第一章 静かな来訪者
僕、宮田健太の家には、代々伝わるささやかな儀式がある。母はそれを「影見(かげみ)」と呼んだ。年に一度、大切な人を亡くしたその命日にだけ、故人の「影」が一日だけ帰ってくるのだ。その影は陽炎のように揺らめき、声を発することも、触れることもできない。ただ、そこにいる。生前の姿で、静かに家族の時間に寄り添ってくれる。
僕にとっての「影見」は、十歳の時に事故で亡くなった父、雄一郎に会える唯一の日だった。大学二年生になった今でも、毎年六月十五日は、僕にとって何よりも大切な聖域だった。講義を休み、朝から縁側を掃き清める。父が好きだったアイスコーヒーを、ガラスのコップに二つ。一つは僕の、もう一つは、誰もいないはずの父の定位置に。
正午。壁の古時計が朗々と時を告げる。僕は息を詰めて、庭に面した縁側を見つめた。強い陽射しが畳の上に作る光の四角形が、ふわりと歪む。空気が密度を増し、そこに人型の黒い滲みがゆっくりと形を結んでいく。毎年繰り返される、奇跡の顕現。
だが、その日の奇跡は、僕の知っている形をしていなかった。
そこに現れたのは、いつも僕を見守ってくれる、がっしりとした肩幅の父の影ではなかった。背が低く、細いシルエット。それは、僕の腰のあたりまでしかない、小さな子供の影だった。半ズボンを履き、小さな手で何かを握りしめているように見える。影はゆっくりと顔を上げ、僕の方を見ているようだった。
心臓が氷の塊になったかのように冷たく、重くなった。誰だ? この子は。
父さんは? なぜ、父さんは来てくれないんだ?
混乱する僕の足元で、子供の影はただ静かに佇んでいた。その足元から伸びる黒は、まるで底なしの井戸のように深く、僕が今まで信じてきた家族という世界の、穏やかな水面を揺らし始めていた。
「母さん! 父さんの影が……父さんじゃないんだ!」
台所で夕食の準備をしていた母、美佐子に駆け寄ると、彼女は僕の顔を見るなり、一瞬、息を呑んだ。その瞳の奥に走った動揺の色を、僕は見逃さなかった。
「……健太、何を言っているの。疲れいるのよ」
母は無理に微笑み、僕の肩を叩いた。しかし、その指先は微かに震えていた。母は何かを知っている。僕の知らない、この家の、この家族の何かを。縁側に佇む見知らぬ影と、母の不自然な平静さが、僕の胸に言いようのない不安の種を蒔いた。
第二章 陽向のアルバム
その日一日、子供の影は縁側から動かなかった。時折、庭を飛ぶ蝶を目で追うような仕草を見せるが、僕が近づくと、ただじっとこちらを見つめ返すだけだった。その無言の視線が、僕に根源的な問いを突きつけているようだった。「君は、誰?」。いや、違う。問いかけているのは僕の方だ。「お前は、誰なんだ?」
夜になり、影が月光に溶けるように消えると、家の中には重苦しい沈黙だけが残った。母は頑なに口を閉ざし、「気のせいだった」という一点張りで、僕から目を逸らし続けた。父の影に会えなかった喪失感と、得体の知れない存在への恐怖、そして母への不信感が渦を巻き、僕は眠れない夜を過ごした。
翌日から、僕はまるで何かに憑かれたように、父の遺品が収められた屋根裏部屋に通うようになった。父は完璧な人間だった。優しくて、強くて、いつも僕のヒーローだった。母が語る父も、僕の記憶の中の父も、一点の曇りもない理想の父親像そのものだ。そんな父に会えなくなるなんて、考えられなかった。
埃っぽい空気の中、古い段ボール箱を次々と開けていく。学生時代の賞状、使い古された万年筆、読みかけの歴史小説。どれもが、僕の知る父を雄弁に物語っていた。諦めかけたその時、一つの木箱の底に、分厚い革張りのアルバムが隠されているのを見つけた。僕が生まれる前の、両親の新婚旅行の写真などが収められたアルバムだ。
ページをめくる指が、ある一枚の写真の前で止まった。
海辺で、若い母が満面の笑みで一人の男の子を抱き上げている。男の子は、五歳くらいだろうか。日焼けした肌に、僕とそっくりな目鼻立ち。しかし、僕ではない。僕が物心ついた頃には、両親とこんな風に海へ行った記憶はなかった。写真の裏には、母の丸い字で、こう記されていた。
『陽向、五歳の夏。パパと初めての海』
陽向(ひなた)。
その名前を声に出した瞬間、全身に鳥肌が立った。昨日、縁側に現れた子供の影の背格好と、写真の少年がぴたりと重なる。陽向。僕の知らない、兄。
アルバムを抱えて階下へ駆け下り、リビングで繕い物をしていた母の前に、その写真を突きつけた。
「母さん、これ、誰なんだよ。陽向って、誰なんだ!」
母は写真を見ると、顔から血の気が引いていくのが分かった。針と糸が、力なく床に落ちる。彼女の唇がわななき、瞳がみるみるうちに涙で潤んでいった。今まで僕が見たことのない、脆く、壊れてしまいそうな母の姿だった。
「……話すわ。全部、話すから」
絞り出すような声でそう言うと、母はゆっくりと、僕が決して知ることのなかった家族の扉を、静かに開け始めた。
第三章 川底の真実
「陽向は……あなたのお兄ちゃんよ」
母の告白は、静かだが、僕の世界を根底から破壊するほどの衝撃を伴っていた。陽向は僕が生まれる二年前にいた、最初の子供。両親の愛情を一身に受けて育った、太陽のような子だったという。
「あなたのお父さん、雄一郎さんはね、事故で亡くなったんじゃないの」
