第一章 灰色の空と矛盾の依頼
空は、いつから色を失ってしまったのだろうか。
調色師である俺、リノの工房の天窓から見える空は、ただ一様に、のっぺりとした灰色だった。海も、遠い山脈も、かつて「アジュール」や「セルリアン」と呼ばれた無数の青が溶け合っていた世界の全てが、今は濃度を変えただけの無機質な灰色に塗りつぶされている。
大戦が始まって十年。敵国との間で繰り広げられる「色彩剥奪戦争」は、人々の記憶から、そしてこの世界そのものから、着実に彩りを奪い去っていた。敵国が開発した「色彩終焉弾」は、物理的な破壊を伴わない。ただ、指定された一つの色の波長を、この地上から完全に消滅させるのだ。最初に消されたのは、敵国の象徴色である「翠(みどり)」だった。そして報復として、我が国は敵国の空から「青」を奪った。
俺の仕事は、失われた色を再現することだ。古い文献を紐解き、顔料の痕跡を分析し、人々のかすかな記憶の欠片を繋ぎ合わせる。それは、失われた神話の神を蘇らせるような、途方もない作業だった。工房の壁には、何百枚もの色見本が貼られている。そのほとんどは、俺が追い求める「青」の、無力な近似色に過ぎなかった。
「まだ青に取り憑かれているのか、リノ」
背後からの声に、俺は筆を置いた。染み付いた顔料で汚れた布で手を拭いながら振り返ると、そこには軍服に身を包んだ男、ザイード准将が立っていた。彼の硬質な瞳は、俺の失敗作の山を、まるで瓦礫でも見るかのように見下ろしている。
「准将。何の御用です。ここは戦場ではありません」
「戦場はどこにでもある。君のその手も、戦っているのだろう」
ザイードは、俺の絵の具に染まった指先を顎で示した。彼の言葉にはいつも、硝煙の匂いが混じっている。
「それで、依頼とは?」
俺は単刀直入に尋ねた。軍が俺のような職人に用があるなど、ろくなことではない。
准将は工房の中央まで歩を進め、俺の作業台に置かれた一枚のカンバスを指差した。それは俺が描いた、燃えるような夕焼けの絵だった。まだこの世界に「赤」が残っていた頃の、記憶の中の風景。
「美しい赤だ」と彼は言った。「情熱、生命、危険。あらゆる感情を喚起させる」
その言葉に、俺は嫌な予感を覚えた。次の標的が「赤」であることは、誰もが噂していた。
「まさか、俺に戦争協力をしろと?」俺は声を荒げた。「色を愛する俺に、色を消す手伝いをしろと言うのですか」
「その通りだ。だが、少し違う」
ザイードは俺の目を真っ直ぐに見据えた。彼の瞳の奥に、灰色ではない、何か昏い光が揺らめいた。
「君には、この世界で最も完璧な『赤』を創り出してもらいたい。我々が敵国の『赤』を消すために。それが依頼だ」
俺は耳を疑った。矛盾。完全なる矛盾だ。色を消すために、最も美しい色を創る?馬鹿げている。まるで、命を奪うために、最も美しい赤子を用意しろと言われているようなものだ。
「……意味が分かりません」
「理解する必要はない。ただ、最高の調色師である君の力が必要だ。これは戦争を終わらせるための、最後の希望なのだ」
ザイD-ドはそう言うと、一枚の辞令書をテーブルに置いた。特別研究室の使用許可証。国家が持つありとあらゆる顔料と素材へのアクセス権。そして、拒否権はない、とでも言うような強い圧力。
灰色の天窓から差し込む光が、辞令書の金文字を鈍く光らせていた。俺の心は、深い霧に覆われた灰色の海のように、行き先を見失っていた。
第二章 緋色の探求
俺は、悪魔に魂を売った。ザイードの矛盾した依頼を引き受けた俺を、仲間たちはそう罵った。だが、俺には確信があった。この手で至高の色を生み出すことができれば、人々は色の価値を再認識し、その喪失を恐れるだろう。戦争を終わらせるのは、兵器ではなく、人の心を動かす美なのだと。そう信じたかった。
軍の研究所は、俺の小さな工房とは何もかもが違っていた。無菌室のように清潔で、巨大な遠心分離機や分光分析器が静かに唸りを上げている。そして何より、そこには世界中から集められた、今や幻となった鉱石や植物が保管されていた。辰砂、紅花、西洋茜、そして伝説の生物の血液と言われる液体まで。それは調色師にとって、禁断の果実が並ぶ楽園だった。
