第一章 薄墨色のソリスト
僕たちの世界では、感情は隠せない。嘘をつけない。喜びは足元で踊る金色の蝶になり、悲しみは地面に広がる深い藍色の水たまりになる。怒りは燃え盛る炎のように影を尖らせ、恋をすれば桜色の光を放つ。人は皆、心に飼った感情という名の獣を、生まれながらにして影として引き連れて歩くのだ。
僕、水原湊(みなはら そう)の影は、いつだって薄墨色をしていた。アスファルトに滲んだ、乾きかけの雨染みのような色。形は僕の身体をぼんやりと縁取るだけで、喜びにはにかむことも、怒りに震えることもない。ただ静かに、地面に寝そべっているだけ。周囲の喧騒を他人事のように眺めている、無口な同居人。
高校二年の教室は、感情のスペクトルが氾濫する万華鏡だ。休み時間になれば、黄色やオレンジ色の陽気な影たちが飛び跳ね、じゃれ合い、複雑な模様を描く。廊下を歩けば、誰かの嫉妬の影が毒々しい紫色で僕の足元を掠め、片想いの切なさを滲ませる藤色の影が窓の外を眺めている。そんな色彩の洪水の中で、僕の薄墨色の影は、まるでモノクロ映画の登場人物のように浮いていた。
「水原って、いつも冷静だよな」「何考えてるか分かんない」「つまんなくないの?毎日」
そんな言葉は、もはや耳慣れたBGMだった。僕だって、つまらないわけじゃない。面白いと思えば笑うし、悲しい映画を観れば胸が痛む。けれど、僕の心と影を繋ぐ導線は、どこかが断線しているらしかった。どんなに心が揺さぶられても、影は薄墨色のまま、微動だにしない。それは僕にとって、どうしようもないコンプレックスであり、世界との間に引かれた透明な壁だった。だから僕は、いつしか感情の起伏そのものを避けるようになった。期待しない。深入りしない。そうすれば、影が動かないことへの焦りや、周囲との断絶感に苦しまなくて済む。
そんな僕のモノクロームな日常に、ある日、一滴のインクが落とされた。いや、あるいは、インクを全て消し去るほどの、純粋な空白だったのかもしれない。
担任が連れてきた転校生は、月島栞(つきしま しおり)と名乗った。柔らかそうな栗色の髪に、少しだけ色素の薄い瞳。静かな佇まいの中に、凛とした意志の強さが感じられる少女だった。教室中の視線が彼女に注がれる。好奇心、歓迎、品定め。色とりどりの感情の影が、一斉に彼女の足元へと伸びた。
しかし、次の瞬間、教室は水を打ったように静まり返った。誰もが息を呑み、自分の目を疑った。
月島栞の足元には、何もなかった。
影が、なかったのだ。強い陽光が差し込む窓際で、彼女の身体だけが、まるで宙に浮いているかのように、その輪郭の下に一片の闇も落としていなかった。僕の薄墨色の影ですら、存在の証としてそこにある。だが彼女には、その証そのものが欠落していた。
この世界において、それはあり得ないことだった。「無影(むえい)」――感情を持たない人間。あるいは、魂の抜け殻。伝説上の存在として語られるそれを、僕たちは目の当たりにしていた。
どよめきと囁き声が、毒を含んだ色の影となって床を這い回る。僕は、その異様な光景から目が離せなかった。感情の色彩から隔絶された僕と、感情の影そのものを持たない彼女。僕たちは、このカラフルな世界の、二つの特異点だった。
第二章 言葉という名の架け橋
月島栞は、すぐに孤立した。「無影」の少女は、気味の悪い都市伝説として扱われ、誰もが遠巻きに眺めるだけだった。好奇の視線に晒されながらも、彼女はいつも涼しい顔で本を読んでいた。表情は豊かだった。時折ふっと微笑んだり、難しい数式に眉をひそめたり。感情がないようには、到底見えなかった。
ある放課後、僕は図書室で栞を見かけた。窓から差し込む西日が、彼女の輪郭を金色に縁取っている。その足元は、やはり不思議なほどに明るく、影ひとつない。僕は、自分でも驚くほどの衝動に駆られて、彼女に話しかけていた。
「あの…」
栞は本から顔を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。その色素の薄い瞳が、僕の心の奥底を見透かすようだった。
「どうして、影がないの?」
我ながら、あまりに不躾な質問だと思った。だが、栞は気にした風もなく、小さく首を傾げた。
「さあ、どうしてでしょうね。物心ついた時から、こうだから」
「感情は…あるの?」
