結晶の庭、あるいは忘れられた絆の色
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結晶の庭、あるいは忘れられた絆の色

第一章 色褪せた空のリボン

この街の空には、無数のリボンが揺らめいている。人々はそれを「コネクション・ストリング」と呼び、生まれたときから当たり前の風景として受け入れていた。友人とのそれは銀色に、恋人とのそれは金色に輝き、そして家族と結ばれる絆は、ひときわ太く、温かな虹色を放っていた。

僕、リヒトの空にも、何本かのストリングが繋がっている。その中で最も鮮やかな虹色を描いているのは、妹のリナへと続くものだ。しかし、僕の視線はいつも、空ではなく、自らの左腕へと落ちていく。皮膚の下、静脈に寄り添うように埋まった三つの結晶。アメジストのように淡く紫に、トパーズのように澄んだ黄金色に、そして真珠のように乳白色に。それらは僕のかつての「家族」だった。

触れると、ひんやりとした石の感触の奥から、言いようのない温もりが伝わってくる。それは愛されていたという確信と、守られていたという安堵感。だが、それが誰との記憶なのか、どんな顔で僕に微笑みかけたのか、具体的な思い出は濃い霧の向こう側だ。家族を失うたび、僕の体には結晶が生まれ、記憶は曖昧な感情の残滓へと変わる。それが、僕という人間の特異な在り方だった。

最近、街の空気が重い。あちこちで、虹色のストリングが色褪せ始めている。昨日まで笑い合っていた家族の顔が思い出せない、と泣き崩れる人が日に日に増えていた。「家族喪失症」。いつしかそう呼ばれるようになった奇妙な病は、まるで静かな伝染病のように、この街の絆の色を奪っていく。僕は腕の結晶を強く握りしめた。その冷たさが、来るべき喪失の予感となって、背筋を凍らせた。

第二章 共鳴する傷痕

「お兄ちゃん、見て! 今日はストリングがすごく綺麗だよ」

庭で花に水をやっていたリナが、空を指さして無邪気に笑う。彼女と僕を繋ぐ虹色のリボンは、まだその輝きを失っていなかった。僕はその光景から目を逸らすように頷き、彼女の柔らかい髪をそっと撫でた。この温もりを、この笑顔を、結晶に変えたくはない。その一心で、僕は祈るように日々を過ごしていた。

その日は、突然やってきた。

夕暮れの鐘が鳴り響く頃、街の中心から悲鳴ともつかない静かな叫びが上がった。窓の外に目をやると、信じられない光景が広がっていた。空に浮かぶ何百もの虹色のストリングが、まるで張り詰めすぎた糸のように、ぷつり、ぷつりと音もなく切れていく。断ち切られたリボンの端は、淡い光の粒子となって風に溶けて消えた。

広場では、手をつないでいた親子が、互いを不審者でも見るかのように見つめ合っている。食卓を囲んでいた家族は、目の前にいるのが誰なのか分からず、静かに立ち尽くす。関係性の土台が崩れ落ち、記憶が砂のようにこぼれていく。街全体が、巨大な記憶喪失に陥っていた。

その瞬間、僕の左腕に埋まった三つの結晶が、灼けるような熱を放った。

「うっ…!」

思わず腕を押さえる。結晶は激しく明滅し、僕の脳裏に、これまで決して見えなかった光景を叩きつけた。

温かいシチューの匂い。大きな手で頭を撫でられた感触。『お父さん』と呼んだ幼い自分の声。優しく子守唄を歌ってくれた『お母さん』の柔らかな響き。顔には靄がかかっているのに、そこにあったはずの愛情だけが、洪水のように流れ込んでくる。結晶は、街に蔓延する喪失と共鳴していたのだ。

第三章 ストリングの墓場

僕はこの現象の根源を知らなければならない。リナを守るために。そして、この腕の結晶の意味を理解するために。かすかな希望を胸に、僕は街の外れにある「古き絆の観測所」へと向かった。そこは、かつて世界のストリングを研究していた賢者が住んでいたという、今は廃墟となった塔だ。

ひんやりとした石造りの塔の中は、埃と古紙の匂いが満ちていた。かび臭い書物のページを震える手でめくっていく。ほとんどは解読不能な古い記述だったが、一冊だけ、僕の目を引く手記があった。

『世界の飽和点について』

そこには、こう記されていた。絆のエネルギー、コネクション・ストリングは、世界の根幹を成す力である。しかし、その力は無限ではない。愛や信頼が深まり、ストリングが過剰に強く、そして密になりすぎると、世界は個々の意識の境界を保てなくなる。すべてが溶け合い、一つの巨大な意識体へと回帰する――『大融合』。

手記の主は、それを世界の終わりだと記していた。そして、こうも予測していた。世界は自らを守るために、時に無慈悲な剪定を行うのではないか、と。強くなりすぎた絆を強制的に断ち切り、エネルギーをリセットする。個を保つための、世界の自己防衛反応。

「家族喪失症」は、病ではなかった。それは、愛が深まりすぎたが故に発動した、世界の悲しい安全装置だったのだ。僕は愕然として手記を閉じた。だとしたら、僕のこの体質は一体何なのだ?