俺は狂ったように「赤」の探求に没頭した。日が昇り、灰色に沈むのも忘れ、何日も研究室に泊まり込んだ。赤は、ただの「あか」ではなかった。生命の源である血の赤、情熱を掻き立てる炎の赤、熟した果実の甘美な赤、そして、沈む太陽が空に残す、哀切の赤。俺はその全てを一枚のカンバスの上に統合しようとしていた。
そんな俺の元に、一人の助手が付けられた。エリアナという名の、まだ若い女性だった。彼女は色素の化学分析が専門で、大きな瞳には純粋な好奇心が満ちていた。
「リノさん。どうして、そんなに色に拘るのですか?」
ある夜、試作を繰り返して疲弊していた俺に、彼女は尋ねた。彼女の世代は、生まれながらにして緑のない世界で育ち、青い空を知らない。
「色がない世界は、記憶がない世界と同じだからだ」と俺は答えた。「嬉しかった記憶も、悲しかった記憶も、色褪せて、やがて同じ灰色になっていく。俺はそれに抗いたいんだ」
エリアナは、俺が調合したばかりの深紅の顔料を、うっとりと見つめていた。
「綺麗……。これが『カーマイン』。昔の恋人たちが、この色で愛を誓ったって本で読みました」
彼女の言葉に、俺はハッとした。そうだ。俺は「赤」の化学的な側面ばかりを追い求め、そこに込められた人々の想いや物語を忘れかけていた。
その日から、俺の研究は変わった。エリアナが古文書から見つけてくる「赤」にまつわる詩や物語を読み、俺はその情景を顔料に落とし込んでいった。愛を告白する乙女の頬の赤。王が戴冠式で纏う威厳の赤。革命家が流した血の赤。俺のパレットナイフの上で、無数の赤が混ざり合い、一つの究極へと収斂していく。それは、もはや単なる色の再現ではなかった。失われた感情そのものを、この世界に呼び戻す儀式だった。
そして三月後、ついにその瞬間は訪れた。
夜明けの光が差し込む研究室で、俺は最後の一滴をカンバスに垂らした。それは、全ての赤を超越した「赤」だった。見る角度によって、燃えるような情熱にも、慈愛に満ちた温もりにも、そして胸を抉るような悲しみにも見えた。生命そのものが凝縮されたような、神々しいまでの輝き。俺は自らの創造物に見惚れ、震えていた。
「……完成、したんですね」
隣に立つエリアナの声も、震えていた。彼女の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は、俺が創り出した完璧な赤を、小さく濡らした。
第三章 真紅の絶望
完成した「赤」は、ザイード准将の手に渡った。俺は達成感と同時に、我が子を人身御供に出すような、深い罪悪感に苛まれていた。この美しさが、世界から別の美しさを奪うために使われる。その矛盾が、鉛のように心にのしかかった。
その夜、俺は自室で一人、酒を煽っていた。工房の壁に貼られた、不完全な青の色見本たちが、まるで俺を嘲笑っているように見えた。お前は青を救うこともできず、今度は赤を殺すのか、と。
ドアをノックする音がした。そこに立っていたのは、エリアナだった。彼女の顔は青ざめ、瞳は恐怖に揺れていた。
「リノさん、逃げて」
彼女はか細い声で言った。
「どういうことだ?」
「全部、嘘だったんです。ザイード准将の計画は……」
エリアナは堰を切ったように話し始めた。その内容は、俺の足元を根底から崩壊させるのに十分すぎるほど、衝撃的だった。
色彩終焉弾のメカニズム。それは、単純な波長の相殺ではなかった。
「あの兵器は、対象となる色の『概念の極致』を触媒にするんです」
エリアナは震える声で続けた。
「最も完璧で、最も理想的な色の情報を弾頭に組み込むことで、共鳴現象を引き起こし、その色に連なる全ての波長、全ての概念を、この次元から消滅させる……。不完全な色では、共鳴は起きない。だから、准将はあなたを必要としたんです」
つまり、俺が創り出した「完璧な赤」は、この世界から「赤」という存在そのものを抹消するための、最後の鍵だったのだ。色を守るための美の探求。それは、色を殺すための最も残酷な儀式に過ぎなかった。
「……なぜ、それを」
俺の声は掠れていた。絶望が喉を締め付ける。
「私は……」エリアナは俯き、告白した。「私は、敵国の人間です。この計画を阻止するために、スパイとして潜入しました。でも……」
彼女は顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を見つめた。
