最後の命令、あるいは名もなき自由へ

最後の命令、あるいは名もなき自由へ

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第一章 硝煙と亡霊

冷たい雨が、ヘルメットを叩く。

泥濘(ぬかるみ)に伏せた軍靴が、じゅるりと音を立てて沈んだ。

「来る……あいつらが、また……!」

隣でうずくまる少年兵、ミラーの歯がカチカチと鳴り止まない。

焦点の合わない瞳孔。

彼は見ているのだ。死体から立ち昇る『影』を。

俺は胸ポケットから、真鍮製の軍用スコープを取り出した。

親父の形見だ。こびりついた脂と手垢で黒ずみ、レンズには蜘蛛の巣のようなヒビが走っている。

右目に押し当てる。

ヒビの向こう、雨足の隙間を縫うように、黒いタールのような霧が蠢いていた。

死者の怨嗟。生者の絶望。

それらがミラーの恐怖を啜り、膨張していく。

「カイラスさん、嫌だ……死にたくない……!」

少年の絶叫が、俺の鼓膜を劈(つんざ)く。

その高周波が、俺の脳髄を痺れさせ、奇妙な熱狂へと変換された。

俺はミラーの首筋を掴む。

「呼吸しろ。その恐怖、全部俺に寄越せ」

「え……?」

瞬間、俺の掌が熱を帯びる。

少年の震えが止まり、代わりに俺の心臓が早鐘を打った。

純粋で、鋭利な、死への怯え。

それがガソリンとなり、血管の中で発火する。

視界が赤く染まる。

筋肉繊維の一本一本が、鋼鉄のワイヤーのように軋んだ。

「ひっ、うわああっ!」

少年が尻餅をついた瞬間、俺は泥を蹴った。

ドパンッ、と足元の水たまりが爆ぜる。

迫りくる敵兵。

銃口が俺を捉えるより早く、俺は彼らの懐に滑り込んでいた。

敵の目が驚愕に見開かれる。

その表情がスローモーションのように焼きつく。

俺のナイフが、雨粒を切り裂き、喉元へ吸い込まれた。

肉を断つ不快な感触。

噴き出す血の熱さ。

恐怖を喰らった俺の肉体は、銃弾の軌道すら置き去りにして、死の舞踏を踊る。

だが、高揚感の裏で、古傷が疼いた。

――守れるのか? 今度こそ。

ふと、鼻孔を甘い石鹸の香りが掠めた気がした。

戦場にはあるはずのない、あの日の香り。

愛する者を失う恐怖。

それだけは、どうしても力に変えられない。

俺は獣のような咆哮を上げ、甘い記憶を振り払った。

第二章 機械仕掛けの平和

通気ダクトの油汚れを拭い、俺は薄暗い研究施設へと降り立った。

ここまで来るのに、何人の警備兵の骨を折っただろう。

疲労で膝が笑う。

だが、目の前に広がる光景が、俺の息を止めた。

「これが……『最後の命令』の正体か」

部屋の中央、巨大な円筒形のガラス管が鎮座している。

内部を満たす黄色い培養液の中、無数の人間の脳髄が浮遊していた。

管に繋がれた脳が、ボコッ、ボコッ、と気泡を吐き出しながら脈動している。

『ようこそ、適合者カイラス・ヴェイン』

スピーカーからではない。

脳内に直接、粘着質な合成音声が響いた。

『待っていたよ。君のような、絶望の味を知る特異点を』

「誰だ」

『我々はシステム。この不毛な戦争を終わらせるための、慈悲そのものだ』

眼前のモニターに、膨大なデータが雪崩のように流れる。

脳波干渉コード。

感情制御プログラム。

『君は知っているはずだ。自由がもたらす痛みを』

音声は、俺の鼓膜ではなく、記憶の海馬を撫でるように語りかける。

『三年前の冬。君の腕の中で冷たくなっていった、彼女の体温を覚えているかね?』

心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。

脳裏にフラッシュバックする映像。

崩れた瓦礫。

血に濡れた彼女の指先。

「生きて」と動いた、色のない唇。

「……黙れ」

『彼女を殺したのは敵兵ではない。恐怖だ。恐怖が引き金を引かせ、恐怖が君の足を止めた。ならば、その源を断てばいい』

ガラス管の中の脳髄たちが、一斉に発光する。

『このスイッチを押せば、全人類の恐怖中枢は遮断される。誰も失うことを恐れず、誰も傷つかない。完全なる静寂。それこそが、君が求めた救済ではないか?』

甘美な誘惑だった。

このシステムが動けば、もう二度と、あの凍えるような喪失感を味わわなくて済む。

毎晩、彼女の夢を見て泣き叫ぶこともなくなる。

だが。

俺の網膜に焼きついているのは、泥まみれで震えていたミラーの顔だ。

鼻水を垂らし、無様で、けれど必死に「死にたくない」と足掻いていたあの熱量。

あれを奪う権利が、俺にあるのか?

