プリズムの蜃気楼

プリズムの蜃気楼

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第一章 空色の憂鬱

僕、水上湊(みなかみ みなと)の身体には、奇妙なバグが埋め込まれている。強い感情が昂ると、皮膚の下に色のついた結晶が生まれるのだ。怒りは黒曜石のように鋭く、喜びはトパーズのように温かい。そしてそれは、数時間もすれば霞のように消えてしまう、儚い宝石だった。

最近、僕らの住むこの海沿いの街は、もっと大きなバグに見舞われている。「青春の蜃気楼」と呼ばれる現象だ。思春期の若者たちの漠然とした不安や焦りが飽和点に達すると、街の風景が陽炎のように歪み、セピア色の幻影を映し出す。大人たちはそれを気圧の変化か何かのせいにするが、僕らにははっきりと見えていた。

今日の放課後もそうだった。返却された数学の答案用紙に刻まれた赤い点数を見た瞬間、僕の指先に、鉛色の小さな結晶がじわりと滲む。空色の憂鬱。ため息をつくと、目の前の校庭がぐにゃりと歪んだ。蜃気楼だ。古めかしい木造校舎の幻影が、今の鉄筋コンクリートの校舎に重なる。その時だった。指先の鉛色の結晶が、ふっと光の粒子になって蜃気楼の中へ吸い込まれていく。まるで、乾いた砂が水を吸うように。幻影の奥、一瞬だけ、見知らぬ制服を着た少女の横顔が見えた気がした。

第二章 茜色の残像

「湊、また結晶出てる」

隣を歩く幼なじみの陽菜(ひな)が、僕の指先を覗き込んで言った。彼女は僕の体質を知る数少ない理解者だ。

「ああ、ちょっとね」

僕は慌てて手をポケットに隠す。陽菜の屈託のない笑顔を見ると、胸の奥が甘く疼き、指先には先ほどの鉛色とは違う、夕焼けのような茜色の結晶が微かに灯っていた。この感情を、僕はまだ名前もつけられずにいる。

坂道を下り、商店街に差し掛かった時、世界が再び揺らいだ。

「わ、今日のは濃いね」

陽菜が目を丸くする。僕らの目の前には、シャッターが下りた今の商店街ではなく、活気に満ちた過去の街並みが広がっていた。豆腐屋の威勢のいい声、路面電車が立てる耳障りな金属音、ソースの焦げる香ばしい匂い。五感が幻影に侵食されていく。

そして、彼女がいた。

雑踏の中心に、一人だけ時が止まったかのように佇む少女。セーラー服に、胸元で揺れる小さな砂時計。その砂時計が、虹色にきらめいている。僕が目を奪われていると、指先の茜色の結晶が意思を持ったように宙に浮かび、糸を引くようにして少女の方へ飛んでいった。結晶は彼女に届く直前で光となり、その胸の砂時計にすうっと吸い込まれる。

刹那、少女がこちらを振り返った。その瞳は、何かを渇望するように、ひどく寂しげだった。

第三章 結晶の行方

僕と同じ体質を持つ者は、クラスに数人いた。「結晶が蜃気楼に吸いわれる」現象は、彼らの間でも噂になっていた。

「吸い込まれた後、なんだか心が軽くなるんだよな」

「わかる。罪悪感の結晶が消えた時は、マジで救われた気分だった」

僕らは図書室の片隅で、まるで秘密結社の集会のように声を潜めて話し合った。僕らの感情は、あの幻影の養分にでもなっているのだろうか。そして、あの少女は一体何者なんだ。

「蜃気楼が一番濃くなる場所があるらしい」

一人が切り出した。街外れにある、今は使われていない古い展望台。そこは、街の感情が吹き溜まる場所なのだという。

「行ってみよう」

僕が言うと、陽菜も力強く頷いた。

「私も行く。湊一人じゃ心配だし」

彼女の言葉が、僕の胸に温かい結晶を生む。真実を知りたいという好奇心と、陽菜が隣にいることへの高揚感。二つの感情が混ざり合い、僕の心臓は少しだけ速く脈打っていた。

第四章 虹色の砂時計

展望台から見下ろす街は、すでに巨大な蜃気楼に飲み込まれていた。空はセピア色に染まり、現実と幻影の境界線は完全に消え失せている。まるで、一枚の古い写真の中に迷い込んだようだった。肌を撫でる風は、懐かしい潮の香りを運んでくる。

