夏蝉のノイズは、君の嘘に似ていた

夏蝉のノイズは、君の嘘に似ていた

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第一章 静寂の夏、蝉の不在

僕、相沢響の世界は、ノイズに満ちている。

それは、他人が嘘をつく瞬間にだけ聞こえる、甲高い蝉の鳴き声だ。真夏のアスファルトを揺るがすような、あの耳障りな音。季節に関係なく、教室でも、食卓でも、テレビの向こう側でさえも、誰かが心を偽れば、僕の鼓膜はジージーと不快に震える。

この体質のせいで、僕はいつしか人を信じることをやめた。悪意のないお世辞も、場を和ませるための冗談も、僕にとってはすべてが不協和音だ。だから高校二年生の夏、僕は教室の隅でヘッドフォンをつけ、本の世界に逃げ込むことで、耳障りな現実から距離を置いていた。友人と呼べる人間は、いない。

そんな僕の静寂を破ったのが、五月に転校してきた月島凪だった。

「相沢くん、それ、何読んでるの?」

放課後の図書室。不意に声をかけられ、僕は驚いて顔を上げた。そこにいたのは、色素の薄い髪を緩く結び、少し古びたフィルムカメラを首から下げた凪だった。彼女の瞳は、まるで磨かれたビー玉のように澄んでいて、まっすぐに僕を射抜いていた。

「……別に、大したものじゃない」

ぶっきらぼうに答える僕の声に、彼女は気を悪くした様子もなく、くすりと笑った。

「そっか。でも、すごく集中してた。相沢くんの周りだけ、時間が止まってるみたいだったから」

その声には、あの忌まわしい蝉の音が一切混じっていなかった。純粋で、淀みがなく、まるで森の奥にある泉から湧き出る水のように、僕の耳に染み渡る。以来、僕たちは時々言葉を交わすようになった。凪はいつも本当のことしか言わない。だから僕は、彼女と話すときだけは、ヘッドフォンを外すことができた。

ある雨上がりの午後、屋上で濡れた手すりに寄りかかりながら、凪は唐突に言った。

「私ね、本当は未来から来たんだ」

僕は思わず息を呑んだ。冗談か? からかっているのか? 全神経を耳に集中させる。しかし、聞こえてくるのは遠くで練習に励む吹奏楽部の音色と、校庭の湿った土の匂いだけ。蝉は、鳴かなかった。

凪は、本気でそう言っている。あるいは、それが紛れもない「真実」であるかのように。

「未来に帰らなきゃいけないの。だから、それまでの間、この時代の美しいものをたくさん写真に撮っておきたくて」

そう言って、彼女は僕にカメラを向けた。ファインダー越しの彼女の真剣な眼差しに、僕は混乱しながらも、ただ立ち尽くすことしかできなかった。僕の世界を支配していたはずの法則が、初めて根底から揺らいだ瞬間だった。

第二章 フィルム越しの永遠

凪の突拍子もない告白を、僕は否定も肯定もできずにいた。未来のことについて尋ねても、彼女は「制約があって、あまり詳しくは話せないの」と困ったように笑うだけだった。その言葉からも、やはり蝉の声は聞こえなかった。僕はいつしか、彼女のその奇妙な物語を、そっと受け入れていた。信じるというより、凪がそう言うのなら、それでいいと思えた。

夏休みに入ると、僕たちはほとんど毎日を一緒に過ごした。凪は「消えゆく一瞬を永遠に閉じ込めるのが好きなの」と言い、錆びついたガードレール、自動販売機の明かりに集まる羽虫、入道雲がそびえる青空、そして、そんな風景の中にいる僕を、飽きることなくフィルムに収めた。

「響くん、もっと笑って」

「……柄じゃない」

「そんなことないよ。響くんが笑うと、周りの空気が少しだけ優しくなる気がする」

凪に言われるがまま、僕はぎこちなく口角を上げた。カシャ、と乾いたシャッター音が響く。その音は、僕が今まで聞いてきたどんな音よりも心地よかった。彼女のファインダーを通して見る世界は、僕が知っている退屈な日常とはまるで違って見えた。嘘のない言葉と、真っ直ぐな眼差し。凪と過ごす時間は、僕がずっと求めていた静寂そのものだった。蝉の鳴かない世界。それは、僕にとって天国に等しかった。

