戦花葬送(せんかそうそう)
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戦花葬送(せんかそうそう)

第一章 魂喰らいの戦野

土の匂いに、鉄と血の匂いが混じる。俺、カイは膝をつき、まだ温かい狼の骸にそっと手を触れた。銀色の毛皮は泥に汚れ、誇り高かったはずの瞳は虚ろに空を映している。俺の指先から、見えない糸が伸びていくように、死んだ狼の遺伝子情報が流れ込んでくる。戦場で死んだ生物の「もしも」を紡ぐ力。それは呪いであり、唯一の武器だった。

「来るぞ、カイ!」

背後で相棒のジンが叫ぶ。地響きと共に、敵国の装甲兵が土煙を上げて迫っていた。俺は目を閉じ、脳内で遺伝子の螺旋を再構築する。この狼が、もしあの槍に貫かれず、百の戦場を生き抜いていたら。その果てに辿り着くであろう、究極の姿を幻視する。

俺の背骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げて膨張した。両腕が変質し、鋼鉄を寸断する銀色の爪が月光を弾く。喉の奥から、人ならざる咆哮が漏れた。「銀狼(ぎんろう)の顕現」。消耗される寿命の感覚に奥歯を噛み締めながら、俺は大地を蹴った。装甲兵の分厚い鉄板が、バターのように爪に切り裂かれていく。数瞬の後、戦場には沈黙と、新たな骸だけが残されていた。

変身を解くと、激しい疲労と共に、左の手のひらが疼いた。そこに刻まれた、俺自身の寿命を示す複雑な紋様が、また少しだけ薄くなっている。ジンが駆け寄り、俺の肩を叩いた。

「無茶をしやがる。その力は、お前の命そのものなんだぞ」

「これしか、ないんだ」

俺たちは、夜空を彩る巨大な光の柱を見上げた。この戦で死んだ者たちの魂を吸い上げ、天を目指す「戦花」だ。硝子細工のように繊細で、死ぬほど美しい。俺たちの世界では、戦争は決して終わらない。戦花が枯れると、その場所の重力が狂い、結晶となって崩壊し、また新たな戦いの舞台を用意するからだ。

「次の任地は『静寂の谷』だそうだ」ジンが水筒を差し出しながら言った。「妙な噂がある。あの谷の戦花は、崩壊せずに歪んだ光を放ち続け、近づく生き物を石に変えるらしい」

石に変える? それは、戦花がもたらす『死』とは違う。不自然で、理不尽な終わり方だ。俺は、その歪んだ光の正体を確かめずにはいられなかった。

第二章 静寂の彫像

静寂の谷は、その名の通り、音が死んだ場所だった。風の音すらなく、耳の奥が圧迫されるような静けさが支配していた。谷を埋め尽くすように立つ無数の石像。それは、恐怖に顔を歪ませたまま硬直した獣たち、天に助けを求めるように手を伸ばした人々の姿だった。彼らは皆、一つの種族――翼を持つ亜人、「ガルダ族」だった。

「なんてこった……。これは弔いじゃねえ、呪いだ」

ジンが息を呑む。谷の中心には、問題の戦花が聳え立っていた。他の戦花が放つ純粋な白光とは異なり、それは病的な虹色を帯びた光を明滅させていた。まるで呼吸するように、不気味な光が空間を歪ませている。空気が重く、肌がぴりぴりと痺れるのを感じた。

俺は石化したガルダ族の一人に近づいた。幼い少女だった。その瞳には、信じられないものを見たかのような驚愕と絶望が刻まれている。俺は彼女の石の腕に触れた。しかし、何も読み取れない。死んでいるのに、その遺伝子情報は固く閉ざされ、俺の力に応えようとはしなかった。

無力感に歯噛みしながら、俺は視線を戦花の根元へと移した。あの歪んだ光の中心に、この呪いを解く鍵があるはずだ。一歩踏み出すごとに、足元の石化した草が砕け、か細い音を立てた。この谷で唯一許された音だった。

第三章 歪曲の種子

戦花の根元は、光の歪みが最も強い場所だった。空間が揺らぎ、視界がぐにゃりと捻じ曲がる。目の前の景色が千々に砕け、眩暈と吐き気に襲われた。ジンの制止を振り切り、俺は光の中心へと手を伸ばす。

その瞬間、指先に硬質な何かが触れた。それは、歪んだ光そのものを凝縮したかのような、虹色に輝く一つの種子だった。

「歪曲の種(わいきょくのしゅ)……」

俺がそれに触れた途端、凄まじい情報の奔流が脳髄を焼き尽くした。

――何億もの死。絶叫。嘆き。誕生の歓喜。捕食される者の恐怖。星が生まれ、大陸が動き、種が栄え、そして滅ぶ。それは、この世界が経験した、ありとあらゆる生物の死の記憶だった。

俺は見た。太古の世界、爆発的な繁殖力と闘争本能を持つガルダ族が、他のあらゆる種を駆逐し、生態系の頂点で暴虐の限りを尽くす姿を。彼らの繁栄は、他の全ての生物の絶滅を意味していた。

そして、世界の悲鳴が聞こえた。このままでは、世界そのものが死ぬ。その時、星の意志が生み出したのだ。最初の戦争。最初の死骸。そこから生まれた最初の戦花。それは、ガルダ族の魂だけに共鳴し、その個体数を一定に保つための「調整弁」だった。歪んだ光は、呪いではない。他の種族を守るための、悲しい防衛機能だったのだ。

