空ろな影と、砂時計の空

空ろな影と、砂時計の空

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第一章 併走するセピアの幻影

僕、湊(みなと)には、秘密がある。他人が選ばなかった、もうひとつの未来。それが、色褪せた幻燈のように、その人のすぐ隣に見えるのだ。

例えば、昼休みの教室。クラスメイトの美咲が購買のパンをかじる横で、学食のカレーを選んで談笑する影の美咲が、セピア色の輪郭で重なっている。それは彼女が今朝、友人と交わした「学食もいいね」という、何気ない一言から生まれた可能性の断片だ。僕の世界は、そんな無数の「もしも」で常に飽和していた。

この世界の空は、僕ら十代の感情の総量で色を変える。誰かの強い恋心が空を茜色に染め、試験前の集団的な憂鬱が、街全体を重たい鉛色の雲で覆う。感情が乱高下する思春期は、天気予報が最も役に立たない季節だった。

そんな移ろいやすい世界で、たった一つ、変わらないものがあった。親友である陽介(ようすけ)の影だ。

太陽のように笑い、その場の空気を一瞬で暖める陽介。彼の隣には、いつも同じ影が併走している。進路希望調査票に「プロミュージシャン」と書いた彼。その横には、大学のパンフレットを眺める影の陽介がいる。だが、どちらの未来を選ぼうとも、その影の行き着く先は同じだった。ふっと輪郭が揺らぎ、まるで陽炎のように掻き消えてしまうのだ。

どんな選択肢を辿っても、必ず「消滅」に至る未来。その不変の絶望だけが、僕の見る陽介のすべてだった。彼の屈託のない笑顔を見るたび、僕の胸には冷たい雨が降り始める。そして決まって、窓の外の空も、僕の心を映したかのように泣き出しそうな色に染まるのだった。

第二章 逆流する砂時計

僕の部屋の机には、祖母の形見である小さな砂時計が置いてある。中の砂はとうに落ちきっていて、まるで琥珀の中に時間を閉じ込めた化石のようだった。祖母も、僕と同じものを見ていたのだろうか。その答えを知る術はもうない。

陽介が進路のことで親と揉めたらしい、と噂が流れた日、空は一日中、荒れ狂っていた。雷鳴が教室の窓を揺らし、生徒たちの不安を煽る。僕は、陽介の背中を追って屋上へと向かった。フェンスに寄りかかり、灰色の空を見上げる彼の横顔は、いつもよりずっと脆く見えた。

「親父がさ、俺のギター、捨てちまったんだ」

絞り出すような声だった。その瞬間、彼の横に立つ影が二つに分かれた。一つは、父親に殴りかからんばかりの勢いで掴みかかる影。もう一つは、黙って自分の部屋に閉じこもる影。だが、どちらの影も、その先でゆっくりと輪郭を失い、黒い塵となって消えていく。

「どうして……」

僕の口から、無意識に声が漏れた。どうして、どんな道を選んでも君は消えてしまうんだ。僕の焦燥と共鳴するように、ポケットに入れていた砂時計が、微かに熱を帯びた。取り出して見ると、信じられない光景が広がっていた。落ちきっていたはずの砂が、まるで重力に逆らうように、一粒、また一粒と、ゆっくりと上へと昇っていく。

時間は不可逆のはずだ。だが、この砂時計は、僕が陽介の「もしも」と強く同期する時だけ、失われたはずの「もしもの時間」を刻み始めるようだった。僕はそこに、一条の光を見出した。この砂を使えば、陽介の絶望的な未来を変えられるかもしれない、と。

第三章 観測者の傲慢

それから僕は、陽介の未来を変えることに固執し始めた。彼の選択を、一つでも多く「消滅」から遠ざけるために。

「陽介、今日の昼は購買の焼きそばパンにしないか? あれ、すぐ売り切れるらしいぞ」

「悪い、湊。今日は弁当なんだ」

その瞬間、僕には見えた。僕の誘いに乗り、焼きそばパンを買いに走る陽介の影が。そして、その影が階段で足を滑らせ、——消える。

「じゃあ、帰り道、駅前の楽器屋に寄らないか? 新しい弦、見たいんだ」

「ごめん、今日は塾がある」

塾へ向かう陽介の背後で、僕と楽器屋へ向かう影が、交差点で信号無視のトラックに——消える。

僕が介入しようとすればするほど、陽介の「死」のバリエーションが増えるだけだった。良かれと思った僕の選択が、彼の未来をより残酷な形で閉ざしていく。僕の心はささくれ立ち、感情の波はそのまま空に伝播した。青空が広がったかと思えば、数分後には雹が降り注ぐ。そんな予測不能な天気が続き、街は混乱していた。誰もが、思春期の誰かの心が壊れかけているのだと噂した。その元凶が僕だとは知らずに。

砂時計の砂は、僕が介入を試みるたびに、逆流する量を増やしていった。僕はそれを希望の光だと信じ込んでいた。だが、砂が上へ昇れば昇るほど、僕自身の胸には、得体の知れない空虚な穴が広がっていくような気がしていた。

