残光のフィルム

残光のフィルム

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第一章 蜃気楼の約束

僕の住むこの海辺の町には、一つの奇妙な風習がある。「門出の儀」と呼ばれ、十八歳になって町を出る者は、自らの「最も大切な記憶」を一つ、岬の突端にある古い祠に捧げなければならない。そうすることで、未来への祝福が得られると、大人たちはこともなげに語る。失われた記憶は、新しい世界で生きるための贄なのだと。

高校三年生の夏が、まるで燃え尽きる前の蝋燭のように、最後の輝きを放ちながら終わりを告げようとしていた。写真部の僕、水島湊にとって、ファインダー越しの世界は常に現実から一枚隔てた、安全な場所だった。卒業後は東京の大学へ進み、もっと広い世界をこの目に、このレンズに焼き付けたい。そのために、どの記憶を捧げるか、僕はぼんやりと考え始めていた。初めてコンクールで入賞した時の、胸が張り裂けそうな高揚感か。それとも、今はもういない祖父と交わした最後の、温かい会話か。

そんなある日、僕の日常を覆す亀裂が走った。

「私、この町に残ることにした」

放課後の教室で、夕陽に髪を染めながらそう言ったのは、幼馴染の相沢陽葵(ひまり)だった。彼女は、僕なんかよりもずっと強く、外の世界に焦がれていたはずだった。快活な笑顔で、雑誌を広げては「東京に行ったら、まずここに行こう」と僕の肩を叩いていた、あの陽葵が。

「……冗談だろ?」

「本気だよ。大学には行かない。ここで、就職先を探す」

陽葵は窓の外に広がる、凪いだ海を見つめていた。その横顔は、僕の知らない誰かのものみたいに、硬く、冷たく見えた。なぜだ。どうしてなんだ。喉まで出かかった言葉は、彼女がまとった拒絶の空気に押し戻され、音にならなかった。

僕たちの間には、約束があった。二人で一緒にこの小さな町を出て、新しい地平線を見に行こうという、幼い頃からの約束が。陽葵は、その約束をいとも容易く破り捨てようとしている。彼女の突然の心変わりは、夏の終わりの空に浮かんだ不吉な暗雲のように、僕の心を重く覆い始めた。僕のファインダーが捉える世界が、この日から少しずつ歪んで見え始めた。

第二章 褪せたインクの染み

陽葵の変化は、僕の日常から彩度を奪っていった。あれ以来、彼女は僕を避けるようになった。廊下ですれ違っても気まずそうに目を伏せ、僕が何かを問いただそうとすると、「あなたには関係ない」という見えない壁で僕を突き放した。その壁の向こう側で、彼女が何を考えているのか、僕には全く分からなかった。

焦燥感に駆られた僕は、自分の捧げるべき記憶を選ぶという名目で、過去を撮りためたフィルムを整理し始めた。部室の薬品のツンとした匂いの中、赤いセーフライトの光に照らされて、現像液に浮かび上がる光景たち。陽葵と二人で笑い転げた文化祭の準備。自転車で駆け抜けた、向日葵が咲き誇る夏の道。夜の浜辺で、息を殺して見上げた満点の星空。

一枚一枚が、かけがえのない宝物だった。これを、一つ、失うのか。まるで自分の体の一部をもぎ取られるような、生々しい喪失感を想像し、僕は身震いした。

ある雨の日、僕はびしょ濡れになりながら町の図書館へ向かった。調べものがあると言っていた陽葵が、最近この古い建物の郷土資料室に通い詰めていると聞いたからだ。埃と古紙の匂いが充満する静寂の中、僕は書架の影から彼女の背中を見つけた。彼女は、分厚い町の史書や、黄ばんだ古文書のようなものを、鬼気迫る表情で読み漁っていた。その姿は、何かから逃げているようでもあり、同時に何かを必死で追いかけているようにも見えた。

