瞳に錆びる追憶
第一章 遺された視界
世界は、緩やかに錆びていた。
風が吹けば、酸化鉄の匂いが鼻腔を刺し、乾いた咳が漏れる。かつて青かった空は、舞い上がる錆の微粒子で常に赤茶色に濁っていた。人々が憎しみ合うたび、その感情が物理的な『錆』となって世界を蝕むのだと、誰もが知っていながら、争いは終わらない。
カイの瞳は、その世界の縮図だった。
彼は戦場で死んだ兵士たちの、最後の視覚記憶をその両目に宿していた。不意に、目の前の錆びた鉄骨が、燃え盛る故郷の街並みに変わる。耳の奥で、友の最後の絶叫が木霊する。そのたびにカイは奥歯を強く噛み締め、現実の輪郭を必死でたぐり寄せねばならなかった。瞳に映る過去の惨状は、戦争が激化するほどに数を増し、彼の精神を現実から引き剥がそうと蠢いていた。
「……また、見えているのか」
背後からかけられた声に、カイはゆっくりと振り返った。古い配給所の軒下で、少女が一人、心配そうにこちらを見つめている。リナと名乗った彼女は、この錆びた世界では珍しいほど、澄んだ瞳をしていた。
カイは答えず、ただ首を横に振る。嘘だ。今も彼の視界の端では、名も知らぬ兵士が撃ち抜かれた腹を押さえ、泥水に顔を沈めていく光景がちらついていた。その絶望が、冷たい水のようにカイの心を浸していく。
彼はこの呪いのような能力と共に、旅をしていた。憎しみの根源を、この世界を覆う錆の発生源を突き止めるために。言い伝えによれば、すべての錆は、かつて世界を救ったという英雄の記念碑から流れ出しているという。平和の象徴が、なぜ。その矛盾こそが、カイを突き動かす唯一の希望であり、同時に深い絶望でもあった。
第二章 共鳴する石
リナと出会ったのは、錆に半ば埋もれた小さな村だった。彼女の一族は、代々奇妙な鉱石を守り続けてきたという。手のひらに収まるほどの、鈍い乳白色の石。錆に覆われながらも、その内側から、まるで呼吸するかのように微かな光が点滅していた。
「これは『心響石(しんきょうせき)』。触れた者の感情に共鳴するの」
リナはそう言って、石をカイに差し出した。
カイがためらいがちに指先で触れた瞬間、石は脈打つように強く発光した。同時に、彼の瞳に宿る戦友の死の記憶が、奔流となって溢れ出す。
『逃げろ、カイ!』
爆炎。熱風。肉の焼ける匂い。
カイの口から、抑えきれない呻きが漏れた。その憎悪と悲しみに呼応するように、心響石は禍々しいほどの光を放ち、周囲の錆が、まるで生き物のようにざわめき、その侵食を加速させた。建物の壁を覆う錆が、ずるりと音を立てて剥がれ落ちる。
「やめて!」
リナの叫び声で、カイは我に返った。慌てて石から手を離すと、錆の進行はぴたりと止まった。彼は自分の感情が、この石を介して世界に直接影響を与えてしまうことを理解した。
「あなたのその瞳……そして、その強い想い。それこそが、錆の真実を解き明かす鍵になるはず」
リナは怯むことなく、真っ直ぐにカイを見つめた。
「私も行く。英雄の記念碑へ。それが、この石を守ってきた我が一族の使命だから」
二人の旅が始まった。カイは瞳に映る死者の無念を、リナは石に込められた微かな希望を抱き、錆の発生源とされる中央都市を目指した。
第三章 英雄の嘘
中央都市は、巨大な壁に囲まれていた。壁の内側だけは錆の侵食から守られていると、人々は信じていた。だが、門をくぐった先で二人を待っていたのは、外の世界よりもさらに濃密な、淀んだ錆の空気だった。人々は互いを猜疑の目で見つめ、その憎しみが新たな錆となって、美しいはずの街並みを内側から静かに蝕んでいた。
都市の中心に、天を突くように英雄の記念碑がそびえ立っていた。黒曜石で作られた滑らかな碑には、英雄がいかにして敵国との大戦を終結させ、世界に平和をもたらしたかが、金色の文字で刻まれている。
だが、カイが記念碑に近づくにつれ、彼の瞳に映る幻影は、今までのものとは明らかに異質だった。それは、彼が生まれるよりもずっと昔、あの大戦の時代の光景。無数の兵士たちが、敵味方の区別なく倒れていく。そして、その中心に立つ一人の男――英雄と呼ばれたその男の姿があった。
カイは記念碑に手を触れた。金色の文字が、血のように赤く滲んで見える。
英雄は、敵を打ち破ったのではなかった。彼は、敗れた敵国の兵士たちの憎悪、無念、呪いのすべてをその身に受け、この記念碑に自らと共に封じ込めたのだ。平和とは、憎しみを消し去ることではなく、ただ一か所に押し込めることで成り立っていた偽りの安寧。記念碑は平和の象徴などではなく、凝縮された憎しみを世界に撒き散らし続ける、巨大な錆の発生源そのものだった。
