刹那の刻印、永遠の意味
第一章 褪せた空のタトゥー
雨上がりのアスファルトが、湿った夏の匂いを立ち上らせていた。俺、湊(みなと)の左腕に、ふいに疼くような熱が走る。見れば、制服のシャツの袖の下で、肌が淡い光を放ち始めていた。まただ。
この世界では、誰もが大人になるにつれて、青春の記憶から感情という名の色彩を失っていく。燃えるような恋も、胸を裂くような別れも、やがては年表の出来事のように無味乾燥なデータへと変わる。だが、俺の体は少し違った。強い感情を抱くと、その引き金になった過去の記憶が、鮮やかなタトゥーとなって肌に浮かび上がるのだ。
「湊、大丈夫か?」
隣を歩く親友の健太が、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼の妹が、先日『感情凍結病』と診断された。青春の真っ只中にいるはずの若者の感情が、まるで老人の記憶のように凍りつき、無色透明になってしまう奇妙な病。健太の沈んだ横顔を見ていると、俺の胸に鈍い痛みが広がる。その痛みに呼応して、左腕のタトゥーが形を成していく。
それは、三年前の高校の屋上から見た、空を茜色に染め上げる夕焼けだった。進路に悩み、健太と二人で馬鹿みたいに将来を語り合った、あの日の空。タトゥーは、まるで肌の下で本物の夕焼けが燃えているかのように、熱く、鮮やかに脈打っていた。
第二章 無色の残響
数日後、俺は健太と共に彼の妹、陽菜(ひな)の見舞いに訪れた。白い病室のベッドに座る彼女は、窓の外をぼんやりと眺めているだけだった。かつては太陽のように笑う少女だったのに、その瞳には何の光も宿っていない。
「陽菜、俺だよ。湊だ。覚えてるか?去年、三人で海に行ったじゃないか」
俺が話しかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
「……ええ。記録としては覚えています。砂浜の粒子がどうとか、波の周期がどうとか」
その声は、合成音声のように平坦で、何の抑揚もなかった。楽しかった思い出を語っても、彼女は「ああ、そういうイベントがありましたね」と、歴史の教科書を読むように答えるだけ。感情の熱量が、完全に失われている。
その夜、自室のベッドで陽菜の姿を思い出していると、再び左腕に夕焼けのタトゥーが浮かび上がった。だが、いつもと様子が違った。燃えるような茜色の空に、インクを垂らしたような黒い線が、不吉なノイズのように走っている。それはまるで、美しい記憶が何者かに侵食されていくような、悍(おぞ)ましい予兆だった。この黒い線は、陽菜の瞳の奥にあった虚無と、どこか似ている気がした。
第三章 結晶のギャラリー
タトゥーに現れる黒いノイズは、日を追うごとに濃くなっていった。そして、特定の場所を思うと、そのノイズが激しく脈打つことに気づいた。街外れにある、閉鎖された近代美術館。何かに導かれるように、俺は錆びついた鉄の門を押し開けた。
黴と埃の匂いが充満する館内は、不気味なほど静まり返っていた。だが、中央の展示ホールに足を踏み入れた瞬間、息を呑んだ。そこには、夥しい数の『感情の結晶石』が、陳列ケースの中に淡い光を放ちながら並べられていた。掌サイズの石の一つ一つが、万華鏡のように複雑な輝きを宿している。
俺が近づくと、左腕のタトゥーが激しく共鳴し、灼けるような痛みを放った。結晶石もまた呼応するように輝きを増し、その光に照らされると、他人の記憶が洪水のように脳内へ流れ込んできた。初めて手をつないだ甘酸っぱい喜び。親友と殴り合った苦い後悔。誰かの青春が、断片化された悲鳴となって俺の中で響き渡る。ホールの中心には、それらの結晶石を集めて作られた、巨大で歪なオブジェが禍々しい光を放っていた。あれが、病の源泉か。
第四章 仮面の告白
「ようこそ、我が『サンクチュアリ』へ」
凛とした声が、ホールの高い天井から響いた。見上げると、回廊に白い仮面をつけた人物が立っている。ゆったりとしたローブを纏い、その性別も年齢も窺い知ることはできない。
「お前が、感情凍結病を……!」
「病ではない。救済だ」
仮面の人物は静かに階段を下りてくる。
