第一章 耳鳴りの檻
僕、水島湊の世界は、常に不協和音に満ちていた。
それはヘッドホンで大音量の音楽を流しても完全には遮断できない、耳の奥にこびりつく金属的な耳鳴り。クラスメイトが口を開けば「キーン」と甲高い音が、教師が声を張り上げれば「ジジジ」と濁ったノイズが、僕の鼓膜を苛む。これは病気ではない。僕だけに聞こえる、他人の「後悔」の音だ。
いつからか備わったこの忌まわしい能力のせいで、僕は人と深く関わることをやめた。後悔の音は、その人の内面を無遠慮に暴き出す。見栄や強がりの裏で渦巻く、みっともない自己嫌悪の残響。そんなものを四六時中聞かされ続ければ、誰だって人間嫌いになるだろう。だから僕は、耳を塞ぎ、心を閉ざし、透明人間のように日々をやり過ごしていた。
その日、僕の灰色の日々に、予期せぬ色が混じり込んだ。
「今日からこのクラスの仲間になる、天野陽菜さんです」
担任の紹介で教壇に立った転校生は、窓から差し込む初夏の光を全身に浴びて、きらきらと輝いて見えた。色素の薄い髪が揺れ、大きな瞳が好奇心に満ちた光で教室の隅々まで見渡している。そして、僕が空けていた隣の席に座ることになった。
最悪だ、と思った。彼女が席に着き、「よろしくね」と僕に微笑みかけた、その瞬間。
僕は思わず息を呑んだ。
彼女から音がした。けれど、それは僕が聞き慣れた耳障りなノイズではなかった。
──チリン。
澄み切った、小さな鈴の音。それは悲しいほどに清らかで、どこか懐かしい響きを持っていた。まるで、遠い記憶の底から聞こえてくるような、切ない音色。
後悔の音であることは、直感で分かった。だが、なぜ彼女の後悔だけが、こんなにも美しい音を奏でるのか。僕は混乱し、心臓が大きく脈打つのを感じた。彼女の屈託のない笑顔の裏で、その鈴は静かに、しかし確かに鳴り続けていた。僕の耳鳴りの檻を、そのたった一つの音色が、内側からそっと揺さぶっていた。
第二章 忘れられたフィルム
天野陽菜は、僕の静かな世界を遠慮なくかき乱す、台風のような存在だった。
「水島くん、いつも何聴いてるの?」「お昼、一緒に食べない?」「その教科書、見せて!」
僕はヘッドホンを盾に、できる限りの抵抗を試みたが、彼女は全く意に介さなかった。僕が無視を決め込むと、彼女は僕の机にノートを広げ、筆談で話しかけてくる始末だった。彼女が近づくたびに、僕の耳にはあの鈴の音が響く。その音は、僕の心を落ち着かなくさせた。他の不協和音とは違い、その音から逃げたいとは思わなかった。むしろ、その音の源を知りたいという抗いがたい欲求に駆られていた。
ある放課後、ついに僕は彼女に捕まった。
「ねえ、水島くん! 映写部っていうの見つけたんだけど、一緒に行ってみない?」
断る間もなく腕を引かれ、連れて行かれたのは旧校舎の片隅にある、カビと埃の匂いが充満する小さな準備室だった。そこが廃部寸前の映写部の部室らしかった。部屋の中央には、年代物の8mm映写機が鎮座している。
「すごいでしょう? まだ動くんだって」
陽菜は目を輝かせながら、壁一面の棚に乱雑に積まれたフィルム缶を指差した。「昔、誰かが撮ったまま忘れられちゃったフィルムが、ここにたくさん眠ってるの。その物語を、私、見てみたいなって」
彼女の横顔を見つめながら、僕はまたあの音を聞いた。チリン、チリン。それはまるで、彼女の言葉に共鳴するかのように、いつもより少しだけ強く響いた。
それから、僕たちの奇妙な放課後が始まった。無気力な三年生の部長に許可をもらい、僕たちは古いフィルムを片っ端から映写機にかけていった。映し出されるのは、退屈な学校行事の記録や、手ブレのひどい誰かの日常ばかり。それでも陽菜は、スクリーンに映る光と影の一瞬一瞬を、宝物を見つけたかのように楽しんでいた。
カタカタと回るリールの音、映写機の排熱が孕む微かな熱気、暗闇の中で光の筋となって舞う埃。その空間だけは、外の世界の不協-和音から切り離されているように感じられた。僕はいつしか、ヘッドホンを外して映写機の音に耳を澄ませるようになっていた。そして、隣に座る陽菜から聞こえる、あの澄んだ鈴の音に。それは僕にとって、世界で唯一、心地よいと感じられる「後悔」の音だった。
第三章 夏のエチュード
季節が夏へと移ろうとしていたある日、僕たちは部室の棚の奥深くで、錆びついた一つのフィルム缶を見つけた。手書きのラベルには、掠れた文字で『夏のエチュード』とだけ記されている。
「エチュードって、練習曲って意味だよね。なんだろう、これ」
陽菜の弾んだ声が、静かな部室に響く。僕たちは期待に胸を膨らませながら、そのフィルムを映写機にセットした。
カタ、カタ、カタ……。
リールが回り始め、スクリーンに光が灯る。ノイズ混じりの映像が映し出したのは、数年前の、真夏の風景だった。蝉時雨が聞こえてきそうな、深く濃い緑の木々。向日葵が咲き誇る田舎道。
そして、そこに二人の子供がいた。麦わら帽子をかぶった快活な少女と、少し年上らしい、はにかんだ笑顔の少年。
僕は息を止めた。その少年に見覚えがあったからだ。ありえない。だって、彼は──。
映像の中の少女が、楽しそうに笑いながら少年に駆け寄る。その屈託のない笑顔は、まさしく今、僕の隣にいる天野陽菜その人だった。
「これ、私だ……」
陽菜が、震える声で呟いた。彼女も忘れていた記憶の断片を目の当たりにして、呆然としているようだった。
映像は続く。二人が川で水をかけ合ったり、縁側でスイカを食べたりする、ありふれた夏の日の記録。だが、僕の目には、それはあまりにも眩しく、そして痛々しく映った。なぜなら、陽菜の隣で優しく微笑む少年は、三年前に事故で死んだ僕の兄、海斗だったからだ。
フィルムの終盤、夕暮れの河原で、海斗が陽菜に向かって何かを真剣に伝えようとしていた。彼の口が動く。しかし、声は記録されていない。陽菜は俯いて、何かを拒絶するように首を横に振っている。そして、海斗がもう一度口を開こうとした、その瞬間──ぷつり、と映像は途切れた。
暗転したスクリーン。静寂が部室を支配する。
その時だった。
チリン、チリン、チリン、チリン──!
