影のない君と、夏色の残像

影のない君と、夏色の残像

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第一章 無彩色の観測者

僕、水島湊の世界は、他人より少しだけインクが滲んで見えている。

それは比喩ではない。人の背後には、その人が抱える「後悔」が、黒い影となってゆらめいているのが見えるのだ。些細な失言は淡い煙のように、人生を左右するほどの大きな悔いは、どろりとした澱のようにまとわりつく。幼い頃から見えていたこの景色は、僕を雄弁な皮肉屋にした。誰もが過去を引きずって、それでも平気な顔で笑っている。世界なんて、そんなものだ。だから僕は、誰にも深入りせず、ただの観測者でいることを選んだ。

高校二年の夏。茹だるような熱気がコンクリートを歪ませる教室で、僕のモノクロームな日常は、突然、鮮やかな色彩に乱された。

「今日からこのクラスに仲間入りする、月島栞さんです」

担任の紹介で教壇に立った彼女は、まるでひまわりのような少女だった。太陽の光を編み込んだような明るい髪が、クーラーの風にさらりと揺れる。自己紹介で語られた声は、風鈴の音色のように澄んでいた。クラスメイトたちの好奇と歓迎の視線が一斉に彼女に注がれる。彼らの背後では、大小様々な後悔の影が期待に揺れているのが見えた。昨日のテストの結果を悔やむ影、好きな子に話しかけられなかった影。いつも通りの、ありふれた光景。

だが、僕の視線は釘付けになっていた。月島栞、その人に。

彼女の背後には、何もなかった。

影が、ない。煙のような一片すら、存在しないのだ。それは僕がこの能力を持って以来、初めて目にする異常事態だった。まるで生まれたての赤ん坊のように、彼女は過去という重力から完全に解き放たれているように見えた。ありえない。人は呼吸をするように後悔を重ね、それを背負って生きていく生き物のはずだ。

月島さんは、屈託なく微笑むと、偶然にも僕の隣の空席に座った。ふわりと、柑橘系のシャンプーの香りが鼻をかすめる。

「よろしくね、水島くん」

向けられた笑顔は、一点の曇りもなかった。僕はどうしようもない違和感と、胸の奥で疼くような強い好奇心に囚われながら、曖昧に頷くことしかできなかった。

後悔を持たない人間。そんなものが、本当に存在するのだろうか。あるいは、彼女は一体、何を隠しているのだろうか。僕の退屈な観測は、この日、終わりを告げた。たった一人の、影のない少女によって。

第二章 陽だまりの輪郭

月島栞という存在は、僕の静かな世界に投じられた小石だった。彼女が作る波紋は、ゆっくりと、しかし確実に僕の岸辺を侵食していった。

栞は、驚くほど自然に僕の日常に溶け込んできた。クラスの誰とでも分け隔てなく話すのに、なぜか僕の隣にいる時間が一番長いようだった。放課後の図書室で、同じ委員の仕事をしながら交わす他愛もない会話。彼女は僕が推薦した難解な小説を面白そうに読み、「ここの表現、水島くんならどう解釈する?」と尋ねてくる。彼女と話していると、僕は自分がただの皮肉屋ではなく、一人の思考する人間なのだと思い出せた。

不思議なことに、栞と一緒にいる間は、あれほど僕を苛んでいた他人の影が、背景の一部のように遠ざかっていく気がした。彼女の存在そのものが、まるで強力な陽光のように、世界の淀みを浄化していくかのようだった。僕のモノクロームな視界に、少しずつ色が戻ってくる。夏の入道雲の白さ、校庭の木々の深い緑、彼女の髪を照らす夕陽の黄金色。

