第一章 零れ落ちる結晶
気がつくと、水上湊(みなかみ みなと)は見たこともない草原に立っていた。空は二つの太陽が淡い琥珀色の光を投げかけ、足元の草はガラス細工のようにキラキラと音を立てて揺れている。自分の名前以外、何も思い出せない。なぜここにいるのか、どこから来たのか、まるで分厚い霧に覆われたかのように記憶が曖昧だった。心臓が不安に凍りつく。
その時、湊の胸元から、ふわりと小さな光が生まれた。それは蛍のように瞬きながら宙に浮かび、やがて彼の指先に落ちてきた。見れば、それは涙の雫のような形をした、青みがかった小さな結晶だった。美しさに一瞬見惚れたが、次の瞬間、彼は理解した。この結晶が生まれたのと引き換えに、頭の中から何かが一つ、完全に消え去ったことを。それはおそらく、些細な、けれど確かに自分の一部だった何かだ。
「わあ、綺麗な『星の涙』!」
背後から澄んだ声がした。振り返ると、亜麻色の髪をした少女が、大きな瞳を輝かせてこちらを見ている。年は十歳くらいだろうか。彼女は湊の手の中にある結晶を指差した。
「旅の人? あなたの『星の涙』は、すごく青い色をしてる。ねえ、見せてもらってもいい?」
少女は警戒心のかけらも見せず、湊に駆け寄ってくる。「星の涙」と呼ばれた結晶を、彼女はリリアと名乗り、宝物のようにそっと両手で受け取った。彼女が指先で結晶に触れた瞬間、その小さな塊は淡い光を放ち、周囲の空中にぼんやりとした映像を映し出した。
それは、どこまでも続く青い水面が、白い飛沫を上げて岸壁に打ち寄せる光景だった。潮の香りと、肌を撫でる湿った風の感覚までが、幻のように立ち上る。
「……すごい。これが、『海』っていうものなの?」
リリアはうっとりと息を漏らした。湊は呆然とする。そうだ、これは「海」だ。自分が子供の頃、父に連れられて行った故郷の海の記憶。しかし、彼自身はその光景を、まるで他人の夢を見ているかのようにしか感じられなかった。実感も、懐かしさも、何もない。
「星の涙は、時々空から降ってくるの。遠い世界の物語を見せてくれるんだよ。でも、人から生まれるなんて初めて見た」
リリアの無邪気な言葉が、湊の胸に冷たい杭を打ち込んだ。自分の記憶が、身体から結晶となって零れ落ちている。そしてそれは、この世界の住人にとっては、ただの美しい物語に過ぎないのだ。失う恐怖と、途方もない孤独感が、彼の全身を支配し始めていた。この世界は、彼の存在そのものを少しずつ奪い去っていく場所なのだと、直感的に悟った。
第二章 記憶という名の病
リリアの案内で、湊はガラス草の草原の先にある小さな村に身を寄せることになった。村人たちは、彼を「記憶を落とす人」と呼び、奇妙な畏敬と好奇の目を向けたが、害意はなかった。彼らは、湊から時折こぼれ落ちる「星の涙」――ビー玉ほどの大きさの結晶――に映し出される断片的な物語に夢中になった。「信号機」という色の変わる灯り、「自動販売機」という魔法の箱、「雪」という冷たい白い綿。それらは全て、この世界には存在しない概念だった。
湊にとって、それは耐え難い苦痛だった。記憶を失うことは、自分が自分でなくなっていくことと同義だった。彼は必死に抵抗した。何かを思い出そうとすればするほど、その記憶は輪郭をはっきりとさせ、そして次の瞬間には美しい結晶となって体外へ排出されてしまう。それはまるで、治すことのできない病のようだった。
「どうしてそんなに悲しい顔をするの? あなたの物語は、みんなを笑顔にするのに」
ある晩、リリアが心配そうに尋ねてきた。湊は、村の広場で子供たちに囲まれ、また一つ「遊園地」の記憶を落とした後だった。観覧車から見た夜景の記憶は、今や彼の頭の中にはなく、子供たちの感嘆の声の中にだけ存在していた。
「これは物語じゃない。俺の人生だったものだ。君たちにとっては娯楽かもしれないが、俺は自分を失っているんだ」
声が荒くなる。リリアは怯えたように少し後ずさったが、やがて静かに言った。
「失うって、どういうこと? ここでは、記憶は誰かに見せるためにあるものだよ。一番素敵な記憶は、一番たくさんの人に見せてあげるのが、一番の幸せなんだって、おばあちゃんが言ってた」
価値観が、根本から違った。この世界では、記憶は個人に帰属するものではなく、共有されるべき公共財のようなものらしい。湊は言葉を失った。元の世界に帰らなければならない。その思いだけが、彼の唯一の道標だった。しかし、帰るべき場所の具体的な風景も、待っているはずの人の顔も、日に日に霞んでいく。
ただ、胸の奥深くに、まだ結晶化していない、ひどく温かくて、同時にひどく切ない、大切な約束の記憶が一つだけ残っていることだけは確かだった。それを失えば、本当に自分は空っぽになってしまう。その恐怖が、彼を突き動かしていた。村の長老は、世界の中心にある「忘れられた図書館」に行けば、世界の理や、あるいは元の場所へ戻る道筋がわかるかもしれないと教えてくれた。湊は、最後の手がかりにすがる思いで、図書館を目指すことを決意した。
第三章 忘れられた図書館の真実