その中心に、彼女は立っていた。

今までで最も鮮明な姿。風に揺れる黒髪。遠い過去を見つめる瞳。そして、胸元で静かに時を刻む、虹色の砂時計。

僕らが息を飲んでいると、足元の地面が大きく揺れた。

「危ない!」

僕が陽菜の腕を引いた瞬間、彼女はバランスを崩して僕の胸に倒れ込んできた。陽菜の柔らかな感触とシャンプーの香り。守らなければ、という強い衝動。名前のつけられなかった感情が、ついにその形を成した。

――陽菜が好きだ。

その想いは、僕の掌の上で、燃えるような深紅の結晶となって具現化した。今までで最も大きく、最も鮮やかな、僕の魂そのもののような結晶。

蜃気楼の少女が、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。その瞳は、僕ではなく、僕の掌の結晶に向けられていた。深紅の結晶は自ら僕の手を離れ、彼女の胸の砂時計へと吸い込まれていく。

砂時計が満たされた瞬間、まばゆい光が世界を包んだ。

そして、僕は知った。流れ込んできた記憶の奔流の中で。彼女の名前が詩織(しおり)であること。彼女が、この世界の法則が生まれるきっかけとなった、ある若き科学者の助手だったこと。叶わなかった恋。選べなかった未来。「もしも、あの時、彼の手を取っていたら」という強烈な後悔の感情が、この「青春の蜃気楼」の核を創り出したのだと。僕らの結晶は、彼女の失われた青春の記憶を完成させるための、最後のピースだったのだ。

第五章 ふたつの世界線

光が収まっても、蜃気楼は消えなかった。いや、それはもはや蜃気楼ではなかった。幻影だったはずの街並みが、確かな実体を持って僕らの眼前に広がっている。焼きたてのパンの香り。子供たちのはしゃぐ声。遠くで響く祭囃子。すべてが温かく、生き生きとしていた。詩織の願いが成就し、彼女が望んだ「もう一つの青春の道」が、現実として再構築されたのだ。

詩織の姿は、どこにもなかった。彼女の物語は、この世界で完結したのだろう。

僕と陽菜は、二つの世界の境界線に立っていた。

目の前には、セピア色だが幸福に満ちた、完成された過去の世界が広がっている。

そして背後には、僕らが今まで生きてきた、少しだけ無機質で、不確かで、けれど慣れ親しんだ現代への道が続いている。

陽菜が、僕の手をそっと握った。その手は少しだけ震えている。

「湊は……どっちの世界がいい?」

彼女の声が、静寂に響いた。これは、僕ら自身の選択だった。完成された幸福の物語に身を委ねるか、それとも、傷つきながらも自分たちの物語を紡いでいくか。

第六章 僕らが選ぶ青空

僕は陽菜の手を、強く握り返した。目の前のセピア色の世界は、確かに美しい。誰かの悲願が成就した、完璧なハッピーエンドだ。でも、それは僕らの物語じゃない。

「俺たちの色は、白紙だ」

僕は陽菜の目を見て言った。

「これから俺たちが、塗っていくんだ。失敗して、黒く汚すこともあるかもしれない。それでも、俺は俺たちの色で未来を描きたい」

陽菜が、ふっと微笑んだ。その笑顔は、いつもの太陽のような明るさだった。

「うん。私も、湊と一緒に塗りたいな」

僕らは顔を見合わせ、頷き合うと、迷わずに背後の道へと一歩を踏み出した。元の世界へ続く道へ。

振り返ると、セピア色の街の入り口に、詩織と、彼女が愛したであろう若き科学者の幻が、幸せそうに寄り添って、こちらに手を振っているように見えた。ありがとう、と声にならない声が聞こえた気がした。

元の展望台に戻ると、空はどこまでも高く、澄み渡っていた。僕の指先には、小さな、しかしどこまでも透明な結晶が一つ、キラリと光っている。それは、僕らが選んだ未来への、ささやかな希望の証だった。

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