を懸けて守り抜いた、愛の記憶の残滓。
モノクロームの世界に撒かれた、たった一粒の、感情の種だった。