少しずつ、僕の内側に変化が生まれていた。あれほど忌み嫌っていた他人の声も、凪といるときは遠くに聞こえる。クラスメイトに道で会えば、自分から挨拶をすることもあった。ほんの少しだけ世界を信じてみたくなったのだ。僕の無彩色の日常は、凪という光を得て、鮮やかな色彩を取り戻しつつあった。

ある夕暮れ、現像したばかりだという写真の束を凪が見せてくれた。そこには、僕が知らなかった僕自身の姿が写っていた。不器用ながらも笑っている顔、遠くを見つめる真剣な横顔、凪の話に驚いている少し間の抜けた顔。

「ほら、やっぱり素敵だよ」

凪は満足そうに微笑んだ。写真の中の僕は、確かに「生きて」いた。ノイズに怯え、心を閉ざしていただけの抜け殻ではなかった。

「この夏が、永遠に続けばいいのに」

僕の口から、思わず本音がこぼれた。凪は少しだけ目を伏せ、寂しそうに呟いた。

「……そうだね。でも、永遠なんてないから、今が美しいんだよ」

その言葉が、やがて来る別れを予感させて、僕の胸を微かに締め付けた。

第三章 耳鳴りと花火

夏休みも終わりに近づいた、八月の夜。町の小さな神社で、ささやかな夏祭りが行われた。色とりどりの浴衣を着た人々が行き交い、甘い綿菓子とりんご飴の匂いが立ち込めている。その喧騒の中で、凪はいつもより少しだけ大人びて見えた。

「今日が、一緒にいられる最後の日かもしれない」

人混みをかき分けながら、凪がぽつりと言った。僕の心臓が、どくんと大きく跳ねる。未来に帰る日が、来てしまったというのか。

「……そう、なのか」

「うん。だから、今日は目一杯楽しもう」

そう言って笑う彼女の顔は、提灯の赤い光に照らされて、どこか儚げだった。僕たちは金魚すくいをして、射的で景品を狙い、他愛もない話をした。けれど僕の心は、凪の言葉によって生まれた不安でいっぱいだった。

やがて、夜空に花火が打ち上がり始めた。僕たちは神社の裏手にある、少し開けた丘の上に腰を下ろした。ヒュルル、という音と共に光の筋が駆け上がり、夜空に大輪の花を咲かせる。ドーン、という重い音が、体に響いた。

色とりどりの光が、僕たちの顔を照らしては消える。その明滅の中で、凪はずっと黙って空を見上げていた。その横顔があまりに綺麗で、そしてあまりに切なくて、僕は彼女がこのまま光の粒と一緒に消えてしまうのではないかと、本気で思った。

「響くん」

不意に凪が僕の方を向いた。彼女の瞳が、花火の光を映してきらきらと潤んでいる。

「今まで、本当にありがとう。大好きだったよ」

その瞬間だった。

ジィィィィィィィィィッ—————!

鼓膜を突き破るような、けたたましい蝉の声。今まで聞いたどんな嘘よりも激しく、鋭く、強烈なノイズが僕の頭をかき乱した。世界がぐにゃりと歪む。目の前の凪の姿が、蜃気楼のように揺らいだ。

嘘だ。今、凪は嘘をついた。

何が? 「ありがとう」が嘘? それとも、「大好きだった」という言葉が? まさか、「未来から来た」という話から、僕と過ごしたこの夏の全てが、全部が、真っ赤な嘘だったというのか?

