彩なき空のエピローグ

彩なき空のエピローグ

0 3867 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:

第一章 彩なき視界

カイの見る世界は、色で満ちていた。ただし、それは常人の見る色彩とは異なる。彼が認識するのは、物体に宿る感情のオーラだけだ。共感性欠乏症――医師がつけた診断名は、カイにとってただの記号でしかなかった。喜びも悲しみも、彼の中では生まれない。他人の笑顔が何を意味するのか、涙がどこから来るのか、彼は理解できない。

彼の仕事は、その特異な視覚能力を活かした古物鑑定だった。露店に並ぶガラクタの山。カイが錆びた銀の懐中時計にそっと指を触れると、その輪郭から陽炎のようなオーラが立ち上った。燃えるような真紅。それは『激情』の色。おそらく、持ち主が恋人に贈った最期の品だろう。その隣の革表紙の本からは、深い藍色の『探究心』が静かに揺らめいていた。

「カイ、また変わったものを見ているのかい」

店主の老婆が、歯のない口で笑う。カイは無表情に頷くだけだ。老婆の纏うオーラは、長い年月を経て落ち着いた、穏やかな萌黄色の『安寧』だった。彼はそれが何を意味する感情なのかは知らない。ただ、その色だけを認識する。

近頃、街には奇妙な噂が流れていた。突如として感情を失い、体から鈍色の想念石を際限なく生成して死に至るという奇病――『感情の過飽和』。犠牲者の亡骸の周りには、価値のない灰色をした絶望の石が、まるで墓標のように散らばっているという。

カイはそれを聞いても、何も感じなかった。ただ、自分の平坦な内面と同じ色の石が存在するという事実だけが、記憶の片隅に引っかかった。

第二章 澱む感情の川

ひとりの少女が、カイの仕事場である小さな工房の扉を叩いたのは、雨が降り始めた午後だった。ずぶ濡れの少女、エルマは、カイの前に小さな木箱を差し出した。彼女の全身からは、嵐のような紫紺の『悲嘆』のオーラが吹き荒れていた。

「父が、『過飽和』に……。これを、見てください」

震える声だった。カイは無言で木箱を受け取り、中に入っていた古びた万年筆に触れた。瞬間、視界が濁った鉛色のオーラで塗りつぶされる。それは、彼が今まで見たどの感情の色とも違っていた。希望も絶望もなく、ただただ停滞し、沈殿し、腐敗していくような『虚無』の色。オーラはあまりに濃密で、指先から冷たい泥が流れ込んでくるような錯覚を覚えた。

「これは……」

カイの口から、自分でも意図しない言葉が漏れた。

エルマは顔を覆った。

「父は、だんだん笑わなくなって、泣かなくなって……。ただ、ぼんやりと座っているだけになってしまったんです。そして体から、あの灰色の石が……」

万年筆から放たれる澱んだオーラは、まるで感情の川の流れが堰き止められ、腐り始めた沼のようだった。カイは、街で起きている現象の断片を初めて肌で感じた。いや、肌で感じたというのは比喩だ。彼はただ、視覚情報として異常なオーラの奔流を認識したに過ぎない。しかし、その澱みは、彼の平坦な世界に初めて投げ込まれた、異質な石だった。

第三章 虚無の伝説

カイとエルマは、原因を探る旅に出た。エルマの父の遺品に残された手記には、古代の伝説が記されていた。感情を失った文明が最後に生み出したという、『虚無の想念石(アパシー・ソウネン)』の伝説。それはあらゆる感情を吸い込み、世界を無に還す災厄の石だという。

「父は、この石が『過飽和』の原因だと信じていました。それを破壊すれば、みんな元に戻るって……」

二人は、石が眠るとされる「静寂の谷」を目指した。道中、エルマはよく笑い、よく泣いた。道端の花を見ては、その美しさに息を飲み、彼女の纏うオーラは輝くような黄金の『歓喜』に変わった。カイが崖で足を滑らせた時には、血の気が引くほど青ざめた白の『恐怖』を放った。

カイは、そのめまぐるしい色の変化を、ただ観察していた。ある夜、焚き火を囲んでいると、エルマが首にかけていた小さなペンダントを落とした。カイがそれを拾い上げ、指が触れた瞬間、温かな光が溢れ出した。それは、彼女の亡き母親から受け継いだものだという。ペンダントから放たれるオーラは、どこまでも優しく、どこまでも深い、桜色の『愛情』だった。

カイは、そのオーラを理解できなかった。しかし、なぜかその光から目を離すことができなかった。それは、彼の色彩だけの世界に、初めて差し込んだ意味のある光のように思えた。

第四章 静寂の谷の真実

長く険しい旅の果てに、二人は「静寂の谷」にたどり着いた。風の音すらしない、絶対的な沈黙が支配する場所。谷の最奥には、古代の遺跡と思しき石造りの祭壇があった。その中央に、漆黒の石が鎮座している。すべてを吸い込むような、光のない黒。あれが『虚無の想念石』に違いなかった。

