夜半の食卓

夜半の食卓

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第一章 夜半の食卓

「ただいま」

深夜零時ちょうど。玄関の鍵を開ける音に、リビングから父の声が響いた。「おかえり、ユウキ。遅かったな」

ユウキは高校から帰宅したばかりの妹、アカリとすれ違いざまに肩をぶつけ、少しよろめいた。「ごめん、アカリ。今日は大学の授業が長引いて」

「もう、いつも遅いんだから」とアカリは拗ねたように言いながら、しかしその表情には微かな安堵の色が浮かんでいた。ユウキの目に、彼女の制服の裾にわずかに付着した泥が映る。今日は遠足だったと聞いていたが、こんな時間に帰ってくるとは。

この光景は、我が家では日常だった。深夜零時から一時までの、たった一時間。この一時間だけが、僕たち家族が一つ屋根の下に集う時間だった。零時ちょうどに父が書斎から、母は寝室から、アカリは学校から、そして僕は大学から帰ってくる。そして食卓を囲む。一時間の間に、昼間の出来事を語り合い、笑い、食卓の料理を分け合う。そして、一時ちょうどになると、それぞれの持ち場へと戻っていく。父は書斎に戻り、母は寝室へ、アカリは学校へ、僕は大学へと。誰もが、何事もなかったかのように。

今夜の食卓には、母が作ったチキンカレーが並んでいた。湯気を立てる皿から漂うスパイスの香りが、僕たちの空腹を刺激する。「お母さん、これ、今日の朝仕込んだの?」僕が尋ねると、母は優しく微笑んだ。「ええ、あなたたちが喜ぶかと思って。学校も大学も、疲れたでしょう」

母の笑顔は、いつもと変わらない。しかし、その顔色はどこか血の気が引いているように見えた。目の下の隈も、日に日に濃くなっているような気がする。僕は「うん」と頷きながらも、どこか胸に引っかかるものがあった。アカリも同じように、少し心配そうな目で母を見つめている。

父はいつものように今日の仕事の話をしていた。海外のクライアントとの大規模なプロジェクトが動き出したとか、部下たちの働きぶりが素晴らしいとか。彼の話はいつも活気に満ちていて、まるで昼間の世界の成功者そのものだ。僕も大学での講義や友人との交流について話す。アカリは遠足での珍しい出来事を語り、皆を笑わせた。

食卓は温かい会話と笑い声に満ちていた。しかし、ふと、僕は父の言葉に違和感を覚えた。

「最近、息子のケンタロウが野球でホームランを打ってね。親として誇らしいよ」

父はそう言って、誇らしげに胸を張った。僕の胸が、ざわつく。ケンタロウ? 僕の名前はユウキだ。父に、僕は一人っ子だとずっと言われてきた。そして、僕も一人息子だと思っていた。

「お父さん、ケンタロウって…?」

僕が問いかけようとした瞬間、時計の短針が「1」を指し、長針が「0」を指した。

チーン、と静かな音が鳴り響く。

「ああ、もう時間だね」と母が、少し寂しそうに微笑んだ。

父は慌てて立ち上がり、「じゃあ、僕はそろそろ書斎へ。明日も早いからね」と言い残し、足早にリビングを出ていった。アカリも「じゃあ、ユウキ、また明日ね!」と元気よく言いながら、玄関へと駆けていく。母も僕に微笑みかけ、「あなたも、無理しちゃだめよ」と言い残し、寝室へと消えていった。

僕は一人、冷め始めたカレーを前に取り残された。ケンタロウ。その名前が頭の中を駆け巡る。父は、僕以外の息子がいるような口ぶりだった。僕の知る家族は、果たして本当に僕の家族なのだろうか。この一時間の食卓は、一体何なのだろうか。僕の日常を覆す、暗い予感が胸の奥で蠢き始めていた。