湊と、彼を放っておけずに付いてきたリリアの旅は、数日続いた。道中も、湊の記憶は少しずつ零れ落ちていった。高校時代の文化祭の喧騒、初めて自転車に乗れた日の高揚感、雨の日の匂い。そのたびに湊は心をすり減らし、リリアは複雑な表情でその結晶から映し出される物語を見つめていた。
やがて二人の眼前に、巨大な螺旋状の塔が見えてきた。それが「忘れられた図書館」だった。内部は、天井まで続く書架に無数の「星の涙」が収められており、それぞれが淡い光を放って、幻想的な空間を作り出していた。それは、誰かが失った幾億もの記憶の墓標だった。
「ようこそ、最後の旅人」
静寂を破ったのは、書架の奥から現れた老人の声だった。彼は、この図書館の司書だと名乗った。その目は深く、全てを見透かすような色をしていた。
「帰る方法を、探しにきたのだろう?」
湊が頷くと、司書は静かに世界の真実を語り始めた。この世界「メモリア」は、もともと何もない虚無の空間だった。そこに、湊のような異世界からの漂流者が現れ始めた。彼らは元の世界を失い、その記憶をこの世界に落としていった。その記憶の断片が積み重なり、集まり、互いに影響し合うことで、土地が生まれ、文化が生まれ、そして人々が生まれたのだと。
「我々も、リリアも、もとは誰かの記憶から生まれた存在だ。誰かの『妹』という記憶、誰かの『優しい隣人』という記憶、誰かの『賢い老人』という記憶…。それらが集まって、我々という個を形成している。そしてこの世界は、あなたのような新しい旅人が落とす記憶を養分として、今も広がり続けている」
司書の言葉は、無慈悲な宣告だった。湊は、自分がこの世界を豊かにするための生贄に過ぎないことを知った。リリアは顔を青ざめさせ、自分の足元が崩れていくような感覚に襲われていた。
「帰る方法は…」湊はかすれた声で尋ねた。
「存在しない」と司書は首を横に振った。「全ての記憶を失った者は、その魂ごとこの世界の礎となる。ある者は新しい山に、ある者は名もなき花に、ある者は空を流れる風になる。それが、この世界における救済であり、唯一の結末だ」
絶望が、湊の心を黒く塗りつぶした。彼は救世主でもなければ、冒険者でもなかった。ただ消費されるだけの、物語の材料だった。そして、彼が必死に守ろうとしてきた自己という存在そのものが、いずれこの世界の風景の一部となって消え去る運命なのだ。隣で震えるリリアも、誰かの記憶の残滓に過ぎないという事実に、彼はもはや何の言葉もかけることができなかった。
第四章 君に託す海
図書館の静寂の中、湊は自分の胸に手を当てた。絶望の底で、彼はまだ温かい光を放ち続ける、最後の記憶の存在を感じていた。それは、病室のベッドに横たわる妹との、果たされなかった約束の記憶。
『元気になったら、一緒に海を見に行こうね、兄ちゃん』
白いシーツの上で、か細い声で笑った妹の顔。その約束を果たせぬまま妹を失った後悔が、彼を元の世界に縛り付ける最も強い楔だった。しかし、今、その記憶を思い出す彼の心に、不思議なほどの静けさが広がっていた。彼はもう、帰れない。帰るべき場所も、妹も、もうどこにもないのだ。
彼は、自分の存在意義に揺らぎ、うつむいているリリアに向き直った。
「リリア。君は、誰かの記憶の残滓なんかじゃない」
湊はそう言うと、自らの胸に強く手を当てた。すると、彼の身体からこれまでで最も大きく、そして最も青く澄んだ光を放つ結晶が、ゆっくりと現れた。妹との約束、潮風の匂い、寄せては返す波の音、二人で笑い合うはずだった未来。彼の全てが詰まった、最後の記憶。
「これを、君にあげる」
彼はその結晶を、震えるリリアの両手にそっと乗せた。
「これは僕の一番大切な宝物だ。僕が生きていた証だ。これを受け取って、君自身の物語を生きてくれ。君が誰かの思い出から生まれたというなら、僕の思い出ごと、君のものにしてしまえばいい」
リリアが結晶に触れた瞬間、まばゆい光が溢れ出し、図書館全体が青一色に染まった。彼女の瞳には、どこまでも広がる雄大な海の光景が映し出されていた。砂浜を裸足で駆ける兄妹の幻影。それはもはや湊だけの記憶ではなく、リリア自身の原風景として、彼女の魂に深く刻み込まれていった。
湊の身体が、足元から光の粒子となって崩れ始める。記憶を全て手放した彼の存在は、もはやこの世界に形を留めておくことができない。消滅への恐怖はなかった。代わりに、全てを託し終えた安堵感が彼を包んでいた。
「ありがとう、ミナト」
涙を流すリリアの顔を見ながら、彼は満足げに微笑んだ。彼の身体は完全に光となり、図書館の天井を突き抜け、メモリアの琥珀色の空へと溶けていった。
数年後。ガラス草の村では、成長したリリアが子供たちに語り聞かせをしていた。
「ずっと昔、この世界にはなかった、広くて青くて、しょっぱい水のたまりのお話。それは『海』っていうの。そして、その海の物語を運んできてくれた、優しい旅人さんがいたのよ…」
彼女が語る物語は、村の新しい伝説となっていた。水上湊という存在は消えた。しかし、彼が失った記憶は、彼が愛した妹との約束は、この世界で新しい物語として永遠に生き続ける。メモリアの空は、あの日から少しだけ、青みを増したように見えた。