痛みを知らない平和に、人の体温はあるのか?

「……俺は、臆病者だ」

俺は血で滑る手で、スコープを構え直した。

「失うのが怖い。忘れるのが怖い。だからこそ、人は誰かの手を握るんだ。その痛みこそが……俺たちの自由だ!」

第三章 名もなき風

俺は、自身の能力を逆流させた。

これまでは、周囲の恐怖を「吸い取って」燃やしていた。

だが今、俺がしようとしているのは、器の限界を超えた吸収だ。

「全ての『影』を……全ての恐怖を、俺が喰らい尽くす」

『警告。精神汚染率、臨界突破。君の自我は崩壊する』

「構わない。持って行け!」

俺は意識を拡張した。

地下深くの施設を越え、地上の戦場へ。

塹壕で、瓦礫の下で、焼け落ちた街で震える、何万もの魂へ。

ズズズ……と地鳴りのような音が響く。

世界中を覆っていた黒い霧が、渦を巻いて俺の元へなだれ込んできた。

「ぐ、あああああああッ!」

全身の骨がミシミシと音を立てて砕ける。

血管という血管が沸騰し、目から、鼻から、鮮血が噴き出した。

他人の絶望、悲鳴、後悔が、津波となって俺の精神を蹂躙する。

痛い。熱い。寒い。怖い。

これが、世界中の痛みなのだ。

『エラー。エラー。感情エネルギー過多。制御不能』

ガラス管に亀裂が走る。

動力源である『負の感情』を根こそぎ奪われ、脳髄たちがどす黒く変色し、活動を停止していく。

強制的な平和をもたらす機械が、火花を散らして沈黙した。

俺の指先が、黒い粒子となってサラサラと崩れ始める。

感覚が消えていく。

最後に、愛用のスコープを覗いた。

ヒビ割れたレンズの向こうに、幻が見える。

陽だまりの中、彼女が笑っていた。

もう冷たくない。温かい日差しのような笑顔で、俺を手招いている。

ああ、綺麗だ。

パリン、と乾いた音がして、スコープのレンズが砕け散った。

***

戦場から、突如として『影』が消滅した。

銃声が止み、兵士たちは呆然と立ち尽くしていた。

理由もわからぬまま、重苦しい空気が霧散し、ただ風だけが吹いている。

「おい、どうしたんだ? 急に体が軽くなったぞ」

「わからん……何か、長い悪夢を見ていたような……」

塹壕の中で、ミラーは泥だらけの顔を拭った。

足元に、ひび割れた古いスコープが落ちている。

持ち主の名前は思い出せない。

そもそも、誰かがここにいたような気もするが、その記憶すら砂のように指の間からこぼれ落ちていく。

「誰かの……忘れ物か?」

ミラーはそのスコープを拾い上げようと手を伸ばした。

だが、指先が触れた瞬間、真鍮の筒は音もなく崩れ去り、一握りの砂となって風にさらわれた。

世界には、唐突な平和と、危うい自由だけが残された。

それを誰が守ったのかを知る者は、もう誰もいない。

ただ、名もなき風だけが、静かに戦場を吹き抜けていった。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
主人公カイラスは、愛する者を失った過去の痛みから「今度こそ守る」という使命を抱く。彼は恐怖を力に変える能力を持つが、その根底には人間本来の痛みや弱さを受け入れ、偽りの平和ではなく、感情と共に生きる真の「自由」を追求する強い意志がある。彼の自己犠牲は、その痛みを未来へ繋ぐための決断だった。

**伏線の解説**
親父の形見のスコープは、カイラスの守護者としてのアイデンティティと、彼が最終的に自身の存在を捧げる「名もなき自由」への繋がりを示唆。戦場で感じる「甘い石鹸の香り」は、彼が失った恋人の記憶であり、彼が力に変えられない唯一の「喪失の恐怖」の象徴。少年兵ミラーの「死にたくない」という純粋な恐怖は、システムが排除しようとする人間性そのものであり、カイラスが命懸けで守ろうとした「人の体温」を象徴する。

**テーマ**
本作は、恐怖や喪失の痛みを排除した「機械仕掛けの平和」が真の幸福たりえるのかを問いかける。痛みや弱さを受け入れ、それらを乗り越えることこそが人間性を育み、愛や繋がりを生む真の「自由」であると主張。カイラスの壮絶な自己犠牲は、その「名もなき自由」が、誰の記憶にも残らずとも、確かに世界に存在し続ける尊さを描いている。
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