陽菜から聞こえる鈴の音が、嵐のように激しく、そして悲痛に鳴り響いた。それはもはや美しい音色ではなかった。胸を掻きむしられるような、慟哭そのものだった。
「あの日……」陽菜が、ぽつりと語り始めた。涙が彼女の頬を伝っていた。「海斗くんと、喧嘩したの。些細なことだった。でも私、すごく意地を張って……ひどいこと、言っちゃったんだ。『もう会いたくない』って。それが、最後の言葉になるなんて、思わなかった……」
僕は、ようやく全てを理解した。彼女が抱え続けてきた後悔の正体。伝えられなかった言葉と、伝えさせてあげられなかった言葉。その純粋で、あまりにも重い悔恨が、あの澄んだ鈴の音を生み出していたのだ。
そして同時に、僕は自分自身の内側にも、鈍い不協和音が鳴り響いていることに気づいた。兄が死んでから、僕は彼のことを考えないようにしてきた。もっと話しておけばよかった。もっと一緒に過ごせばよかった。そんなありふれた後悔から、ずっと耳を塞いできたのだ。陽菜の鈴の音に惹かれたのは、彼女の後悔が、僕自身の心の奥底に眠っていた後悔と、どこかで共鳴していたからなのかもしれない。
第四章 君と僕の続きのフィルム
その夜、僕は初めて陽菜に自分の能力のことを打ち明けた。他人の後悔が、耳鳴りとして聞こえること。彼女の後悔だけが、鈴の音として聞こえていたこと。
「君の音は、ずっと聞こえていた。でも、それは嫌な音じゃなかった。すごく悲しくて、でも……綺麗だと思った」
陽菜は驚いた顔をしたが、やがて静かに頷いた。僕たちが共有した秘密は、二人をより強く結びつけた。
「このフィルムの続き、作らない?」
僕の提案に、陽菜は涙の滲む瞳で僕を見つめ返した。「続き?」
「ああ。兄さんが君に伝えたかったこと、そして君が兄さんに伝えたかったことを、僕たちの手で。過去は変えられない。でも、物語の続きなら、僕たちが作れる」
僕たちの、最後の映写部の活動が始まった。僕たちは8mmカメラを手に、海斗と陽菜が過ごした場所を巡った。夕暮れの河原、向日葵畑の続く道。僕たちは、兄が生きていたら言ったであろう言葉を、陽菜が伝えたかったであろう想いを、一つずつ映像に紡いでいった。それは、後悔と向き合う、痛みを伴う作業だった。だが、ファインダーを覗く僕の隣には、いつも陽菜がいた。
文化祭の日。僕たちは講堂のスクリーンで、一本の映画を上映した。タイトルは、『夏のエチュード、そしてフーガ』。
映画は、あの古いフィルムから始まる。幼い陽菜と海斗の、眩しい夏の記憶。そして、映像が途切れたあの河原のシーン。
暗転の後、スクリーンには現在の陽菜が映し出される。彼女は、同じ河原に立ち、夕日に向かって静かに語りかける。
「ごめんね。そして、ありがとう。ずっと、大好きだったよ」
それは、三年間彼女の中で鳴り響いていた鈴の音の、本当の正体だった。
映画の最後は、僕が撮った夏の終わりの空で締めくくった。上映が終わり、明かりが灯る。拍手はまばらだったけれど、僕たちにとっては、それで十分だった。
僕は、隣に立つ陽菜に視線を向けた。そして、気づいた。
あれほど僕の耳に響いていた鈴の音が、完全に止んでいることに。
それだけではない。世界を埋め尽くしていた、あの不快な不協和音の全てが、まるでボリュームを絞ったかのように遠のいていた。僕は、ゆっくりと自分のヘッドホンを外した。
ざわめきが、直接耳に届く。観客たちの話し声、遠くから聞こえる喧騒、空調の作動音。様々な音が混じり合っている。でも、それはもう、ただのノイズではなかった。
不完全で、不揃いで、時々耳障りで。だけど、その一つ一つが誰かの生きた証のように感じられた。後悔は、決して消え去るものではないのかもしれない。陽菜の心からも、僕の心からも。でも、僕たちは知った。その音と共に生きていくことはできるのだと。
「ありがとう、湊くん」
陽菜が、泣き腫らした目で僕に微笑んだ。
僕は、まだ少しだけ慣れない、生のざわめきに満ちた世界の中で、彼女に笑い返した。僕たちの青春は、きっと、これから始まる。たくさんの後悔の音色を、未来への練習曲に変えながら。