第一章 見知らぬルームメイト
朝の光が瞼を突き刺し、意識がゆっくりと浮上する。見慣れない天井。軋むベッド。そして、部屋に満ちる香ばしいコーヒーと、甘いトーストの匂い。僕、湊(みなと)は、混乱の霧の中で身を起こした。ここはいったいどこだ?
「お、起きたか。おはよう、ミナト」
声のした方へ顔を向けると、キッチンに一人の青年が立っていた。歳は僕と同じくらいだろうか。色素の薄い髪が朝日に透け、人懐っこい笑顔をこちらに向けている。彼は僕の名前を知っている。でも、僕は彼の顔に見覚えがなかった。全身の血が、さっと引いていくのを感じる。
「……誰、ですか?」
掠れた声で尋ねると、青年は少しだけ驚いたように目を丸くし、それから悪戯っぽく笑った。
「ひどいな、もう忘れちゃったのか? 俺だよ、カイ。昨日からここに住むことになった、君のルームメイト」
ルームメイト? 僕にそんな記憶はない。そもそも、誰かと一緒に住むなんて、人付き合いが苦手な僕が許すはずがないのだ。警戒心を剥き出しにする僕を意にも介さず、カイと名乗る青年は、マグカップを二つ持ってこちらへやってきた。
「ほら、コーヒー。ブラックでいいんだろ?」
差し出されたマグカップを受け取ってしまう。なぜか、彼の前では無防備になってしまう。コーヒーの温かさが、冷えた指先にじんわりと染み渡った。その感覚は、不思議なほど僕を落ち着かせた。まるで、この温もりをずっと昔から知っているかのように。
部屋を見渡すと、壁という壁に、付箋がびっしりと貼られていた。『カイを信じろ』『彼は敵じゃない』『大丈夫だ』。そのどれもが、紛れもなく僕自身の筆跡だった。記憶のない自分が、未来の自分に宛てた無数のメッセージ。それは、僕の混乱をさらに深いものにした。
カイは僕の向かいに座り、楽しそうにトーストを齧る。「今日のミナトは、なんだか人見知りだな」と彼は言う。その屈託のない笑顔を見ていると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。懐かしい、という感情が嵐のように吹き荒れる。知らないはずのこの男が、どうしようもなく愛おしい。涙が滲みそうになるのを、僕はコーヒーの苦みで必死に誤魔化した。
第二章 積み重なる「はじめまして」
僕の奇妙な日常は、それから毎日繰り返された。朝、見知らぬ青年カイの存在に怯え、部屋中のメモに困惑し、そして彼と話すうちに、説明のつかない親愛の情に包まれる。カイは僕の記憶が毎朝リセットされることを知っているようだった。彼は僕の混乱を決して笑わず、毎日、辛抱強く自己紹介から始めてくれた。
「俺はカイ。君の親友だよ」
ある日、彼はいつもの「ルームメイト」という説明に、その一言を付け加えた。親友。その言葉の響きは、僕の心の柔らかい場所を、優しく撫でた。
僕たちは多くの時間を共に過ごした。近所の公園でキャッチボールをしたり、くだらないコメディ映画を観て腹を抱えて笑ったり、深夜まで音楽について語り合ったり。カイといる時間は、驚くほど自然で、心地よかった。内向的で、常に他人との間に壁を作ってきた僕が、彼にだけは心を開いている。それは、記憶を失った僕自身にとっても、大きな驚きだった。
「どうして、僕の記憶は毎朝なくなるんだろう?」
夕暮れの公園のベンチで、僕はカイに尋ねた。彼は少し遠くを見つめ、静かに答えた。
「さあな。でも、別にいいじゃないか。毎日が新しい始まりってことだろ? 毎日、新しい友達ができる。それって、結構すごいことだと思うけどな」
彼の言葉は、いつも僕を救ってくれる。僕は、この失われた記憶の謎を解き明かしたいという思いと、このままカイとの穏やかな日々が続けばいいという思いの間で揺れていた。自分の過去を知るのが怖かったのかもしれない。
僕は、カイとの日々を忘れないために、日記をつけ始めた。その日あったこと、話したこと、そしてカイに対して感じた温かい感情のすべてを、拙い言葉で書き留めていく。ページをめくるたびに、そこには「カイ」という名前が溢れていた。日記は、僕とカイの友情が、一日限りのものではないことを証明してくれる唯一の繋がりだった。僕は、日記を読み返すことで、前日までの自分とカイの関係を学び、少しずつ彼との距離を縮めていった。それは、毎日新しいパズルのピースを拾い集め、失われた「友情」という絵を完成させていくような、もどかしくも愛おしい作業だった。
第三章 逆さまの真実
