空が忘れたレクイエム
第一章 色褪せた空とスローモーション
僕、水上蒼(みなかみ あお)の世界は、時々ひどくゆっくりになる。
感情の針が大きく振れた時、特にそれが『初めて』の色を帯びている時、世界は僕一人を置き去りにして、優雅なスローモーションへと姿を変えるのだ。
廊下の向こうから、彼女、陽菜(ひな)が歩いてくる。
風に揺れる黒髪。友達と笑い合う声。その一つ一つが、僕の鼓膜をくすぐるたびに、世界は粘性を帯び始める。初めて彼女と目が合った、あの一瞬。心臓が跳ね上がった刹那、廊下を流れる埃の一粒までが、光の中で静止して見えた。これが僕の秘密。僕だけの、時間だ。
僕らの頭上には、いつも『青春島』が浮かんでいる。かつては人々の夢や理想の数だけ空にひしめいていたという浮島も、今では数えるほどしかない。大人たちは「昔はもっとすごかった」と遠い目をするだけで、僕ら世代にとっては、消えていくのが当たり前の、色褪せた風景の一部だった。人々は夢を見ることをやめ、空を見上げるのをやめた。だから、島は消える。単純な話だ。
「見て、蒼くん。あの一番高いところにあるのが『星詠みの島』。もうすぐ消えちゃうんだって」
放課後の屋上で、陽菜が指差した。彼女だけが、諦めずに空を見上げている。その横顔を見つめる僕の胸が、またチクリと痛んだ。世界が、ほんの少しだけ、ゆっくりと回り始める。陽菜の瞳に映る寂しそうな島の光が、僕の網膜に焼き付いて離れなかった。
第二章 錆びた時計の囁き
能力には、もう一つの貌があった。
それは、他人の『後悔』に触れた時に現れる。
商店街の古本屋の前で、杖をついた老人が崩れた本の山を呆然と見つめていた。店主が申し訳なさそうに頭を下げている。老人はかつて作家を目指していたが、夢破れて筆を折ったのだと、風の噂で聞いたことがあった。その老人の肩が小さく震えた瞬間、僕の世界は逆さまに回転した。
ぐにゃり、と空間が歪む。
落ちたはずの本が棚に戻り、店主の謝罪の言葉が逆再生される。数秒間の、悍ましい逆行。僕だけが、その時間のねじれの中で立ち尽くしていた。
「……君か」
背後から、静かな声がした。振り返ると、学校の司書である古手川(こてがわ)さんが、まるで全てを知っているかのように僕を見ていた。彼は何も聞かず、ただ一つの古びた懐中時計を僕の手に乗せた。
「それは、忘れられた時の音を拾う。君なら、聴こえるかもしれない」
銀色の蓋は錆びつき、針は止まっている。だが、彼が立ち去った後、僕はもう一度、あの老人に意識を向けた。すると、懐中時計の冷たい金属が、微かに脈動を始めた。文字盤に、ぼんやりと幻が映る。そこには、今よりもずっと多くの『青春島』が輝く、黄金色の空が広がっていた。
第三章 陽菜の夢と砕けた星
陽菜は『星詠みの島』に特別な想いを抱いていた。彼女の祖母が、若い頃にその島の誕生を見たというのだ。「新しい夢が生まれる瞬間は、空に新しい星が灯るみたいだったのよ」と。陽菜はその物語を信じ、島が消える前に、その輝きを記録しようと必死だった。
僕も、いつしか彼女のその情熱に引き込まれていた。二人で古い文献を漁り、天文台に通った。彼女の隣にいると、僕の時間は心地よい緩やかさで流れた。初めて手を繋いで展望台の階段を上った時、世界は今までで最も美しいスローモーションになった。眼下に広がる街の灯りが、一つ一つダイヤモンドのようにきらめき、陽菜の髪を撫でる夜風の音だけが、僕の耳にはっきりと届いていた。
このまま、時が止まればいい。
そう願った、その時だった。
パリン、と。ガラスが割れるような、乾いた音が夜空に響いた。
陽菜が息を呑む。僕らが見つめる先で、『星詠みの島』が、まるで砂糖菓子のように脆く崩れ、光の粒子となって闇に溶けていった。街の人々が数秒だけ空を見上げ、すぐにスマホの画面に視線を戻す。
「……あ」
陽菜の口から、か細い声が漏れた。彼女の膝が、ゆっくりと折れていく。その瞳から零れた一粒の涙が、僕の頬を濡らしたかのような錯覚。それは、夢が死ぬ音だった。
第四章 逆行する世界の痛み
「どうして……」
陽菜の呟きは、絶望そのものだった。それは単なる落胆ではない。夢を守れなかった、という深い、深い『後悔』の波動だった。
僕はたまらず彼女の肩に手を伸ばした。
触れた瞬間、世界が悲鳴を上げた。
今までの比ではない、強大な力で時間が逆巻き始める。景色が猛烈なスピードで遡り、人々の動きがコマ送りのように不自然に反転する。僕のポケットで、あの懐中時計が灼熱を帯びて激しく震えた。
『やめろ!』