ある日の帰り道、蝉時雨が降り注ぐ中、僕はぽつりと呟いた。

「みんな、何かを背負ってるように見えないか」

それは、僕の秘密の核心に触れる、危うい問いかけだった。

栞は少し歩みを止め、僕の顔をじっと見つめた。そして、ふわりと微笑んだ。

「見えるよ。頑張った跡とか、悩んだ跡とか。そういうのって、その人を形作る輪郭みたいで、私は結構好きだな」

その答えに、僕は息を呑んだ。彼女は僕と同じものが見えているわけではない。けれど、僕が「呪い」だと感じていたものを、彼女は「輪郭」だと言った。影を、肯定したのだ。

この頃から、僕の心には淡い感情が芽生え始めていた。それは、観測者としての好奇心とは明らかに違う、温かくて少し苦しい感情。栞の影のなさが、彼女の完璧さの証明のように思えて、ますます惹かれていった。

しかし、同時に小さな違和感が積み重なってもいた。彼女は自分の過去の話、特に中学以前の話を決してしようとしなかった。家族の話になると、寂しそうな笑顔で話題を変えた。そして何より、彼女の完璧な明るさは、時として薄いガラス細工のような危うさを感じさせた。あまりにも完成されすぎている。まるで、後悔する「機会」そのものを与えられなかったかのように。

文化祭が間近に迫った夕暮れ。準備で活気づく校舎を背に、二人で屋上のフェンスに寄りかかっていた時、僕は勇気を出して尋ねた。

「月島さんは、何か後悔したことって、ないのか?」

彼女はしばらく黙って、遠くの空を見ていた。茜色に染まった横顔は、今まで見たどんな表情よりも儚く見えた。

「……後悔、か。私には、もう後悔するための時間がないから、かな」

その声は、夏の終わりの風のように、やけに涼しく響いた。

第三章 透明な告白

文化祭の夜は、魔法のようにきらめいていた。校庭に灯された無数の電球が、生徒たちの高揚した顔を照らし出し、体育館から漏れるバンドの演奏が、熱っぽい空気と共に夜空に響き渡る。誰もが楽しそうで、誰もが未来のことなど考えずに、今この瞬間を謳歌している。彼らの背後の影すら、今夜ばかりは祭りの光に溶けているように見えた。

僕は、その喧騒から逃れるように、栞を誘って再び屋上へ向かった。後夜祭のクライマックス、打ち上げ花火が始まる前の、束の間の静寂。冷たい夜風が、火照った頬に心地よかった。

眼下に広がる光の海を眺めながら、僕は覚悟を決めた。僕のこの呪いのような能力も、彼女と出会うためのものだったのかもしれない。彼女のそばにいれば、僕の世界も色づくかもしれない。

「月島さん」

僕が呼びかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。その瞳が、遠くの街明かりを映して濡れているように見えた。

「君には、影がない。初めて会った時から、ずっと不思議だった。どうして、君だけがそんなに完璧で、綺麗なんだ?」

それは告白のつもりだった。僕の最大限の、不器用な賛辞だった。

しかし、栞は悲しげに微笑むだけだった。

「水島くん、ありがとう。でもね、私は完璧なんかじゃないよ」

彼女はフェンスにそっと手をかけた。その指先が、白く透けているように見えたのは、気のせいではなかった。

「私に影がないのはね……もう、後悔を刻むための過去を、持っていないから」

ヒュウ、と遠くで花火が打ち上がる音がした。夜空に大輪の菊が咲く。その光が、栞の姿を一瞬、照らし出した。

「一年前の夏、私はこの場所で死んだの」

空気が凍りついた。僕の心臓が、氷の塊で殴られたように軋む。何を言っているんだ、と喉まで出かかった言葉は、音にならなかった。

「文化祭の準備中に、足を滑らせて。あっけない最後だった。痛みも苦しみも、あまり覚えてない。ただ、心残りだった。友達ともっと笑い合いたかった。好きな人と、こんな風に花火を見たかった。普通の青春を、何の後悔もなく過ごしてみたかった……その想いだけが、私をここに留めてた」

彼女の言葉は、淡々と、しかし確かな重みを持って僕に突き刺さった。彼女は幽霊。僕が見ていたのは、生身の人間ではなかった。後悔の影がないのは当然だった。彼女の存在そのものが、過去ではなく、「未来」への未練の塊だったのだから。彼女には、後悔を積み重ねるはずだった未来が、ごっそりと抜け落ちていた。