「陽葵、一体何を調べてるんだ」

僕の声に、彼女の肩がびくりと跳ねた。振り返った彼女の瞳は、怯えと、そして僕に対するかすかな怒りの色を宿していた。

「……来ないでって言ったでしょ」

「言われなくたって分かるよ。おかしいんだ、君は。あの『門出の儀』と何か関係があるのか?」

僕の言葉に、陽葵は唇を固く結んだ。彼女は読んでいた文献を乱暴に閉じると、僕の横をすり抜けて部屋を出て行こうとした。僕は咄嗟にその腕を掴む。

「教えてくれ!俺たちの約束は、どうなるんだよ!」

掴んだ腕は、驚くほど細く、冷たかった。陽葵は振り向かないまま、絞り出すような声で言った。

「あの約束は、もう蜃気楼みたいなものよ。初めから、そこには何もなかったの」

その言葉は、褪せたインクの染みのように、僕の心にじわりと広がっていった。僕が大切にしていたはずの青春の風景が、陽葵の言葉ひとつで、まるで偽物のように色褪せていく。僕は、彼女が何をそんなに恐れているのか、その正体を突き止めなければならないと強く思った。それはもう、僕自身の未来のためでもあった。

第三章 記憶を喰らう町

僕は陽葵を諦めなかった。数日後、僕は彼女の家の前で待ち伏せ、もう一度、真実を話してくれと食い下がった。根負けしたのか、あるいは僕の必死さが伝わったのか、陽葵は重い口を開いた。

「湊は、お兄ちゃんのこと、覚えてる?」

「陽葵のお兄さん? もちろん。優しくて、格好良くて。確か、東京の大学に行ったんだよな」

「そう。五年前、『門出の儀』を済ませて、この町を出て行った」

陽葵の目に、暗い影が落ちる。彼女は俯き、言葉を続けた。

「でも、お兄ちゃんは変わってしまった。町を出てから、まるで魂の半分をどこかに置いてきたみたいに、無気力になったの。笑わなくなって、夢を語らなくなって……。ただ、生きているだけの人になった」

彼女は一枚の古い新聞の切り抜きを僕に見せた。それは、郷土資料室で見つけたものらしかった。数十年前の記事で、町の発展と「門出の儀」の関連性について、ある民俗学者が唱えた仮説が書かれていた。

そして、陽葵が突き止めた真実が、彼女の震える唇から語られた。それは、僕がよじ登ろうとしていた梯子を、根元からへし折るような、絶望的な事実だった。

「『門出の儀』で捧げられた記憶は、消えてなくなるんじゃない。……食べられるのよ、この町に」

僕は息を呑んだ。陽葵の話は、まるで悪夢のようだった。彼女が発見した古文書によれば、この町の地下には、古代から巨大な生命体――あるいはシステムと呼ぶべき何か――が眠っているという。それは町の繁栄と活力を維持するために、エネルギーを必要とする。そして、その最高の栄養源が、若者の純粋で強烈な感情が宿った「記憶」なのだと。

「門出の儀」は、祝福の儀式などではなかった。若者たちの最も輝かしい青春の瞬間を、町が生き長らえるための生贄として捧げさせる、巧妙に隠蔽された搾取のシステムだったのだ。僕らが美しいと信じてきた伝統は、若者の魂を喰らうための、おぞましい捕食行為に他ならなかった。

「お兄ちゃんはきっと、一番大切な記憶を捧げたんだわ。だから、心が空っぽになってしまった。私は……あなたに同じ思いをさせたくない」

陽葵の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女が町に残ると言ったのは、僕の気を引くための嘘だった。僕をこの呪われた儀式から守るために、たった一人で、この巨大な欺瞞と戦おうとしていたのだ。

僕の頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。美しいと思っていた故郷の風景が、途端に禍々しい怪物のように見え始める。潮騒は嘆きの声に、夕陽は血の色に、優しかった大人たちの笑顔は、真実を知りながら黙認する共犯者のそれに思えた。ファインダー越しに見ていた安全な世界は粉々に砕け散り、僕は初めて、生身のまま、この残酷な現実の前に立たされていた。