「あるわよ、もちろん」と彼女はくすりと笑った。「今だって、あなたが勇気を出して話しかけてくれたこと、少し嬉しいって思ってる」
彼女の言葉は、僕の胸にすとんと落ちてきた。嬉しい。そのシンプルな言葉が、どんなに鮮やかな色の影よりも、雄弁に彼女の心を伝えているように感じられた。
それから僕たちは、よく話すようになった。栞は、影がないことを除けば、ごく普通の少女だった。甘いものが好きで、猫の動画を見て笑い、難しいミステリー小説に頭を悩ませていた。僕たちは、互いの共通点や違いについて、たくさんの言葉を交わした。
僕は、影という絶対的な指標がない彼女と話していると、心が軽くなるのを感じた。僕の薄墨色の影を、彼女は一度も気にする素振りを見せなかった。「水原くんの影、静かで好きよ。なんだか、深い森の湖みたい」と言ってくれたことさえあった。
彼女といると、僕は忘れかけていた感覚を取り戻していった。言葉を選ぶこと。相手の表情を読むこと。声のトーンに耳を澄ませること。影という視覚情報に頼らない、純粋なコミュニケーション。それは、手探りで進む暗闇のようでありながら、同時に、指先に伝わる温もりのような確かさがあった。
「僕の影は、ずっとこのままなのかな」
ある日、僕はぽつりと呟いた。
「動かないんだ。嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても。まるで、僕の心だけが、この世界から取り残されてるみたいで」
栞は僕の隣に座り、静かに空を見上げていた。
「影なんて、ただの飾りみたいなものじゃない?」
彼女は言った。
「それがなくても、水原くんはちゃんとここにいる。あなたの言葉は、私に届いてる。それで十分じゃない?」
その言葉は、乾いた僕の心に染み渡る清らかな水だった。そうだ、十分じゃないか。影がなくても、僕には言葉がある。表情がある。この身体がある。僕は、僕自身の全部で、世界と繋がることができるんだ。
僕は、月島栞という少女に、どうしようもなく惹かれていた。この気持ちは、きっと恋だ。そう自覚した瞬間、僕は生まれて初めて、足元の薄墨色の影が、ほんの少しだけ輪郭を濃くしたような気がした。
第三章 桜色の絶望
決心したのは、よく晴れた初夏の日だった。空はどこまでも青く、校舎の屋上から見える街並みは、人々の活発な感情の影でキラキラと輝いていた。僕は栞を屋上に呼び出した。この気持ちを、自分の言葉で伝えたかった。
「月島さん、聞いてほしいことがあるんだ」
フェンスの向こうを見つめていた栞が、ゆっくりと振り返る。風が彼女の栗色の髪を優しく揺らした。僕は深く息を吸い込む。心臓が早鐘のように鳴り、熱い血が全身を駆け巡るのが分かった。
「君と会って、僕は変われた。世界が違って見えたんだ。影がなくても、ちゃんと気持ちは伝わるんだって、君が教えてくれた。僕は…君のことが、好きだ」
言い切った瞬間、僕の身体に信じられない変化が起きた。
足元に寝そべっていた薄墨色の影が、まるで長い眠りから覚めたように、もぞりと蠢いた。そして、その中心から、淡い、けれど確かな光が生まれ始めた。それは、朝焼けの空のような、生まれたての桜の花びらのような、優しいピンク色だった。色は瞬く間に影全体に広がり、僕の輪郭をなぞって、ゆらりと立ち上がった。僕の影が、初めて感情の色を宿し、自らの意志で動いたのだ。
歓喜が胸に込み上げる。見てくれ、月島さん。僕の影が、君への想いに応えてくれたんだ。
しかし、僕が顔を上げた先にあったのは、期待していた笑顔ではなかった。栞は、僕の桜色の影を見つめ、見たこともないほどに青ざめた顔をしていた。その瞳には、喜びではなく、純粋な恐怖が映っていた。
「や…やめて…」
彼女は震える声で呟き、後ずさった。フェンスに背中がぶつかる。
「どうして…どうしたんだ、月島さん?」
僕の問いかけは、彼女に届いていないようだった。彼女は自分の頭を抱え、何かから逃れるように首を振っている。
「違うの…私は…」
途切れ途切れに、彼女は告白を始めた。
「私は、『無影』なんかじゃない。私は、影を『消した』のよ」
彼女の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「昔…私の影は、誰よりも強かった。感情が、人一倍激しかったから。怒ると、影は巨大な獣になって、周りのものを壊した。悲しむと、影は冷たい氷になって、人を凍えさせた。そして…」
