第一章 色のない英雄
永い大戦が終結して三年。世界から極彩色の熱狂が消え、人々は鈍色の平和を甘受していた。俺、リョウ・ミシマは、その灰色の世界で色彩調整師として生計を立てている。かつて「帝国の閃光」と呼ばれた俺の網膜は、今や特定の色を捉えることができない。皮肉なことに、俺が失ったのは「赤」だった。血の色、炎の色、生命を燃やす情熱の色。それら全てが、俺の世界からは抜け落ちていた。
俺の仕事場は、街の片隅にある小さなアトリエだ。客は、戦争で色覚に異常をきたした者たち。彼らが持ち込むセピア色の家族写真や色褪せた風景画を、俺は「クロノグラフ」と呼ばれる機械で往時の色彩に復元する。モニターに並ぶRGBのスライダーを巧みに操り、記憶の中の青空や若葉の色を再現していく。だが、赤のスライダーだけは、勘に頼るしかなかった。夕焼けのグラデーションも、少女の頬の紅潮も、俺にはただの濃淡の違う黒にしか見えないのだ。
英雄の称号は、埃をかぶった勲章と共に引き出しの奥にしまい込んである。赤を失った世界で、俺は感情の起伏さえも忘れたように日々をやり過ごしていた。
そんなある日、アトリエのドアベルが澄んだ音を立てた。入ってきたのは、旧敵国である連合公国の特徴的な刺繍が施されたワンピースを着た、十代半ばほどの少女だった。透き通るような白い肌と、亜麻色の髪。そして、俺が今まで見たどんな人間の瞳よりも深く、静かな湖面を思わせる蒼い瞳を持っていた。
「あの、依頼をお願いしたいんです」
少女はそう言って、丁寧に折り畳まれた一枚のキャンバスを差し出した。広げられたそれに、俺は息を呑んだ。描かれていたのは、一輪のポピー。ただそれだけ。しかし、その花弁の鮮烈な色合いは、俺の灰色の世界を激しく揺さぶった。俺にはその色が何色なのか判別できない。だが、網膜が、脳が、魂が、それが途方もないエネルギーを秘めた色であることを叫んでいた。それは、俺が失ったはずの「赤」そのものだった。
「この絵を……デジタルデータに。描かれたままの、完璧な色で保存してほしいんです」
少女は言った。俺はゴクリと唾を飲み込む。モニターのスライダーでは決して再現できない。この生々しいまでの色彩は、一体何なのだ。
「あんたには、この色が……見えるのか?」
かすれた声で尋ねる俺に、少女はこくりと頷いた。その蒼い瞳が、哀れむように俺を射抜く。
「はい。とても、きれいな『赤』です」
その瞬間、俺の止まっていた時間が、きしむ音を立てて動き始めた気がした。
第二章 プリズムの少女
少女はアリアと名乗った。彼女は週に三度、アトリエに通ってくるようになった。ポピーの絵のデジタル化は、俺の技術をもってしても困難を極めた。クロノグラフでスキャンしても、モニターに映し出されるのはくすんだ黒い染みのようなものばかり。機械が、あのおそるべき「赤」を認識できないのだ。
「どうして、そんなにこの絵にこだわるんだ」
ある日、俺は作業の手を止めて尋ねた。アリアは窓辺に置かれた観葉植物の葉を指でなぞりながら、静かに答えた。
「これは、父が最後に描いた絵なんです。父も、画家でした」
「そうか……」
彼女が戦争孤児であることは、最初の日に聞いていた。敵国の人間とこうして穏やかに話していること自体、数年前なら考えられなかった。だが、彼女の纏う空気は不思議と俺の心を凪がせた。
アリアは、俺が色を失っていることを知ると、様々なものをアトリエに持ってくるようになった。市場で一番熟れたトマト、ガラス細工の紅いトンボ、古い絵本の表紙。それらを俺の前に並べ、「これは燃えるような赤」「こっちは少しだけ朱色が混じった優しい赤」と、一つ一つ丁寧に教えてくれるのだ。俺にはそれらが全て形の違う灰色の塊にしか見えなかったが、彼女が語る色の物語を聞いている時間は、悪くなかった。
「リョウさんの目は、とても正直ですね」
「何がだ?」
「色が見えない代わりに、光と影を誰よりも繊細に見ている。だから、あなたの復元する空の青や森の緑は、まるで本物みたいに奥行きがあるんです」
彼女の言葉は、乾いた俺の心に染み込む一滴の水のようだった。英雄でもなく、ただの色彩調整師でもない、ありのままの俺を肯定してくれる。俺はいつしか、彼女がアトリエのドアを開ける音を心待ちにするようになっていた。