その日、僕は偶然、クローゼットの奥に隠されていた古いビデオカメラを見つけてしまった。少し埃を被ったその機材には、見覚えのないラベルが貼られていた。『あの日』と。好奇心に抗えず、僕はカメラの小さな液晶画面を覗き込んだ。
再生ボタンを押すと、砂嵐の後に、粗い映像が映し出された。
『……よし、撮れてるか? ミナト、こっち向けよ!』
画面の向こうから、聞き慣れたカイの声がした。しかし、カメラを構えているのはカイ自身で、レンズが向けられた先にいたのは、僕だった。映像の中の僕は、今よりもずっと痩せていて、俯きがちで、怯えた小動物のように絶えず周囲を窺っていた。今の僕とは、まるで別人だった。
映像の中のカイが、そんな僕の肩を力強く抱く。
『大丈夫だって! 俺がついてる。ミナトは面白いんだから、もっと自信持てよ!』
『……うるさい』
ぼそりと呟く過去の僕。だが、その表情は少しだけ和らいで見えた。
映像は、僕たちが初めて出会った日から、少しずつ打ち解けていく様子を記録していた。孤立していた僕を、カイが根気強く外の世界へ連れ出そうとしてくれていたのだ。僕は、この映像の中にこそ、僕の記憶障害の謎を解く鍵があるに違いないと確信した。
そして、映像は、運命の日を映し出す。
二人でふざけながら横断歩道を渡ろうとした、その瞬間。けたたましいブレーキ音と、カイの叫び声が響いた。
『ミナト、危ない!』
カイが僕を突き飛ばす。次の瞬間、画面は激しく揺れ、地面に叩きつけられた。最後に映っていたのは、アスファルトに広がる赤い染みと、青い空だけだった。
僕は息を呑んだ。事故だ。僕は、この事故で頭を打ち、記憶を……。
いや、違う。映像は続いていた。誰かが拾い上げたカメラが、倒れている人物を映す。そこにいたのは、僕ではなかった。頭から血を流し、ぐったりと横たわっているのは、カイだったのだ。
全身から、ぶわりと汗が噴き出した。混乱する頭で、僕は必死に記憶の断片をかき集める。そうだ。事故に遭ったのは、カイだ。そして、彼は……彼は、新しい記憶を脳に留めておくことができなくなった。彼の時間は、あの日、僕と本当の意味で「親友」になった、あの輝かしい一日の記憶で、止まってしまったのだ。
毎朝、記憶を失っていたのは、僕じゃなかった。カイの方だった。
彼にとって、僕は毎朝「はじめまして」の存在なのだ。僕が感じていた強烈な親近感や懐かしさは、失われた記憶の残滓などではなかった。それは、記憶を失くしたたった一人の親友のために、毎日毎日、初対面のフリをしながら、必死に友情を演じ続けてきた僕自身の、血の滲むような想いの蓄積だったのだ。
壁の付箋。『カイを信じろ』。あれは、毎朝、絶望しそうになる自分自身を奮い立たせるための、僕から僕へのメッセージだった。逆だ。何もかもが、逆だったんだ。僕は、床に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
第四章 僕の知らない親友へ
すべてを思い出した。
内気で、世界に心を閉ざしていた僕を、太陽のように照らしてくれたカイ。彼を失いたくない一心で、僕は「カイが忘れてしまう前の、快活なミナト」を演じ始めた。最初はぎこちなく、ただ必死だった。けれど、毎日「はじめまして」を繰り返すうちに、彼の前で笑うことは、いつしか僕にとっての真実の喜びになっていた。カイを支えるための演技は、皮肉にも、僕自身を臆病な殻から解放し、本当に彼が望んでいたような人間に変えてくれたのだ。僕がカイを救っているようで、本当は、記憶を失ったカイが、僕を救い続けてくれていた。
涙が枯れる頃、僕はそっとビデオカメラを元の場所に戻した。僕の役割は、何も変わらない。いや、むしろ、この真実を知ったことで、僕の覚悟はより深く、揺るぎないものになった。
翌朝。
いつものように、朝の光が部屋に差し込む。キッチンで朝食の準備をするカイが、僕の気配に気づいて振り返る。その顔には、昨日までの記憶のかけらもない、純粋な好奇心と、人懐っこい光が宿っている。彼は、僕を見て少し不思議そうに、そして少し嬉しそうに、こう尋ねる。
「おはよう。君は?」
僕は、ベッドから起き上がり、彼に向かって、これまで何百回と繰り返してきた中で、最高の笑顔を作って見せた。絶望でも、諦めでもない。ただ、愛おしくてたまらないという、ありったけの想いを込めて。
「おはよう、カイ。僕はミナト。君の、親友だよ」
僕たちの友情は、毎日リセットされる。
でも、僕が憶えている。僕が、何度でも始めよう。
僕の知らない親友へ。今日もまた、新しい一日が始まる。