第四章 君が見ていたもの

ついに、陽介が僕に向き合った。放課後の、誰もいない教室。西日が僕たちの長い影を床に描いていた。

「なあ、湊。最近、変だぞ」

静かだが、有無を言わせない声だった。

「俺のこと、見てるようで、見てない。いつも俺の向こう側にある何かを、怯えた目で見てる」

心臓が凍りついた。彼の真っ直ぐな瞳から、僕は逃げることができない。僕は観念して、すべてを打ち明けた。僕の持つ能力のこと。他の誰とも違う、陽介だけの、固定された絶望的な未来のこと。どんな選択をしても、君が消えてしまう未来しか見えないのだ、と。

僕の告白を、陽介はただ黙って聞いていた。やがて、長い沈黙を破って、彼が口を開いた。

「そっか……」

彼の声は、震えていた。怒りでも、恐怖でもない。それは、深い、深い悲しみの色をしていた。

「俺はさ、別に未来なんてどうでもよかったんだ。ミュージシャンになれなくたって、親父に認められなくたって、生きていける。ただ……」

陽介は一度言葉を切り、僕の目をじっと見つめた。

「ただ、湊がいつも俺のことじゃなくて、俺の『もしも』ばっかり見てるのが、寂しかったんだよ」

その言葉は、雷鳴よりも激しく僕の心を打ち抜いた。

寂しかった?

僕が、陽介を?

僕は彼を救おうと必死だった。彼の未来を守ろうと、自分のすべてを懸けていたはずだ。それなのに——。

僕は気づいてしまった。僕は陽介という存在そのものではなく、「陽介が消える未来」という現象だけを観測していたのだ。親友を救うという大義名分を掲げた、独りよがりの観測者に過ぎなかった。

第五章 空ろな器の正体

陽介の言葉が、頭の中で何度も反響する。僕はよろよろと家に帰り着き、机の上の砂時計を掴んだ。逆流した砂は、すでに全体の三分の一ほどに達している。その冷たいガラスの感触が、僕自身の心の温度のように感じられた。

その時、ふと祖母の言葉が蘇った。僕が幼い頃、この砂時計を眺めながら彼女が呟いた言葉だ。

『時間はね、湊。前にしか進まないから美しいの。もしも、なんて考え出したら、今の自分が迷子になっちゃうからね』

——今の自分が、迷子になる。

全身に鳥肌が立った。まさか。まさか、そうだったのか。

砂時計の逆流は、「もしもの時間」を取り戻しているのではなかった。僕が他人の「もしも」に心を奪われるたび、僕自身の「今」という時間が、この砂時計に吸い取られていたのだ。

そして、陽介の隣に見えていた、あの黒く消え去る影。あれは、陽介の未来ではなかった。

あれは、親友の「もしも」に囚われ、自分自身の「今」を生きることを放棄し、無限の可能性を失っていく——僕自身の未来の姿だったのだ。僕が陽介の未来を救おうとすればするほど、僕自身の未来が消えていく。なんと皮肉な真実だろう。僕は陽介を救うどころか、彼をダシにして、自分自身の青春を食い潰していたに過ぎなかった。

第六章 君と見る、不確かな青空

翌日、僕は陽介を屋上に呼び出した。不安定な風が、僕たちの髪を揺らしている。

「陽介。俺、もう見るのをやめる」

僕は覚悟を決めて言った。

「君の『もしも』を見るのは、もうやめる。これからは、不確かで、何も保証のない、今の君だけを見る」

それは、僕にとって能力を捨てることと同義だった。未来の危険を察知する術を失い、無防備なまま世界と対峙すること。怖くないはずがなかった。だが、陽介の「寂しかった」という言葉に比べれば、そんな恐怖は些細なことだった。

僕は強く目を閉じ、意識を自分の内側へと集中させる。今までずっと外側に向いていた知覚のアンテナを、一本一本、丁寧に折り畳んでいく。

目を開けた時、世界は変わっていた。

人々の隣を併走していたセピア色の幻影が、すべて消え失せている。世界は、ただ「今、そこにある」ものだけで構成されていた。シンプルで、少し心許ないけれど、驚くほど澄み切って見えた。

そして、陽介の隣に常にまとわりついていた、あの黒い消滅の影が、春の雪のように陽光へと溶けていくのが見えた。

その瞬間。僕の視界の隅で、数え切れないほどの色とりどりの光の粒が、きらきらと瞬いた。それは、僕が今まで見ようともしなかった、僕自身の「選択されなかった、そしてこれから選択しうる、無数の未来」の輝きだった。

「やっとこっちを見てくれたな」

陽介が、照れくさそうに笑った。その笑顔は、僕が今まで見てきたどの陽介よりも、鮮やかで、力強かった。

僕たちが笑い合った瞬間、街を覆っていた厚い雲が嘘のように晴れ渡り、どこまでも続く、突き抜けるような青空が広がった。ポケットの中の砂時計は、ガラスの透明さを取り戻し、ただ静かに沈黙している。もう、僕の時間を奪うことはないだろう。

未来はわからない。明日、僕らがどうなっているかなんて、誰にも予測できない。

でも、それでいいんだ。

不確かな空の下、確かな体温で隣にいる君と、「今」を生きていけるのなら。

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