第四章 捧げるべき地平線

卒業式の日、空は皮肉なほど青く澄み渡っていた。式の後、僕たち卒業生は「門出の儀」に臨むため、岬の祠へと向かった。町の長老たちが、厳かな表情で僕らを見守っている。その中に、陽葵の姿を見つけた。彼女は人垣の後ろから、祈るような、泣き出しそうな顔で僕を見つめていた。

順番が来て、僕は祠の前に立った。冷たい石の鳥居の向こうに、暗い口を開けた祠がある。あれが、僕らの青春を喰らう怪物の口か。長老の一人が、抑揚のない声で告げる。

「水島湊よ。汝が未来のために捧げる、最も大切な記憶を心に思い浮かべよ」

僕は目を閉じた。脳裏に、数え切れないほどの光景が明滅する。初めてシャッターを切った日のこと。陽葵と交わした他愛ない会話。コンクールの賞状。祖父の笑顔。どれもが僕を形作ってきた、愛おしい記憶のカケラだ。どれか一つを失うことは、僕自身の一部を殺すことに等しい。

だが、僕の心はもう決まっていた。

目を開けた僕の視線の先には、心配そうに唇を噛む陽葵がいた。僕は彼女に向かって、一度だけ小さく頷くと、もう一度目を閉じた。そして、心の中で一つの記憶を、強く、鮮明に思い描いた。

それは、過去の美しい思い出ではなかった。

それは、陽葵からこの町の真実を聞かされ、二人で絶望し、怒り、それでも諦めずに未来への道を探そうと誓い合った、つい数日前の、あの雨の日の記憶。僕の価値観が根底から覆され、世界が反転した、あの瞬間の記憶だ。

「……捧げました」

僕が静かに告げると、長老たちは怪訝な顔をした。祠から、一瞬、不協和音のような微かな振動が空気を伝わった気がした。

僕は長老たちに向き直り、集まった人々にも聞こえるように、はっきりと言った。

「僕が捧げたのは、『この町の欺瞞を知り、それでも未来を諦めないと決意した、今のこの意志』の記憶です」

ざわめきが起こる。僕は続けた。

「最も大切な記憶とは、過去の美しい思い出のことじゃありません。それは、未来を自らの手で切り拓こうとする、人間の意志そのものだと僕は思います。この町が本当に繁栄を続けたいのなら、若者から過去の輝きを奪うのではなく、僕らが抱く未来への意志をこそ、受け止めるべきじゃないですか」

僕の言葉が、システムにどんな影響を与えたのかは分からない。あるいは、何も変わらないのかもしれない。でも、それで良かった。僕にとって重要なのは、ただ奪われるのではなく、自らの意志で「何を捧げるか」を選び取ることだったから。

僕は、記憶を何一つ失うことなく、祠に背を向けた。人垣をかき分けて駆け寄ってきた陽葵が、僕の手を強く握る。その手は、もう冷たくはなかった。

僕たちは二人で、その日の夕方の電車に乗った。ゆっくりと動き出した窓から、小さくなっていく町が見える。夕陽を浴びたその風景は、もはや郷愁を誘う美しい故郷ではなかった。僕らの魂を糧にしてきた、巨大な揺り籠だ。

僕はカメラを構え、その光景をフィルムに焼き付けた。ファインダー越しに見える世界は、もう歪んではいなかった。痛みも、欺瞞も、絶望も、全て含んだありのままの現実として、そこにあった。

僕らは過去の思い出ではなく、故郷という名の呪縛を捧げて、町を出たのだ。僕たちの前には、不確かで、けれど無限の可能性を秘めた地平線が広がっている。残光が染め上げるレールの上を、電車は未来へと向かって進んでいく。その光景を、僕は決して忘れないだろう。

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