俺が止めようとしていたものは、ガルダ族にとっての理不尽な死であり、同時に、この世界にとっての救済だった。

第四章 均衡という名の牢獄

俺は膝から崩れ落ち、激しく喘いだ。脳に刻みつけられた世界の記憶が、俺の価値観を根底から揺さぶっていた。

「おい、カイ! 大丈夫か!」

ジンの声が遠くに聞こえる。俺は掌を見つめた。この力で、俺は多くの命を救ってきたつもりだった。だが、それはただ、目の前の小さな正義に固執していただけなのかもしれない。世界という大きな視点で見れば、俺の行いは、均衡を破壊する異物でしかなかったのか。

「……ジン。この戦花は、ガルダ族を間引くために存在している」

「なんだって?」

「彼らが、増えすぎないように。他の種族が、生き残れるように」

俺の言葉に、ジンは絶句した。彼もまた、この世界の理不尽さを知っている。だが、これほどまでに残酷な真実を、どう受け止めればいいのか。

歪んだ戦花は、静かに光り続けている。それは、ガルダ族にとっては死の宣告であり、他の種族にとっては生存の約束。どちらが正しい? どちらを救うべきだ? 俺には、その答えが分からなかった。

ふと、石化した少女の顔が脳裏をよぎる。彼女に罪はあったのか。ただ、ガルダ族として生まれたというだけで、なぜこんな風に未来を奪われなければならない? 個の命の尊厳と、種の存続という天秤。どちらの皿が重いというのか。

俺は立ち上がった。答えなど、最初からなかったのかもしれない。ならば、俺は俺が信じるものを貫くしかない。たとえ、その先に待つのが破滅だとしても。

「俺は、こいつを壊す」

「カイ、お前……! 世界を敵に回すつもりか!」

「理不尽な死を見過ごす方が、俺には耐えられない」

俺は、この谷で石と化した、数多のガルダ族の亡骸を見渡した。彼らの無念を、俺の力に変える。

第五章 時喰らいの咆哮

俺は、一体の巨大な竜の石像の前に立った。伝説に謳われる、かつてこの谷に君臨したという始祖竜。その威容は石となってもなお、圧倒的な存在感を放っていた。石化していても、その遺伝子情報は微かに残滓として漂っている。俺は竜の足に手を置き、意識を集中させた。

「俺の命を、喰らえ」

左手の紋様が、灼けるように熱を帯びる。寿命が凄まじい速度で吸い上げられていく感覚。視界が白く染まり、意識が遠のきかけたその時、俺の身体は限界を超えて変貌を遂げた。

皮膚は黒曜石の鱗に覆われ、背からは巨大な翼が生え、天を突く角が額から伸びる。始祖竜が、もし石化されることなく、悠久の時を生き延びていたら到達したであろう究極の形態――「時喰らいの竜(クロノ・ドラグーン)」。

その巨体は、戦花を見下ろすほどに巨大だった。俺が咆哮すると、静寂の谷に初めて、世界そのものを震わせるほどの音が響き渡った。空間の歪みなど意にも介さず、俺は巨大な爪を振り下ろす。

ゴウッ、という轟音と共に、爪が戦花に深々と突き刺さった。虹色の光が激しく乱反射し、結晶質の幹に亀裂が走る。戦花は断末魔のように、これまで溜め込んできたガルダ族の魂の残滓を光の奔流として解き放った。それは、悲しみと苦痛の濁流だった。俺は全てを受け止め、さらに力を込める。

ミシリ、と世界が軋む音がした。そして、巨大な戦花は、硝子細工が砕け散るように、無数の光の破片となって崩壊した。

谷を覆っていた歪んだ光が消え、呪いのように重かった空気が、本来の軽さを取り戻す。石化したガルダ族の像は、もとの石像のまま、変わらない。彼らが還ることはない。だが、これから生まれるガルダ族が、理不尽に石と化すことはもうないだろう。

変身を解いた俺は、地面に倒れ込んだ。体は老人のように皺だらけになり、髪は真っ白に変わっていた。ジンの悲痛な叫び声が、遠くで聞こえた気がした。

第六章 新たなる戦争

あれから、十年が経った。

俺は、かつて静寂の谷と呼ばれた場所が見渡せる丘の上で、静かに日々を過ごしている。あの日の代償で、俺はもう立つこともままならない。若き日の面影はなく、ただ死を待つだけの老いぼれた身体だけがここにある。

ジンが、時折食料を届けに来てくれる。彼は何も言わないが、その目にはいつも深い悲しみが宿っていた。

世界は、変わった。

歪んだ戦花が消え、石化の呪いが解けたガルダ族は、堰を切ったようにその数を増やし始めた。彼らは土地を、森を、山を、次々と自分たちのものにしていく。他の種族は住処を追われ、あるいは彼らの圧倒的な力の前に滅ぼされた。

空を見上げれば、地平線の彼方までガルダ族の翼が空を覆い尽くしている。

そして、大地には、無数の戦花が咲き乱れていた。それは、ガルダ族に滅ぼされた者たちの死骸から生まれた、新たな戦花だ。その光は白く、純粋で、とても美しい。だが、それは新たな絶滅の始まりを告げる、弔いの光だった。

俺は、一つの理不尽を正すために、世界全体を緩やかな死へと向かう、終わりのない戦争に突き落としてしまったのだ。

どちらが、正しかったのだろうか。

俺の選択は、本当に間違いだったのだろうか。

答えは、もう出ない。ただ、丘から見える谷には、今日も美しい戦花が咲き誇り、滅びゆく種族の魂を、静かに空へと葬り続けている。


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