心の中で叫んでも、暴走は止まらない。懐中時計の文字盤がまばゆい光を放ち、僕の意識に直接、映像を流し込んできた。
それは、忘れられた過去の光景だった。
空には、息苦しいほどの数の『青春島』がひしめき合っていた。人々は皆、同じ一つの夢を見ていた。『永遠の青春』という名の、呪いのような理想を。誰もが老いることを恐れ、変化を拒み、停滞した理想郷を追い求めた。その結果、生まれたのは激しい競争と排除、そして世界を二分するほどの大きな争いだった。夢は悪夢に変わり、世界は破綻した。
生き残った人々は、その過ちを、その巨大すぎる『後悔』を、二度と繰り返さないために封印した。世界の法則そのものに、その記憶を刻み込んで。
『夢を追い求めすぎれば、痛みを生む』と。
だから人々は夢を見なくなった。だから島は消え始めたのだ。世界の無意識が、あの後悔を恐れて。
陽菜の絶望は、彼女個人のものではなかった。世界が忘れたはずの、巨大な後悔の記憶に共鳴していたのだ。
第五章 忘れられたレクイエム
時間の逆行が止まった時、僕と陽菜は展望台に立ち尽くしていた。砕ける前の『星詠みの島』が、空にかろうじて浮かんでいる。
僕の脳裏には、まだあのビジョンが焼き付いていた。陽菜もまた、僕の能力を通して同じものを見たのか、青ざめた顔で唇を震わせていた。
「あれが……本当の、空……」
そうだ。これが世界の真実。
僕らは、過去の痛みを忘れることで、未来の夢さえも見失おうとしていた。忘却は安らぎを与えるが、同時に、前に進む力をも奪う。
このままでは、陽菜の夢も、他の誰かの小さな夢も、全てが消えてしまう。
忘れられた痛みに怯え、何も始まらない世界で生きていくことになる。
「思い出すんだ」
僕は陽菜の手を強く握った。冷たく、震える指先。
「痛いかもしれない。苦しいかもしれない。でも、忘れちゃいけないんだ。僕らが、世界が、何を間違えたのかを」
決意は固まった。この歪んだ安寧を、僕が終わらせる。
僕の能力は、感情と時間に干渉する。ならば、この『後悔』の記憶そのものを、世界中に解き放つことができるはずだ。
陽菜が僕の手を握り返してくる。その瞳には、恐怖と、そして確かな光が宿っていた。
僕は目を閉じ、全ての意識を集中させた。僕らの胸にある巨大な後悔の塊を、世界へのレクイエム(鎮魂歌)として、空に解き放つために。
第六章 試練の島と歩き出す時間
世界中の人々が、同時に胸を押さえた。
理由のわからない、締め付けられるような痛み。遠い過去に失くした何かを思い出すような、切ない悲しみの感情。それは一瞬の出来事だったが、確かに世界は、忘れられた後悔の記憶を共有した。
その直後、空に浮かんでいた最後の『青春島』が、静かに、全て消滅した。
空っぽの空。人々は息を呑み、天を仰いだ。夢と理想の象徴が、完全に失われたのだ。
だが、絶望が世界を覆い尽くすかと思われた、その時。
何もないはずの空に、亀裂が走るように、新しい島影が生まれ始めた。
それは、かつての『青春島』のように白く輝いてはいなかった。ゴツゴツとした岩肌が剥き出しの、灰色で、荒々しい島々。そこには華やかさも、甘美な響きもない。ただ、風雨に耐え抜いてきた巨岩のような、揺るぎない存在感だけがあった。
『夢』や『希望』ではない。『経験』と『戒め』を具現化した、『試練の島』。
人々は、その島を見て、自分たちが共有した痛みの意味を、直感的に理解した。
ふっと、僕の身体から力が抜ける。世界が、ごく普通の速度で流れ始めたのを感じた。もう、僕の時間はゆっくりにも、逆行にもならない。能力は、その役目を終えて消え去ったのだ。
「綺麗じゃないね」
隣で、陽菜が呟いた。
「でも……なんだか、すごく強い感じがする」
彼女の横顔は、涙の跡が乾いてもなお、凛として美しかった。
第七章 始まりの空
僕らは新しい空の下を歩いている。
人々はまだ戸惑いながらも、時折、空に浮かぶ灰色の島々を見上げては、何かを考えているようだった。失われた夢の代わりに手に入れた、決して忘れてはならない過去の道標。
時間を操る力を失ったことを、僕は少しも寂しいとは思わなかった。
ただ流れていく時間の中で、陽菜が隣にいる。風が僕らの髪を揺らし、街の喧騒が耳を打つ。その全てが、ありふれているのに、どうしようもなく愛おしい。
後悔は、未来へ進むための痛みだ。
夢は、その痛みを乗り越えた先に見つける光だ。
僕らは、ようやく本当の意味で、自分たちの時間を歩き始めたのかもしれない。
「行こう」
僕が言うと、陽菜はこくりと頷いた。
僕らの視線の先、始まりの空には、『試練の島』が、未来への問いかけのように、静かに浮かんでいた。