第二章 途切れる視線、途切れない疑問

ケンタロウという名前の響きが、ユウキの心に深い影を落とした。次の日、いや、次の夜半の食卓で、彼は意を決して父に尋ねた。「お父さん、昨日のケンタロウって誰のこと?」

父は一瞬、眉をひそめたが、すぐにいつもの朗らかな笑顔に戻った。「ああ、あれは職場の同僚の息子の話さ。ユウキと名前が似ているから、つい」

しかし、父の視線は、僕の目を避けていた。その嘘は、あまりにも拙かった。

ユウキは家族の秘密を暴こうと決意した。深夜一時。家族がそれぞれの「持ち場」へと戻る瞬間を、彼は注意深く見守った。父が書斎のドアを閉める音、母が寝室のドアを閉める音、そしてアカリが玄関のドアを開ける音。

アカリが外に出ていくのを、僕は息を潜めて追った。彼女は、深夜だというのに、当たり前のように制服姿で街灯の下を歩いていく。一体どこへ? 彼女がいつも通っているという学校の方向とは違う。僕は彼女の背中を追って、暗い夜道を歩いた。

しばらく歩くと、アカリは病院の門をくぐった。僕は驚きに息を呑む。病院? アカリは健康そのものに見えたのに。しかし、僕が病院の敷地に入ろうとしたその時、突然、強烈な睡魔に襲われた。意識が途切れ、足がもつれる。気がつくと、僕は自分のベッドの中にいた。時間は朝の七時。いつも通り、目覚まし時計が鳴り響いている。昨夜の出来事は、まるで夢だったかのようだ。しかし、胸に残る奇妙な既視感と、何かが途切れたような感覚が、それが夢ではなかったことを物語っていた。

同じようなことは、何度も繰り返された。父の後を追って書斎に入ろうとすると、いつも書斎のドアノブに手をかけた瞬間に意識を失い、ベッドで目覚める。母が寝室に入っていくのを見届けようとすると、決まってその手前で深い眠りに落ちてしまう。僕の問いかけはいつもはぐらかされ、真実へと辿り着く道は、常に目に見えない壁で塞がれているようだった。

僕の心は、次第に荒んでいった。夜半の食卓の温かい会話は、僕には空虚な響きに聞こえるようになった。彼らが話す「昼間の出来事」は、本当に彼らのものなのだろうか? 僕が話す「昼間の出来事」は、彼らにとって現実なのだろうか? 僕たちは、お互いに偽りの日常を演じているだけなのではないか? 家族という形を保つために、それぞれが嘘を重ねているのではないか?

食卓に並ぶ料理は、相変わらず温かくて美味しかった。母の優しい笑顔も、父の朗らかな声も、アカリの無邪気な笑い声も、何も変わらない。しかし、僕の視線は、彼らの目の奥に潜む、何か悲しい秘密を探し続けていた。彼らは僕の疑問に気づいているのだろうか。それとも、僕だけが、この奇妙な状況に囚われているのだろうか。

ある日、ユウキは図書館で古びた民俗学の本を偶然手にした。「時間紡ぎの宴」と題された章には、こんな記述があった。「深く愛し合う家族が、その絆を失うことを恐れるあまり、時に魂の力を結集させ、特定の一時だけ、離れ離れの心と体を一つの空間に呼び寄せる術を用いることがある。それは、紡ぐ者の生命力を削り取り、幻の饗宴を紡ぎ出す禁忌の術である」

ユウキの手から、本が滑り落ちた。ページを捲った瞬間に感じたのは、ただの偶然では片付けられない、家族の食卓と酷似した奇妙な符合。紡ぐ者の生命力を削り取る、という一文が、母の日に日に痩せ細っていく姿と重なり、僕の胸に鋭い痛みが走った。この夜半の食卓は、もしかして…禁忌の術?