思考が停止する。血の気が引き、指先が冷たくなっていく。僕が唯一信じた、僕の静寂だった彼女の世界が、けたたましいノイズと共に崩れ落ちていく。

「……どうして」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

凪は、僕の反応に全てを察したようだった。彼女は泣き出しそうな顔で、でも必死に微笑みを作って、小さく首を横に振った。そして、何も言わずに立ち上がると、人混みの方へ駆け出していく。

「待って、凪!」

僕は叫びながら彼女の背中を追おうとしたが、次々と打ち上がる花火の音と、鳴り止まない蝉の耳鳴りに邪魔をされて、その場から一歩も動けなかった。彼女の小さな後ろ姿は、あっという間に雑踏の中に溶けて消えた。後に残されたのは、火薬の匂いと、僕の頭の中で狂ったように鳴き続ける、夏蝉のノイズだけだった。

第四章 嘘の優しさ

あの日以来、凪は本当に姿を消した。学校にも、僕たちの秘密基地だった屋上にも、彼女は二度と現れなかった。僕の世界は、再び色を失い、静寂と、そしてあの夜から鳴り止まない耳鳴りのような余韻だけが残った。

何が嘘だったのか。その答えを探して、僕は彼女が住んでいたという古いアパートを訪ねた。表札は外され、部屋はもぬけの殻だった。諦めて帰ろうとした僕の目に、郵便受けに無造作に差し込まれた、一通の茶封筒が留まった。宛名はない。震える手で封を開けると、中から出てきたのは、何枚かの写真と、一枚だけ折り畳まれた便箋だった。

写真は、あの夏、凪が撮ってくれた僕の姿だった。そして手紙には、彼女の少しだけ癖のある、優しい文字が並んでいた。

『響くんへ

ごめんなさい。私は、未来人じゃありません。

ずっと、重い病気を患っていました。この夏が、私に残された最後の時間だと知ったとき、本当はすごく怖かった。でも、響くんに出会って、残りの時間をただ悲しんで過ごすのは嫌だと思ったの。

だから、小さな嘘をつきました。私が未来に帰るっていう不思議な物語なら、私が突然いなくなっても、響くんは悲しいだけじゃなくて、少しだけワクワクした気持ちで私のことを覚えていてくれるかもしれないって。バカみたいだよね。

でも、響くんと過ごした時間は、全部本当だったよ。笑ったことも、驚いたことも、胸がドキドキしたことも、全部。響くんのおかげで、私の最後の夏は、宝物になりました。

あの夜、花火を見ながら、本当の気持ちを伝えたかった。でも、「大好き」って言ったら、私の死が響くんを未来で縛り付けてしまう気がして、怖くなったの。だから、とっさに「大好きだった」って、過去形にしてしまいました。

今の私の気持ちに、嘘をついてしまった。

きっと、あの時の蝉の声は、そのせいだね。ごめんね。

響くんを想う気持ちが本当だったからこそ、ついてしまった、私の最後の、一番下手くそな嘘でした。

どうか、元気で。君の未来が、優しい音で満たされていますように。

月島 凪』

手紙を握りしめたまま、僕はその場に崩れ落ちた。涙が、後から後から溢れて止まらなかった。

あの耳をつんざくような蝉の声は、僕を騙すためのものではなかった。僕を傷つけまいとする、彼女の必死の優しさが鳴らした音だったのだ。

僕は、なんて愚かだったんだろう。

真実と嘘を機械的に区別するだけのこの耳は、その裏側にある人の心の痛みや、温かさまでは教えてくれない。僕は、ノイズの向こう側にある真実を見ようともせず、ただ聞こえてくる音だけで世界を判断していた。

不完全で、誤解に満ちていて、時にすれ違う。でも、だからこそ人は、相手を理解しようと必死に手を伸ばす。その不器用なやり取りの中にこそ、本当に美しいものが隠れているのかもしれない。

僕は立ち上がり、凪が撮ってくれた写真を見つめた。そこには、心を許し、確かに笑っている自分がいた。彼女が永遠に閉じ込めてくれた、嘘偽りのない一瞬。

もう、蝉の声は怖くない。

これからは、この耳に頼るのをやめよう。たとえ世界がノイズに満ちていても、自分の心で、自分の目で、その向こう側にある誰かの本当の想いを、探しに行こう。

空を見上げると、あの夏と同じ、どこまでも高い青空が広がっていた。遠くで、本物の蝉が鳴いている。その声はもう、僕を苛むノイズではなく、ただの夏の音として、優しく響いていた。

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