琥珀に眠るキミの色
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琥珀に眠るキミの色

第一章 緋色の後悔

僕、蒼(あおい)の身体から、花びらが舞う。それは比喩ではない。感情の昂りが引き金となり、まるで隠し持っていた秘密をぶちまけるように、色鮮やかな紙片が皮膚を透かして世界に解き放たれるのだ。

黄昏時、古びた公園のベンチに腰掛けていた。今日、些細なことで友人と口論になり、胸に燻る苛立ちが抑えきれずにいた。その瞬間、ぶわりと熱が込み上げ、視界の端を緋色の閃光が掠めた。僕の指先から、掌から、後悔の色を宿したカーネーションの花びらがはらはらと舞い散る。一枚が、錆びて色を失ったモノクロームのベンチに触れた。

途端、世界が息を吹き返した。ベンチはかつての温かい木の色を取り戻し、座面についた子供の落書きが、クレヨンの鮮やかな虹色を蘇らせた。風が運び去ったはずの、笑い声の甘い匂いまでが鼻腔をくすぐる。だが、この奇跡は刹那のもの。数秒後には、まるで幻だったかのように、世界は再び色褪せた灰色の濃淡へと沈んでいった。

そして、代償は必ずやってくる。僕はポケットを探り、取り出したスマートフォンの画面を見た。約束のリマインダー。『陽菜と駅前で待ち合わせ。新刊の発売日』。陽菜……? その名前には温かい響きがあるのに、彼女の顔が、声が、靄のかかった風景のように思い出せない。色彩を取り戻すたび、僕の青春という名の絵の具が、少しずつ剝がれ落ちていく。胸の奥が、ひゅう、と冷たい風に吹かれたような心許なさに襲われた。

第二章 琥珀のしおり

自室の机の上、月明かりを受けて静かに光るものがある。陽菜がくれた、「琥珀のしおり」。彼女との記憶が欠け落ちていく中で、これだけは不思議と色彩を失わずにいた。樹脂の中に閉じ込められた小さな四つ葉のクローバーが、あの夏の日の緑を今も鮮やかに保っている。

「これがあれば、蒼が迷子になっても、きっと大切な物語の続きを見つけられるから」

そう言って笑った彼女の声を、僕はもう正確には思い出せない。

翌日、僕は褪色病で入院した後輩の見舞いに行った。ガラス越しの彼は、まるで古いモノクロ映画の登場人物だった。彼の世界から、彼の未来から、青春の色がごっそりと奪われている。虚ろな瞳が僕を捉え、か細い声で呟いた。

「先輩……空って、どんな色でしたっけ」

その言葉が、僕の心のダムを決壊させた。どうしようもない憐憫と、無力な自分への怒りが渦を巻く。僕の身体から、空の記憶を宿した瑠璃色の花びらが溢れ出した。花びらはガラスをすり抜け、彼の病室を満たす。殺風景な白い壁に青空が描かれ、窓の外には幻の入道雲が湧き上がる。彼は嗚咽を漏らし、その頬に涙の筋が光った。

病室を出た僕の頭は、鈍い痛みを訴えていた。そして気づく。陽菜が好きだと言っていた花の名前が、どうしても出てこない。ひまわり? コスモス? 違う。もっと、凛とした響きの……。記憶の書架から、また一冊、大切な本が抜き取られてしまった。その夜のニュースは、褪色病の感染拡大を、これまで以上に深刻な声色で伝えていた。僕の力が、誰かの未来を喰らっているのかもしれない。その疑念が、冷たい影となって心を覆い始めた。

第三章 褪せた約束

恐怖に駆られた僕は、感情を殺すことにした。心を無風の凪に保てば、花びらは舞わない。記憶も、世界の色彩も、これ以上失われずに済むはずだ。僕は灰色の壁を築き、その内側で息を潜めた。

だが、感情は予期せぬ奔流となって壁を突き破る。

横断歩道で信号を待っていた時だった。小さな子供が母親の手を振りほどき、赤いボールを追って車道へ飛び出した。迫るトラックのヘッドライト。周囲の悲鳴。僕の思考は停止し、ただ純粋な恐怖だけが全身を支配した。

真っ白な、百合の花びらが嵐のように吹き荒れた。

時間が引き伸ばされ、純白の花びらが盾となるように子供とトラックの間に舞う。運転手の驚愕した顔。急ブレーキの甲高い軋み。子供は無傷で助かったが、僕の世界からは、決定的な何かが消え去っていた。

陽菜と交わした、最も大切な約束。

どんな約束だった? いつ? どこで? 何も思い出せない。心にぽっかりと空いた穴が、あまりに大きすぎて、立っていることさえ困難だった。僕はよろめきながら家に帰り、震える手で「琥珀のしおり」を握りしめた。そして、先ほど舞い散った純白の花びらの一枚を、そっとしおりに挟み込んだ。