第三章 崩れ落ちる幻想

その夜、ユウキは、これまでとは違う行動に出た。食事中、彼は誰にも気づかれぬよう、ポケットに忍ばせていた小型のICレコーダーをひっそりと起動させた。そして、家族がそれぞれの持ち場へと戻った後、彼もまた自分の部屋へと戻った。

ベッドに横たわり、レコーダーの再生ボタンを押す。食卓での会話が、鮮明に再生される。父の声、母の声、アカリの声。そして、僕自身の声。温かい会話、楽しかったはずの記憶。しかし、そのすべてが、僕の心には空虚な響きとしてしか届かなかった。

再生された音声は、一時ちょうどで途切れる。しかし、その後に、微かなノイズ混じりで、何か別の音が録音されていることにユウキは気づいた。耳を澄ますと、それは微かな、しかし明らかな「呼吸音」だった。そして、その呼吸音は、徐々に弱くなり、かすれていく。

さらに注意深く聞くと、その呼吸音に混じって、誰かの囁くような声が聞こえた。「…ごめんね…みんな…」

母の声だ。しかし、それは食卓での明るい声とは似ても似つかない、掠れた、苦しそうな声だった。その声は、途切れ途切れに何かを語りかけていた。

「ユウキ…アカリ…お父さん…ごめんなさい…もう少し…もう少しだけ…」

その声は、やがて呼吸音と同じように、微かになって途絶えた。

ユウキの全身に、戦慄が走った。これまで意識を失っていたはずの時間に、レコーダーは何かを記録していたのだ。それは、この夜半の食卓が、幻ではないことを示唆しているようだった。しかし、その幻は、一体誰が、何のために紡ぎ出しているのか? そして、母のあの声は?

次の夜半の食卓。ユウキはいつものように席に着いたが、その心は激しく波打っていた。母が運んできた料理を見る。父が仕事の話をする。アカリが学校での出来事を話す。そのすべてが、これまでは温かい日常だったはずなのに、今は恐ろしく、そして悲しく見えた。

ユウキは、母の顔をじっと見つめた。日に日に痩せ細っていく頬、生気のない唇、そして目の下の深い隈。昨夜のレコーダーの音声が、脳裏でリフレインする。「紡ぐ者の生命力を削り取り…」という言葉が、まるで呪文のように頭の中を駆け巡る。

「お母さん…疲れてるでしょう」

ユウキの言葉に、母は一瞬、顔色を変えた。父もアカリも、はっとしたように僕を見た。

「大丈夫よ、ユウキ。お母さんは元気よ」母は無理に笑顔を作ろうとしたが、その笑顔は痛々しいほどだった。

「嘘だ」ユウキは静かに、しかしはっきりと呟いた。「お母さん、僕たちに隠していることがあるでしょう?」

食卓の空気が凍りついた。父は硬い表情で黙り込み、アカリは不安そうに母とユウキの顔を見比べている。

母は、すべてを諦めたかのように、ゆっくりと目を伏せた。

「ごめんなさい…みんな」

彼女の口から語られた真実は、ユウキの想像をはるかに超えるものだった。

僕たち家族は、一年前に起こった交通事故で、それぞれが重い後遺症を負い、バラバラの場所で療養していた。父は重度の外傷を負い、意識不明のまま海外の専門病院で治療を受けている。アカリは脊髄を損傷し、もう二度と自分の足で歩くことはできないと宣告され、国内の専門病院に入院中だ。そして母自身も、心臓に持病を抱え、余命宣告を受けていた。

「この食卓はね…私がみんなに会いたくて、もう一度家族として生きたくて…私の残りの生命力を使って、作り出した幻想なのよ」

母は涙を流しながら、そう告白した。「みんなの意識を、毎日一時間だけ、ここに呼び寄せていたの。私が元気だった頃の、あの幸せな時間を、もう一度…」

ユウキの頭の中で、すべてのピースが、残酷なほど正確に嵌め込まれていく。父が語っていた「ケンタロウ」の話は、意識不明の父の脳裏に浮かぶ別の家族の夢だったのかもしれない。アカリが夜な夜な通っていた病院は、彼女が入院している現実の病院。そして、母の衰弱は、この「夜半の食卓」を紡ぎ出すための代償。