彼女の声が、絶望に震えた。
「一番、大切だった人を…私の喜びの影が、傷つけた。私の影が、眩しすぎて…その人の光を、奪ってしまったの…」
それ以来、彼女は自分の感情を、影を、心の底から憎んだ。そして、血の滲むような努力の果てに、自分の影を完全に消し去る術を身につけたのだという。感情を表に出さず、心を殺し、影の存在そのものを否定し続けることで。
「だから、お願い…」彼女は僕を、まるで化け物でも見るかのような目で見つめた。「そんな色の影を、私に向けないで…」
僕の足元で、生まれたばかりの桜色の影が、戸惑うように揺らめいていた。人生で初めて得た、僕の本当の感情の形。それは、僕が最も想いを伝えたいと願った相手を、深く、深く傷つけるための刃となってしまった。
第四章 ふたつの陽炎
屋上に吹きつける風が、やけに冷たく感じられた。僕の桜色の影は、主の絶望を映すかのように、輝きを失い、所在なげに揺れている。栞の告白は、僕の世界を根底から覆した。僕が憧れた彼女の「強さ」は、壮絶な過去の上に成り立つ、脆い鎧だったのだ。そして僕の好意は、無邪気にその鎧を突き破り、彼女の古傷を抉ってしまった。
胸が張り裂けそうだった。逃げ出したかった。けれど、僕の足は地面に縫い付けられたように動かなかった。ここで逃げたら、僕はまた薄墨色の世界に戻ってしまう。いや、今度はもっと暗い、絶望だけの世界に。
僕は、震える栞を真っ直ぐに見つめた。僕にできることは、もう一つしかない。
「ごめん」
僕の口から、掠れた声が出た。
「君を、怖がらせてごめん。傷つけて、ごめん」
桜色の影が、僕の謝罪に応じるように、しゅるりと縮こまり、悲しみの青を滲ませた。それを見た栞の肩が、びくりと震える。でも、僕は言葉を続けた。
「でも、この気持ちは、嘘じゃないんだ。この影は、僕の一部だ。君への想いが、この色をくれた。これを無かったことには、できない」
僕は一歩、彼女に近づいた。栞の身体が強張るのが分かった。
「君が影を怖がるなら、僕はこの影と一緒に、君に嫌われる覚悟をする。君が過去に囚われているなら、僕はこの影と一緒に、君の隣で待ち続ける。僕の言葉だけじゃ、足りないかもしれない。僕のこの影が、君を怖がらせるかもしれない。それでも、僕は君と向き合いたいんだ」
僕は自分の全てを曝け出した。不器用で、コントロールもできない、生まれたての感情の影も。そして、言葉を尽くして、もう一度伝えた。
「君の過去も、影のない君も、影を恐れる君も、全部ひっくるめて、僕は君が好きなんだ。だから、僕のことも見てほしい。この厄介な影だけじゃなく、僕自身の全部で、君と話がしたい」
僕の言葉が、屋上の空気に溶けていく。長い、長い沈黙が流れた。
やがて、うつむいていた栞が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳にはまだ恐怖の色が残っていたが、涙の膜の向こうで、何かが揺らめいていた。
そして、信じられないことが起きた。
何もなかった彼女の足元に、陽炎のように、ゆらり、と何かが立ち昇った。それはあまりに淡く、儚く、色も形も定かではない。けれど、確かにそこにある、命の灯火のような、小さな、小さな影だった。
恐怖だけではない。戸惑いと、そしてほんのわずかな希望の色を滲ませた、生まれたばかりの影。栞は、自分の足元に生まれたそれを、信じられないというように見つめていた。
夕日が、街を茜色に染め上げていく。世界中の影が、長く、優しく地面に伸びていた。僕の影は、まだ少し青みがかった桜色のまま、静かに立っている。そして、その隣には、栞の生まれたての小さな影が、まるで寄り添うように、震えながらも確かに存在していた。
僕たちの間に、まだ答えはない。彼女の影が、これからどうなるのかも分からない。僕たちの関係が、どうなっていくのかも。
けれど、僕たちは互いの不完全さを受け入れて、ようやく同じ場所に立つことができたのだ。
影がある世界も、影がない世界も、どちらが正しくて、どちらが間違っているわけでもない。大切なのは、光と闇の両方を抱えながら、それでも隣にいる誰かと、手探りで言葉を交わし、向き合おうとすることなのかもしれない。
僕の影と、栞の陽炎のような影が、夕日の中で少しだけ距離を縮めた。その光景は、どんな言葉よりも雄弁に、僕たちの長い青春の始まりを告げていた。