すると、琥珀が淡い光を放ち始めた。その光の中に、朧げな風景が映し出される。黄金色の夕日に染まる丘の上。僕と、陽菜。彼女が指をさす先には、少しずつ色を失い始めている街並みが見える。

『二人で、世界から色が消えないようにしよう』

しおりが映し出す「本来あるべきだった記憶」の色彩。その温かさに、僕は声を上げて泣いた。

第四章 モノクロームの使者

約束を思い出し、涙が乾いたその時。部屋の空気が不意に重くなった。いつの間にか、窓際に一人の男が立っていた。髪も、服も、その肌さえも、あらゆる色彩を拒絶したかのような深い灰色。まるで、影そのものが人の形をとったようだった。

「ようやく思い出したかね。だが、もう遅い」

男の声は、古いレコードのように掠れていた。

「君がその力を使うたび、この世界のどこかで若者の青春が色を失う。褪色病の原因は、君自身だ」

「お前は……誰だ」

「私は零(ゼロ)。この世界で、最初に色彩を失った人間だ」

零と名乗る男は静かに語り始めた。色彩は感情を、欲望を、争いを生む。苦しみの根源だ。真の平穏は、全てが等しく灰色に帰するモノクロームの世界にこそある、と。僕の能力は、過去から色彩を「前借り」する禁断の力。その代償として、未来を担うはずだった若者の色彩が、現在から奪われていたのだ。

「君が記憶を改変しようとすれば、君の未来が白黒になるのも道理。過去と未来の色彩の帳尻が、君の存在そのもので合わせられているに過ぎん」

零の言葉は、冷たい刃となって僕の心臓を貫いた。良かれと思ってやったことが、世界を、誰かの未来を、蝕んでいた。絶望が、僕の足元から這い上がってくる灰色の霧のように感じられた。

第五章 最後の色彩

「さあ、終わりにしよう。全ての色彩を無に帰し、世界に永遠の安寧を与える」

零が手をかざすと、窓の外の景色が急速に色を失っていく。空は鉛色に濁り、建物の輪郭は滲み、街の喧騒はくぐもったノイズへと変わっていく。世界中の、残り僅かな青春の輝きが、彼の掌へと吸い込まれていくのが見えた。

もう、迷っている時間はない。陽菜との約束。後輩の涙。助けた子供の未来。僕が奪ってしまった色彩。その全てを取り戻すことはできなくとも、せめて、これからの世代に色彩の種を残さなければならない。

僕は「琥珀のしおり」を強く握りしめた。陽菜と交わした約束の記憶ではない。僕の中に残る、最も輝かしい青春の断片。彼女と二人、黄金色の夕日に照らされたあの丘の上の記憶。僕の全て。

「さよなら、陽菜」

心の中で呟き、僕はしおりに封じ込められた最後の記憶を解放した。

身体が内側から燃え上がるような熱を発する。それはもう、特定の色ではなかった。緋色、瑠璃色、純白、そして黄金色。僕の青春を彩った全ての感情、全ての記憶が、虹色の奔流となって解き放たれる。視界が白く染まり、意識が遠のいていく中で、僕は七色の花びらの嵐が、世界を覆い尽くすのを感じていた。

第六章 心に咲く花

虹色の花びらは、絶望の使徒たる零を優しく包み込んだ。それは単なる光の粒ではない。僕が生きた青春の、喜びも悲しみも、その全てを宿した記憶の奔流だった。零の灰色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼がとうの昔に失ったはずの、温かい青春の記憶が、その心を溶かしたのだろうか。やがて彼の姿は、光の中へと静かに掻き消えていった。

気がつくと、僕は見知らぬ場所に立っていた。世界はモノクロームだった。空も、道も、僕自身の手も、全てが灰色の濃淡で描かれている。僕の頭は空っぽだった。名前も、過去も、誰かを愛した記憶さえも、何もかもが消え失せていた。ただ、胸の奥に、説明のできない温かい疼きだけが残っている。

ふと、足元に咲く一輪の花に気づいた。

色は見えない。だが、僕はその花を知っていた。その繊細な花弁の形、風にそよぐ頼もしい茎、鼻をかすめる微かな土の匂い。その全てが、僕の心の奥深くに眠る何かを揺さぶる。「美しい」と、そう感じた。

目に見える色はなくとも、心は色彩を覚えている。真の青春の輝きとは、網膜に映る光の波長ではなく、心に刻まれた体験そのものの彩りなのだと、僕は言葉もなく悟った。

その瞬間、僕の足元から、世界に新たな、ごく小さな一点の色彩が生まれた。それは、まだ名もなき、生まれたばかりの淡い光。僕という色彩のない存在が、次の世代へと繋がる、青春の新たな「起点」となった証だった。

僕の傍らには、古びた「琥珀のしおり」が落ちていた。持ち主の記憶は失われたはずなのに、その中央に閉じ込められた四つ葉のクローバーだけが、失われたはずの鮮やかな黄金色の光を、静かに放ち続けていた。

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