「お母さん、もうやめてくれ」ユウキは震える声で言った。「僕たちは、そんな偽りの時間はいらない。お母さんの命を削ってまで、こんな…」

母は首を横に振った。「いいえ、ユウキ。私には、この時間だけが、生きている意味なのよ。あなたたちの笑顔が見られる、この一時間だけが…」

そして、時計の針は、容赦なく一時を指し示そうとしていた。

第四章 秒針が告げる別れと始まり

一時を示す秒針が、カチリと音を立てて止まった。止まったように見えた。実際には、それは止まったのではなく、その空間の時間そのものが、母の力によって引き延ばされたのだ。

「お願い、お母さん」ユウキは、涙声で訴えた。「もう、こんなことをしないでくれ。僕たちは、現実の世界で、お母さんと、お父さんと、アカリと、もう一度家族として生きたいんだ」

父は、無言で母の手を握った。その手は、震えていた。アカリもまた、いつもの無邪気な笑顔を消し、静かに母の腕に顔を埋めた。

「…でも、私がこの力を止めれば…みんなは…」母は絞り出すような声で言った。

「僕たちは大丈夫だ」ユウキは、深く息を吸い込んだ。「お父さんには、僕が毎日手紙を書く。アカリには、僕が毎日お見舞いに行く。そしてお母さんには…」

ユウキは母の震える手を、そっと自分の手で包み込んだ。

「お母さんには、僕たちがそばにいる。現実の世界で、僕たちが、ずっとそばにいるから」

母は、ユウキの顔を見た。その目には、諦めと同時に、微かな希望の光が宿っているように見えた。

「わかったわ…ユウキ」

母のその言葉とともに、止まっていたはずの秒針が、再びカチリと音を立てて動き出した。

その瞬間、夜半の食卓を包んでいた温かい光が、ゆっくりと色を失っていく。食卓の上のカレーは、色褪せ、形を失い、やがて透明な影になった。父の姿も、アカリの姿も、薄い靄のように揺らぎ始めた。

「ユウキ…アカリ…お父さん…愛してるわ」

母の声が、遠いこだまのように響いた。その声は、これまでで一番、強く、そして温かかった。

「お母さん!」

ユウキが叫ぶ。しかし、彼の目の前で、母の姿は、光の粒となって、宙に消えていく。父の姿も、アカリの姿も、完全に消え去った。

残されたのは、ユウキ一人。薄暗いリビングの、冷たい食卓。

深い悲しみと喪失感が、ユウキの心を襲った。しかし、同時に、彼の心には、これまで感じたことのない、澄み切った清々しさがあった。母の犠牲の上に成り立っていた幻想の家族ではなく、現実の家族と向き合う、という決意。それが、彼に新しい光を与えていた。

翌朝、ユウキは、まず役所に連絡を取り、父の海外での治療に関する情報を集めた。次に、アカリが入院している病院を調べ、面会時間を予約した。そして、母の担当医に連絡し、これからの療養生活について、詳しく話を聞いた。

ユウキは、もう孤独ではなかった。彼の心には、確かに消滅したはずの「夜半の食卓」の温かさが、形を変えて残っていた。それは、母が命を削って紡ぎ出してくれた、家族の絆そのものだった。

彼は、父への手紙を書き始めた。アカリのために、病院食以外の美味しい料理のレシピを調べていた。そして、母の病室に飾る花束を選びに、花屋へと向かう。

家族の形は変わった。物理的な距離は離れ、もう毎日一時間、食卓を囲むことはないだろう。しかし、ユウキの心の中には、それぞれの家族への愛と、彼らが紡ぎ出した確かな絆が息づいている。

彼は知っている。家族の時間は、秒針の動きで測られるものではなく、心と心の繋がりで紡がれるものだということを。そして、その絆は、どんな幻想よりも、はるかに強く、深く、そして永遠に続くのだ。

新しい家族の物語が、今、始まる。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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