「失われるものだよ、感情の熱量など。いずれ誰もが経験する喪失だ。私はただ、その最も美しい瞬間を永遠の芸術として保存しているに過ぎない」
その声には、奇妙な説得力があった。だが、犠牲になった陽菜たちの顔が浮かび、俺の怒りは頂点に達した。怒りに反応し、腕のタトゥーが激しく燃え上がる。
「君のその力は素晴らしい」
仮面の人物は俺の腕に視線を落とす。
「最も純粋な感情の抽出源だ。君さえいれば、私の芸術は完成する」
「ふざけるな!」
俺が叫んだその時、仮面の人物はゆっくりと手を顔にかけた。そして、純白の仮面が外される。
そこに立っていたのは、俺だった。
眉間の深い皺、光を失った瞳、感情の色彩が抜け落ちたかのように褪せた肌。紛れもなく、歳を重ねた未来の俺自身の姿だった。
第五章 二つの未来
「なぜ……」俺は言葉を失った。目の前の男、未来の俺は、悲しげに微笑んだ。
「君も、いずれ分かる。この輝きが、熱が、どれほど儚く、そして失うことがどれほど恐ろしいかを。私は耐えられなかった。青春の記憶が、ただの無機質な情報に成り果てていくことに」
彼は語った。かつて彼も持っていたタトゥーの力が衰え始め、記憶から色が消えていく絶望を。その恐怖が彼を狂わせ、失われる前に他人の青春を刈り取り、永遠の芸術として留めようと決意させたのだと。
「湊。私と一緒に来い。我々の感情を、誰にも奪われない永遠の形にするんだ。それが、我々が選ぶべき唯一の道だ」
彼の瞳の奥には、深い孤独と絶望が淀んでいた。感情を失う未来か、他者を踏み躙って感情を保存する未来か。二つの絶望的な選択肢が、俺の目の前に突きつけられた。
第六章 意味の在り処
俺は震える声で反論した。
「違う……あんたは間違ってる」
未来の俺は、憐れむような目で俺を見る。「何が分かる。まだ何も失っていない君に」
「分かるさ!」俺は叫んだ。「確かに、熱はいつか冷めるのかもしれない。このタトゥーも消えるんだろう。でも、本当に大事なのは、熱そのものじゃない!」
俺は自分の左腕を彼に見せつけた。そこには、健太と二人、夕焼けを背に肩を組んで笑う、新しいタトゥーが浮かび上がっていた。怒りでも悲しみでもない。健太を、陽菜を救いたいと強く願った、温かい友情の記憶。
「この夕焼けの記憶は、俺に教えてくれた。一人で悩まなくていいって。この熱が消えても、『友情』っていう意味は、絶対に俺の中から消えない。悲しみの記憶は優しさを、喜びの記憶は感謝を教えてくれた。その『意味』が積み重なって、俺たちを大人にしていくんじゃないのか!あんたは、一番大事なものから目を逸らしただけだ!」
俺の言葉は、刃のように未来の俺の胸を貫いた。彼の瞳が、何十年ぶりかに、揺らいだ気がした。彼が失ったのは感情の熱量だけではなかった。その記憶がもたらすはずだった、成長するための『意味』そのものだったのだ。
第七章 夜明けの色
未来の俺は、崩れるように膝をついた。その頬を、一筋の涙が伝う。それは、彼がとうの昔に失ったはずの、感情の雫だった。
「そうか……私は、意味を忘れていたのか……」
彼は、震える手で中央のオブジェに触れた。そして、最後の力を振り絞り、核となっていた結晶石を破壊する。眩い光が弾け、オブジェは内部から崩壊を始めた。蓄えられていた膨大な感情エネルギーが、光の粒子となって解き放たれ、美術館の壊れた天窓から夜空へと舞い上がっていく。
その光は、やがて優しい雨のように、この街に降り注いだ。病室で眠る陽菜の頬に、微かな赤みが差す。感情を失った若者たちの瞳に、ゆっくりと光が戻り始める。
光の中で、未来の俺の姿が透き通っていく。彼は、穏やかな顔で俺に微笑んだ。
「ありがとう……過去の私。君は、私よりも強い」
その言葉を最後に、彼の姿は完全に掻き消えた。
朝が来ていた。俺の左腕から、友情のタトゥーが静かに消えていく。熱は去った。だが、その温かい意味だけが、確かな感触として俺の心に深く刻み込まれていた。
いつか俺も、青春の熱を失う日が来るだろう。
だが、もう怖くはない。失われるものと、残るもの。その両方を抱きしめて、俺は大人になっていく。夜明けの光に照らされた腕にはもう何もなかったが、世界は昨日よりもずっと、色鮮やかに見えた。