母の言葉に、僕は息を呑んだ。僕が聞かされてきた父の死は、雨の日のスリップ事故。それは、母が僕を守るためについた、十五年越しの嘘だった。
真実は、もっと残酷で、そしてどうしようもなく人間的だった。
その日、父は陽向を連れて、家の近くの川へ魚釣りに出かけた。ほんの少し目を離した隙に、陽向が足を滑らせて、増水した川に落ちてしまった。父はためらうことなく川へ飛び込んだ。泳ぎが得意ではなかったにもかかわらず、必死に息子を追いかけた。しかし、濁流は父子の体力を容赦なく奪い、二人を岸へ返すことはなかった。
「あの日、私は二人を失ったのよ。夫と、息子を……」
母の肩が、嗚咽で震える。
「あなたの父さんは、英雄なんかじゃない。完璧な人間でもない。ただ……ただ、必死に自分の息子を助けようとした、不器用で、どうしようもないくらい優しい、一人の父親だったの」
理想の父の像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。僕がずっと心の支えにしてきた「完璧な父」は、母が作り上げた幻影だった。そして僕自身も、その幻影に甘え、縋りついてきたのだ。父の死の真実から目を背け、悲しみにくれる母の本当の心に寄り添うこともせず、ただ年に一度の「影見」で、自分の理想の父に会えることだけを待ち望んでいた。
「ごめん……なさい。あなたにまで辛い思いをさせたくなくて……陽向のことも、お父さんの本当のことも、ずっと言えなかった」
母は、僕ではなく、まるで遠い過去にいる誰かに謝るように、そう呟いた。陽向を失い、夫を失い、その上で僕を一人で育てなければならなかった母の十五年間。その重さを、僕は初めて想像した。
なぜ、今年になって陽向の影が現れたのだろう。
僕が問いかけると、母は涙に濡れた顔を上げて、静かに言った。
「たぶん……健太が、真実を受け止められるくらい、大きくなったからじゃないかしら。この家が、そう判断したのよ。もう、嘘であなたを守らなくても大丈夫だって」
家が、判断した。その言葉が、妙に腑に落ちた。「影見」は、ただ故人を呼び出す儀式ではない。それは、残された家族が、過去と向き合い、未来へ進むために、家そのものが与えてくれる道標なのかもしれない。僕が理想の父を求めている間は父の影を、そして僕が真実を知るべき時が来たと判断した時には、兄の影を。
崩れ落ちた理想の父の瓦礫の中から、僕は初めて、一人の人間としての父、雄一郎の姿を見た気がした。恐怖と絶望の中で、息子の名前を叫び続けたであろう、不器用で、愛に満ちた父の姿を。
第四章 影との対話
翌日の午後、僕は一人で、父と兄が命を落とした川辺に立っていた。母に場所を教えてもらったそこは、今は穏やかな流れを取り戻し、水面が午後の光をきらきらと反射させている。目を閉じると、濁流の轟音と、父の必死の叫び声が聞こえてくるようだった。
僕の隣には、陽向の影が静かに立っていた。今日は彼をここまで連れてきたのだ。影は言葉を発しない。けれど、その存在は確かに、僕に何かを伝えていた。悲しみだけではない、温かい何かを。
「陽向兄さん」
初めて、そう呼びかけた。声が少し震えた。
「会いたかったよ。ずっと知らなくて、ごめん」
影は、川面を見つめている。その横顔は、どことなく父に似ていた。
「父さん、怖かっただろうな。必死だったんだろうな……。俺、ずっと父さんのこと、完璧なヒーローだと思ってた。でも、違ったんだな。ただの、俺たちの父親だったんだ」
僕は、空に向かって語りかけた。それは、今はいない父と、そして今まで僕が作り上げてきた父の幻影に対する、別れの言葉だった。
「父さん、ありがとう。完璧じゃなくてもいい。不器用でもいい。俺の父親でいてくれて、ありがとう。そして、兄さんを守ろうとしてくれて、ありがとう」
言葉にした途端、胸の奥に長年つかえていた何かが、すうっと溶けていくのを感じた。涙が溢れて止まらなかった。それは、父を失った悲しみの涙ではなく、父の本当の愛に触れたことへの、感謝の涙だった。
僕が顔を上げると、陽向の影がゆっくりとこちらを向いた。そして、陽炎のようだったその輪郭が、ふっと微笑んだように見えた。それは一瞬の幻だったかもしれない。しかし、僕には確かにそう見えたのだ。
夕陽が川面を茜色に染め上げる頃、陽向の影は光の粒子のようにきらめきながら、空気に溶けるようにして消えていった。
来年の六月十五日、もう縁側に影は現れないかもしれない。父も、陽向も。
でも、それでいい。
僕はもう、影に頼らなくても大丈夫だ。父と兄は、幻として僕の前に現れるのではなく、血の通った家族として、僕の心の中に、そして母の心の中に、永遠に生き続けるのだから。
家に帰ると、母が僕の好きだったオムライスを作って待っていた。ケチャップで描かれた不格好なスマイルマーク。それはまるで、僕たちがこれから歩む、不器用だけど温かい、新しい家族の始まりを告げているようだった。家族とは、輝かしい記憶の集合体ではない。癒えない傷や、言えない秘密、そして不完全さをも全て抱きしめて、それでも共に明日へ向かって歩いていく、光と影の織りなす一枚のタペストリーなのだ。僕はようやく、そのタペストリーを織り上げる、一本の糸になる覚悟ができた気がした。