「そんな……じゃあ、英雄の物語は、全部……」
リナが絶望に声を震わせた。
その瞬間、真実を知った都市の人々の間に走った動揺と裏切りへの怒りが、最後の引き金となった。記念碑に亀裂が走り、封じ込められていた数百年分の憎しみが、黒い霧となって噴き出した。
第四章 最後の眼差し
世界が、叫び声を上げた。
記念碑から解き放たれた憎しみの錆は、津波のように都市を飲み込み、空を覆い、瞬く間にすべてを赤茶色に染め上げていく。建は砂のように崩れ、人々の悲鳴は錆の広がる音に掻き消された。
「カイ、石を!」
リナは心響石を強く握りしめ、必死に希望を、愛を念じた。石は温かい光を放つが、星々を飲み込む夜闇のような憎しみの前では、あまりに無力だった。
カイは静かに目を閉じた。彼の瞳の奥で、数えきれないほどの死者たちの最後の記憶が明滅していた。撃たれた仲間、爆撃で消えた家族、故郷を想いながら息絶えた敵兵。彼らの最期に共通していたのは、憎しみだけではなかった。そこには、生きたかったという渇望が、愛する誰かを想う切なさが、確かに存在していた。
憎しみで憎しみを制することはできない。
ならば――。
カイはリナの手から心響石を受け取ると、錆の嵐が吹き荒れる記念碑の中心へと歩みを進めた。彼は憎しみを振り払おうとはしなかった。むしろ逆だ。瞳に宿る全ての死者の記憶――その痛み、悲しみ、そして微かな愛のひとかけらまで、全てを受け入れた。
「……君たちの想い、俺が引き受ける」
彼は心響石を、砕けた記念碑の心臓部へと突き立てた。憎悪ではなく、死者たちが遺した「生きたかった」という純粋な願いを、石に注ぎ込む。その瞬間、世界中の錆がカイ一人を目指して殺到した。
彼の瞳に、最後の記憶が流れ込んできた。それは、自らを碑に封じ込める瞬間の、英雄の眼差しだった。彼の瞳にもまた、カイと同じように無数の死者の記憶が宿っていた。英雄は苦悩していたのだ。憎しみを封じることしかできなかった自分の無力さに。そして、いつか誰かが、この憎しみの連鎖を本当の意味で断ち切ってくれることを、心の底から願っていた。
「ああ、そうか……あんたも、同じだったのか」
カイの体は、押し寄せる錆に飲み込まれていく。しかし、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。彼は英雄の、そして全ての死者たちの願いを理解した。世界を覆い尽くさんとする錆の中心で、カイの意識は静かに闇へと溶けていった。
第五章 錆の下の芽吹き
すべてが、錆に覆われた。
空も、大地も、かつて街があった場所も。音という音が消え、世界は完全な静寂に包まれた。まるで、悠久の時が流れた後の惑星のようだった。
リナだけが、心響石の放つ小さな光のドームの中で、独り生き残っていた。彼女は膝から崩れ落ち、涙も出ないほどの虚無感に襲われた。世界は終わった。カイの犠牲も、全ては無駄だったのだ。
どれほどの時間が経っただろう。彼女はふと、カイが消えた場所へと歩み寄った。赤茶色の錆が、滑らかな丘のように盛り上がっている。絶望のまま、そっとその錆に手を触れた。
その時、彼女の指先に、柔らかな感触が伝わった。
驚いて目を凝らすと、硬い錆の殻を突き破って、小さな緑色の双葉が顔を出している。それは、この赤茶色の世界で、唯一の色を持つものだった。
リナは息を呑んだ。錆は、世界を滅ぼしたのではなかった。それは、人類が積み重ねてきた全ての戦争の記憶、憎しみ、悲しみ、そして名もなき人々のささやかな愛を、その内に抱きしめた、新しい生命のための土壌へと変わっていたのだ。世界は滅びたのではない。全ての過去を忘れ去ることなく、その記憶を糧として、静かに再生を始めようとしていた。
リナは震える手で、その小さな芽に触れた。すると、温かい光と共に、数えきれないほどの記憶が心に流れ込んできた。戦場で散った兵士の最後の祈り。故郷で待つ家族の笑顔。そして、最後に微笑んだカイの、穏やかな眼差し。
涙が、乾いた錆の大地を濡らした。
世界は一度死に、そして、記憶と共に生まれ変わった。リナは立ち上がり、地平線の彼方から昇り始めた、錆色ではない、柔らかな光を全身に浴びた。
この新しい世界で、過去を語り継いでいくこと。それが、残された彼女の使命だった。手の中の心響石は、役目を終えたように静かな光を放ち続けている。その光は、まるで新しい世界の夜明けを祝福しているかのようだった。