第四章 虹の途切れる日

観測所から戻った僕を待っていたのは、残酷な現実だった。

「お兄ちゃん…?」

ソファに座っていたリナが、不安げな瞳で僕を見上げる。彼女と僕を繋いでいた虹色のストリングが、ロウソクの炎のように頼りなく明滅していた。色が、急速に抜け落ちていく。

「なんだか、お兄ちゃんがすごく遠くに感じるの…」

その声はか細く、まるで風に消え入りそうだった。僕は駆け寄り、彼女の小さな手を握りしめた。冷たい。氷のように冷え切っている。

「リナ、大丈夫だ。ここにいる」

「…あなたは、だれ…?」

その言葉が、僕の世界を終わらせた。

目の前で、僕たちの虹色のストリングが、一本の細い糸になり、そして、ふつりと消えた。

絶望的な喪失感が全身を貫く。それと同時に、胸の中心に灼熱の痛みが走った。新たな結晶が生まれようとしている。僕の体が、リナとの関係性を物質に変え、記憶を封じ込めようとしているのだ。

「ああ…っ!」

あまりの激痛に床に膝をつく。だが、その時だった。左腕の三つの結晶が、これまでで最も強く、激しい光を放った。それはまるで、リナの記憶が僕の中から世界へと吸い出されていくのを、必死に食い止めているかのようだった。

僕は理解した。この体質は呪いなどではない。世界の集合意識に記憶が完全に吸収され、個としての存在が消え失せてしまうのを防ぐための、最後の砦。僕の体は、失われた家族の記憶を守るための「器」だったのだ。

第五章 世界のささやき

腕と胸に宿った四つの結晶が、一つの巨大な共鳴体と化していた。僕は意識を失い、光の中へと沈んでいった。

気がつくと、僕は温かい光の海に漂っていた。ここはどこだろう。痛みも悲しみもない、ただひたすらに穏やかな場所。無数の光の粒子がきらめき、それぞれが誰かの思い出、誰かの愛情の欠片であることが直感的に分かった。

――ここは、世界の記憶の源泉。

声が聞こえた。それは一人の声ではなく、数え切れないほどの意識が重なり合った、静かな合唱のようだった。

――我々は、繋がりすぎた。愛が深すぎたが故に、個の輪郭を失い、一つに溶け合おうとしていた。だから世界は、自らを引き裂き、我々をここへ還したのだ。

光の海を見渡す。あの中には、僕の父がいる。母がいる。祖父母がいる。そして、今しがた失ったばかりのリナもいる。彼らは消えたのではない。個としての記憶を手放し、世界の新たな絆の礎となるべく、この集合意識の一部となっていたのだ。

僕の体に生まれた結晶は、この光の海へと注ぎ込むはずだった記憶の川を堰き止める、小さなダムだった。僕だけが、家族を「個」として、世界から切り離して保持していた。なんと孤独で、傲慢な行いだったのだろう。

第六章 心に咲く結晶

僕は選択を迫られていた。このまま結晶として家族を自分だけのものとして抱え続けるか。それとも彼らをこの光の海へ解放し、世界の大きな循環に還すか。

僕はそっと、自分の胸に生まれたばかりの、まだ温かい結晶に触れた。リナの結晶だ。

解放しよう。

でもそれは、忘れることじゃない。

僕は、物理的な証を手放すことを決意した。その代わり、彼らを僕自身の、本当の意味での記憶として、この心に刻み直すのだ。

「ありがとう。父さん、母さん。…そして、リナ」

僕は強く念じた。結晶よ、僕の内側へ溶けてくれ。僕の血肉となり、魂の一部となってくれ、と。

想像を絶する痛みが再び全身を駆け巡った。物理的な結晶が、精神的な記憶へとその在り方を変質させていく。皮膚の下で輝いていた宝石が、ゆっくりと光を失い、僕の体の中へと吸収されていく。

そして、痛みが引いた後。

奇跡が起きた。

濃い霧に閉ざされていた僕の記憶が、晴れ渡っていく。シチューを作ってくれた母の優しい笑顔。高い高いをしてくれた父のたくましい腕。庭で笑い転げたリナのえくぼ。曖昧な感情の残滓ではなく、鮮明で、温かい思い出として、彼らが僕の中に蘇った。

僕はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。空に揺らめいていたコネクション・ストリングは、もう見えない。世界は新たな静寂を取り戻していた。しかし、僕はもう孤独ではなかった。物理的な絆はなくても、この胸の中に、決して消えない「家族の庭」が広がっている。

僕は、その庭で咲き続ける結晶の花々を胸に、穏やかな光が差し込む街を、独り、静かに歩き始めた。

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