「でも、あなたの創る色を見て、私は……魅了されてしまった。あなたが色を愛する心が、本物だと分かってしまったから。あなたを騙していることが、日に日に苦しくなって……。ごめんなさい、リノさん。私がもっと早く打ち明けていれば……」
頭の中で、何かが砕ける音がした。信じていたもの、拠り所にしていたもの、その全てが瓦礫となって崩れ落ちていく。俺はただの道化だった。世界で最も美しい色を創り出し、その手で世界を殺す、愚かな道化。
窓の外に目をやると、軍の基地の方角が、不気味な光に照らされていた。発射準備が始まったのだ。俺が産み落とした真紅の絶望が、もうすぐ世界に放たれる。
第四章 名もなき色の夜明け
絶望の底で、俺の心に小さな炎が灯った。それは怒りだった。ザイードへの怒り、自分への怒り、そして、美を弄び、世界を灰色に変えようとするこの戦争そのものへの、どうしようもない怒りだった。
「行くぞ、エリアナ」
俺は立ち上がった。「俺が終わらせる」
エリアナの案内で、俺たちは夜陰に紛れて発射施設に潜入した。警備兵の目を盗み、冷たい金属の通路を走り抜ける。心臓が肋骨を突き破るほど激しく鼓動していた。目指すは、弾頭がセットされる直前の最終調整室。そこに、俺の「赤」があるはずだ。
調整室にたどり着くと、ガラスケースの中に鎮座するカンバスが目に入った。俺が創り出した「完璧な赤」。それは今や、死刑執行を待つ罪人のように、禍々しい光を放っているように見えた。
「これを破壊すれば……」とエリアナが言う。
だが、俺は首を横に振った。破壊は、新たな憎しみを生むだけだ。俺は調色師だ。破壊者じゃない。
俺は警備の目を盗んで研究室から持ち出していた、ありったけの顔料の瓶を床に並べた。青、黄、紫、橙……まだこの世界に残されている、全ての色の欠片。そして、俺はそれらを一つのパレットの上で、無心に混ぜ合わせ始めた。
「リノさん、何を……?」
エリアナの戸惑う声が聞こえる。俺は答えなかった。ただ、混ぜた。喜びの色も、悲しみの色も。希望の色も、絶望の色も。愛の色も、憎しみの色も。全てを、全てをだ。
やがてパレットの上に、一つの色が生まれた。
それは黒ではなかった。白でも、灰色でもない。光の角度によって、深淵な藍にも、血のような赤にも、若葉の息吹にも見えた。あらゆる色を内包しながら、どの色でもない、名付けようのない複雑で、深淵な色。世界の混沌と、人間の心の全てを溶かし込んだような色だった。
俺はその「名もなき色」を筆に取ると、ガラスケースを叩き割り、俺の「完璧な赤」の上に、塗り重ねていった。赤は、その深淵な色の中に静かに飲み込まれ、消えていった。
「何をしている!」
背後でザイードの声が響いた。駆けつけた彼と兵士たちが、銃口をこちらに向けている。
「全て無駄にしたな、リノ!なぜだ!」
俺は筆を置き、ゆっくりと彼に向き直った。
「准将。あなたは間違っている」俺は静かに言った。「色を消すことは、記憶を消すことだ。美しい記憶だけじゃない。醜い争いの記憶も、過ちの記憶も、全てだ。俺たちは、それら全ての色を抱えて生きていかなくちゃならない。それが、人間であるということだ」
俺の言葉に、ザイードは一瞬、表情を歪めた。彼の瞳の奥に、ほんのわずかな動揺が見えた気がした。
***
結局、俺とエリアナは捕らえられた。だが、色彩終焉弾の発射は中止された。俺が「完璧な赤」を「汚した」ことで、触媒としての価値を失ったからだ。戦争の行方がどうなったのか、俺は知らない。
数年後、俺は解放され、かつての工房に戻っていた。壁には、相変わらず不完全な青の色見本が並んでいる。空も海も、まだ灰色のままだ。
だが、俺はもう「青」を追い求めてはいなかった。
作業台の上には、新しいカンバスがある。俺はその上に、あの日創り出した「名もなき色」を再現しようと試みていた。それは絶望の色か、それとも希望の色か。まだ、答えは出ない。
ただ一つだけ分かることがある。俺はもはや、失われた過去を再現するだけの職人ではない。混沌の中から、まだ誰も見たことのない未来の色を創造しようとする、一人の表現者になっていた。
灰色の天窓から差し込む光が、パレットの上の名もなき色を照らす。それは静かに、だが確かに、無数の可能性を秘めて、そこに存在していた。この世界から彩りが完全に消えることはない。俺たちの心の中に、名付けようのない色が灯り続ける限りは。