「水島くんが、私を見つけてくれた。私の声を聞いてくれた。普通の女の子みたいに、話をしてくれた。嬉しかった……本当に」

僕は、自分の能力を呪った。なぜ、過去の後悔という黒い影しか見えなかったのだろう。こんなにも強い、未来への渇望という透明な輝きを、どうして見過ごしていたのだろう。僕が惹かれたのは、彼女の完璧さではなかった。失われた未来の眩しさだったのだ。

第四章 夜明けに咲く後悔

どれくらい、そうしていただろうか。花火はとうに終わり、祭りの喧騒も遠くなっていた。僕たちはただ黙って、しだいに白んでいく東の空を眺めていた。栞の身体は、先ほどよりもさらに輪郭が曖昧になり、向こう側の景色が透けて見え始めている。

「私、もう行かなくちゃ」

栞は、まるで遠足の終わりのような、寂しさと安堵が入り混じった声で言った。

「君と過ごしたこの夏は、私が過ごしたかった青春そのものだった。もう、未練はないよ。ありがとう、水島くん」

彼女は、心の底から満たされた顔で微笑んだ。その笑顔は、僕が初めて見た時と同じ、一点の曇りもない笑顔だった。

涙が、勝手に頬を伝った。僕は彼女を失うことが、どうしようもなく怖かった。同時に、僕自身の後悔が、黒く濃い影となって背中に広がるのを感じた。能力を言い訳にして人と距離を置き、世界を斜めに見て、傷つくことから逃げてきた、僕自身の後悔。

「行かないでくれ」

か細い声が漏れた。

「君がいなくなったら、僕は……また、元のモノクロの世界に戻ってしまう」

「ううん、そんなことないよ」

栞は、僕の頬にそっと手を伸ばした。触れることはできない。けれど、その指先から温かい何かが流れ込んでくるような気がした。

「水島くんはもう、影の向こう側にあるものを見ようとしてる。色も、光も、ちゃんと見えてるはずだよ」

そうだ。僕はもう、知ってしまった。後悔の影は、その人が必死に生きてきた証であり、決してその人の全てではないことを。影の向こうには、栞が「輪郭」と呼んだ、その人だけの輝きがあることを。

僕は涙を拭い、消えゆく彼女を真っ直ぐに見つめた。

「君のことは、絶対に忘れない。君と出会えたこの夏を、僕はきっと何度も思い出す。それが僕の人生で初めての、消したくなくて、大切にしたい後悔になるんだと思う。……でも、それでもいい」

僕の言葉に、栞は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。そして、今までで一番美しい笑顔を見せた。

「そっか。……私の影、君が背負ってくれるんだね」

朝日が、地平線の向こうから最初の光を放った。眩しい光が世界を包み込む。その光の中で、栞の姿は無数の光の粒となって、空に溶けていった。柑橘系のシャンプーの香りが、風に乗ってふわりと僕を撫で、そして消えた。

屋上には、僕が一人だけ残された。

翌日、僕が足を踏み入れた教室は、昨日と何も変わらないように見えた。けれど、僕にとっての世界は、完全に変わっていた。クラスメイトたちの背後には、相変わらず大小の影が揺れている。でも、もうそれは僕を苛むインクの滲みではなかった。一人一人が生きてきた物語の、愛おしい一部に見えた。

僕は、自分の席に向かう途中、おはよう、とクラスメイトの一人に声をかけた。驚いた顔をした彼が、少し間を置いて「おう、おはよ」と返してくる。たったそれだけのことが、僕にとっての大きな一歩だった。

空を見上げる。突き抜けるような青が広がっている。そこに彼女はいない。けれど、僕の心の中には、影のない君と過ごした夏色の残像が、永遠に焼き付いている。後悔を背負いながら、それでも前を向いて生きていく。僕の本当の青春は、きっと、今この瞬間から始まるのだ。

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