ある雨の日、アリアは珍しく暗い表情でやってきた。
「機械に頼るだけでは、駄目なのかもしれません」
彼女はポピーの絵を見つめて呟いた。
「本当の色は、機械じゃなくて、心で見るものだから……」
「心で、見る?」
「はい。例えば、暖炉の火を思い出す時の、あの温かい感じ。恋をした時の、胸が高鳴る感じ。そういう感情の記憶が、色を形作るんだと父は言っていました」
感情の記憶。その言葉が、俺の胸に鈍い痛みとなって突き刺さる。戦争で俺が失ったのは、赤色だけではなかった。人を愛おしむ感情も、未来に希望を抱く情熱も、全てあの戦場で焼き尽くしてしまったのだから。
「俺には……もう、そんなものはない」
自嘲気味に吐き捨てた俺に、アリアは悲しげな瞳を向けた。そして、おもむろに俺の手に触れた。小さく、驚くほど温かい手だった。その瞬間、俺の視界の端が、一瞬だけチリッと陽炎のように揺らめいた気がした。
第三章 クロノ・サイレンサーの残響
アリアの「感情の記憶」という言葉が、頭から離れなかった。俺は過去から目を背けるように、ただ技術だけで色を再現しようとしてきた。だが、あのポピーの赤は、そんな小手先の技術を嘲笑うかのように、依然として俺の前に立ちはだかっている。
何か手がかりはないか。俺はアトリエの地下倉庫に眠っていた軍属時代の資料を漁り始めた。色彩工学の専門家として、俺は前線だけでなく、兵器開発にも僅かに関わっていたのだ。埃っぽい書類の山をめくるうち、俺はある極秘計画のファイルを見つけてしまった。
『最終精神干渉兵器 "クロノ・サイレンサー" に関する報告書』
その名前には見覚えがあった。戦争末期、戦況を覆す最終兵器として開発が進められていたものだ。しかし、実戦投入前に終戦を迎えたと聞かされていた。俺は震える手でファイルを開いた。
そこに記されていたのは、おぞましい真実だった。クロノ・サイレンサーは、物理的な破壊を目的とした兵器ではなかった。それは、特定の波長の音波と光の明滅を組み合わせることで、人間の脳の特定の記憶野に作用し、「特定の感情とそれに紐づく色の記憶」を選択的に消去する精神汚染兵器だったのだ。
報告書は続く。帝国軍が敵国・連合公国から奪おうとしたのは、「闘争心」や「愛国心」に強く結びつく「赤色」の記憶。赤を忘却させることで、敵の戦意を根こそぎ奪い去る。それが計画の全貌だった。
そして、最終ページに、俺は凍りついた。
『実験最終段階において、装置が暴走。効果範囲が予測を大幅に超過し、敵国の一部地域に加え、作戦に従事していた味方兵士の一部にも不可逆的な影響を及ぼした可能性が示唆される。被験者リスト筆頭、リョウ・ミシマ少尉』
俺が失った赤は、戦争の英雄的な代償などではなかった。自国が開発した非人道的な兵器の、失敗作の犠牲者だったのだ。俺は英雄ではなかった。俺は、連合公国の人々から色彩と感情を奪おうとした、加害者の一員だった。全身から血の気が引いていく。灰色の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
呆然とする俺の前に、タイミング悪くアリアが現れた。いつものように穏やかな笑顔で。だが、今の俺にはその笑顔さえも、俺の罪を告発する刃のように見えた。
「どうしたんですか、リョウさん……顔色が」
「……なぜだ」俺は、絞り出すような声で言った。「なぜ、あんたは色が見える? 連合公国の人間なのに」
アリアの表情が、一瞬で凍りついた。彼女の蒼い瞳が、怯えたように揺れる。その反応が、俺の最悪の推測を肯定していた。
「……あなたの父親が、この兵器の開発者なんだな?」
アリアは答えない。ただ、大きな瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちるだけだった。俺は、床に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。彼女が俺に近づいたのは、偶然ではなかったのだ。全ては、父の罪を償うために。この兵器の呪いを解く方法を探るために、被験者リストの筆頭にあった俺の元へやってきたのだ。