だが、奇妙なことが起きた。祭壇に近づくにつれて、エルマの表情から色が消えていったのだ。彼女の纏うオーラが、急速に色褪せていく。

「カイ……なんだか、何も感じない……」

エルマの足がもつれ、その場に崩れ落ちる。

カイは焦燥に似た何かを感じながら、祭壇へと走った。原因はこの石だ。これをどうにかしなければ。彼が黒い石に手を伸ばした、その瞬間――世界が歪んだ。

石からは、何のオーラも放たれていなかった。ただの、冷たい塊だ。

そして、カイは気づいてしまった。恐ろしい真実に。

『感情の過飽和』が深刻なのは、自分が訪れた街や村ばかりだった。自分が触れた物、話した人々、その周辺から澱みは広がっていた。エルマの感情が薄れたのは、石のせいではない。この谷で、カイとあまりに長く、近くに居すぎたからだ。

背後で、エルマの体から鈍い輝きの想念石がぽつり、ぽつりと生まれ始めていた。

原因は、『虚無の想念石』ではない。

この、俺自身だったのだ。

第五章 世界の栓

絶望という感情をカイは知らない。だが、目の前の光景が引き起こした論理的な結論は、彼の思考を停止させるのに十分だった。

彼は、世界の感情循環システムに打ち込まれた『栓』だったのだ。

この世界では、感情は人から物へ、物から人へと巡り、循環することで健全に保たれる。だが、カイは感情を認知できない。彼に向けられた感情、彼が触れたものから流れ込むはずだった感情の奔流は、彼の内部で受け止められることなく、行き場を失う。それは彼の周囲に滞留し、澱み、腐敗し、やがて『感情の過飽和』として溢れ出す。

『虚無の想念石』は、災厄の装置などではなかった。それは、かつてこの世界に存在した、カイと同じ『共感性欠乏症』の生命が死して残した、ただの痕跡。もう一つの『栓』の亡骸だったのだ。

カイは倒れているエルマを見た。彼女の肌からは、生命力そのものが想念石となって零れ落ちている。このままではエルマは死ぬ。自分がここに存在する限り、世界はゆっくりと色を失い、死に至る。

何をすべきか。

答えは、一つしかなかった。

第六章 彩なき空へ

カイは決断した。

この世界から、自分という『栓』を引き抜く。

そのためには、自分が今まで一度も触れたことのない、最も巨大で、最も根源的な存在に触れる必要があった。それは、この谷を覆う、どこまでも広がる空。そして、その向こうにある宇宙そのもの。そこに自身を接続し、溶け合わせることで、滞留したすべての感情を世界に解放するのだ。

彼は、谷で最も高い崖の頂上へと登り始めた。

「待って……カイ……行かないで……」

エルマのかすれた声が背中に届く。カイは振り返らなかった。振り返る意味を、彼は知らない。

崖の頂に立ち、彼は空を見上げた。オーラのない、ただ青いだけの空。雲が流れ、風が頬を撫でる。彼はその物理現象を認識するだけだ。美しいとも、悲しいとも思わない。

だが、彼は手を伸ばした。

エルマを救うため。世界を元に戻すため。

それは感情から生まれた行動ではない。ただ、それが唯一の正しい解決策であるという、彼の思考が導き出した、純粋な論理的帰結だった。

「さよなら」

誰に言うでもなく呟き、カイは虚空に指を触れた。

第七章 エピローグ

カイの体が、眩い光の粒子となって砕け散った。その瞬間、世界中に堰き止められていた感情の濁流が一斉に解放される。空には巨大なオーロラが生まれ、赤、青、黄、緑、ありとあらゆる色彩が夜空をキャンバスにして乱舞した。それは、世界が忘れていた感情の奔流そのものだった。

谷底で倒れていたエルマは、ゆっくりと目を開けた。体から想念石が生まれるのは止まり、心に温かな感情が戻ってくるのを感じる。彼女は崖の上を見上げたが、そこにはもう誰もいない。ただ、空に広がる壮絶なまでの美しい光が、彼の存在の証だった。

人々は感情を取り戻し、世界は再び色鮮やかな想念で満たされた。

けれど、カイという存在は、この世界のどこにもいなくなった。

エルマの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それはカイが決して感じることのなかった『哀悼』と、そして彼が知り得なかった温かな『感謝』の色をしていた。彼女の手の中で、ひとつの透明に輝く想念石が、静かに結晶した。

彼が最後に見た、オーラのないただの空は、彼にとってどんな光景だったのだろう。

感情のないまま、世界で最も感情的な行為をした皮肉な救世主を、もう誰も知ることはない。

世界は救われ、そして、彼のことだけを、静かに忘れていく。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る