俺を救おうとしてくれた彼女の優しさも、彼女が語った色の物語も、全てが巨大な欺瞞の上に成り立っていた。そう思った瞬間、俺の世界は完全な暗闇に閉ざされた。
第四章 心に灯る赤
絶望が俺を支配した。アリアはアトリエに来なくなり、俺は再び独りになった。だが、以前の無気力な静寂とは違う。今は、裏切られたという怒りと、自らが加害者であったという自己嫌悪が渦巻く、嵐のような静寂だった。クロノ・サイレンサーの報告書を、何度も何度も読み返す。そこには、ただ冷たい事実だけが記されていた。
数日後、アトリエの郵便受けに、一通の封筒が届いていた。アリアからだった。中には、一枚の便箋と、古びた研究ノートの写しが入っていた。
『リョウさんへ。
ごめんなさい。あなたを騙すつもりはありませんでした。でも、真実を話す勇気がありませんでした。
父は、クロノ・サイレンサーを開発したことを最後まで悔いていました。戦争を終わらせるためだと信じていた研究が、人の心から大切なものを奪う兵器になってしまった、と。父は死ぬ直前まで、この呪いを解く方法を探していました。
同封したのは、父の研究ノートの一部です。もしかしたら、ヒントがあるかもしれません。
あなたから赤を奪ったのは、私の父です。どんなに憎まれても仕方がありません。けれど、あなたと過ごした時間、あなたが復元した美しい青や緑は、私にとって本物でした。
本当に、ごめんなさい。 アリア』
俺はノートのページをめくった。難解な数式と理論が並ぶ中、最後のページに、父の震えるような文字で、走り書きがあった。
『解決策は見つからない。機械的な治療は不可能だ。脳が失ったのではない、心が忘れたのだ。もし可能性があるとすれば……それは、"共鳴"。失われた色彩の記憶を持つ者と、持たざる者が、強い感情を共有した時にのみ起こりうる、奇跡的な情報の再同期。それはもはや科学ではなく、愛や赦しといった、詩の領域だ』
愛や、赦し。
その言葉が、氷のように冷え切った俺の心を、わずかに溶かした。俺はアリアを憎んでいた。だが同時に、彼女がくれた温もりを、俺の心は確かに記憶していた。
俺はアトリエを飛び出した。雨上がりの街を、必死で走る。アリアが住んでいるという、教会の孤児院へ。ドアを叩くと、中から現れた彼女は、泣き腫らした蒼い瞳で俺を見つめた。
「リョウ、さん……」
「……あんたを、許したわけじゃない」俺は息を切らしながら言った。「俺が加害者だったという事実も消えない。だが、それでも……俺はもう一度、あんたと話がしたい。あんたが見ている世界を、知りたい」
アリアの瞳から、再び涙が溢れた。だが、それは絶望の涙ではなかった。彼女は小さく頷くと、そっと俺の手に自分の手を重ねた。あの温かい手。
その瞬間、信じられないことが起きた。
視界が激しく点滅し、ノイズが走る。そして、目の前に立つアリアの頬に、ほんのりと温かい光が差すのが見えた。雨上がりの濡れた煉瓦道が、湿った土の色を取り戻していく。教会のステンドグラスが、くすんだガラス板から、色とりどりの宝石へと変わっていく。
そして、俺は見た。
アリアの頬を伝う涙の粒に反射して輝く、夕焼けの光を。それは、俺が忘れて久しかった、燃えるような、それでいてどこまでも優しい「赤」の色だった。
完全に見えるようになったわけではない。世界はまだ、大部分が灰色だ。だが、アリアの手を握っている時だけ、彼女の感情が流れ込んでくるかのように、俺の世界には色が灯る。彼女の悲しみは深い紫に、彼女の安堵は柔らかな若葉色に見える。
俺たちは、二人で一つだった。彼女は俺の失われた色を持ち、俺は彼女の背負う罪を分かち合う。色彩調整師の仕事はもうやめた。代わりに、俺とアリアは、二人で一枚の絵を描き始めた。まだ不格好で、色もまばらな絵だ。でも、俺たちが互いの世界を補い合いながら描くその絵には、機械では決して再現できない、心の温もりが確かに宿っていた。
灰色の世界に、二人で色を取り戻していく。それは永い、贖罪と再生の旅路の始まりだった。空を見上げると、雲の切れ間から覗く夕焼けが、今日も俺たちの未来を、確かな赤で照らしていた。