第一章 揺れる境界線
僕、アオイの朝は、いつもサイコロを振るようなものだ。
目を覚ますと、まず自分の手を見る。今日は節くれだった、少し日に焼けた青年の一七歳の指先。天井を見上げる視線は昨日より少し高く、身体の隅々まで力が漲っているのを感じる。しかし、昼過ぎに道端で泣いている子供に心を痛めた瞬間、骨がきしむような奇妙な感覚と共に視界がぐっと下がり、世界は巨大なものへと変貌した。気づけば僕は、膝を擦りむいた八歳の少年になっていた。
僕の肉体年齢は、感情の潮の満ち引きに弄ばれる小舟だ。喜び、悲しみ、怒り、恋心。そのどれもが僕の存在の輪郭を揺さぶり、昨日と今日、午前と午後で、僕を別人へと作り変える。
この世界では、誰もが「青春の終わり」を迎える。その時、彼らが過ごした煌めくような日々の記憶は『青春の残響(エコーズ・オブ・ユース)』となって空間に溢れ出す。街角のカフェが、ある卒業式の日の光景に包まれたり、公園のベンチが初恋の告白の瞬間に巻き戻ったりする。それは祝福であり、世界が時間を循環させるための儀式なのだと、誰もが疑いもなく信じている。
だが、僕にはその兆候すらない。僕の時間は一方向に流れず、ただ激しく揺れ動くだけ。大人になることも、過去を美しい残響として世界に還すこともできず、僕は永遠に時間の迷子だった。
胸のポケットには、古びた真鍮製の『時間羅針盤(クロノ・コンパス)』が収まっている。幼い頃からずっと一緒の、僕だけのお守り。針は一本しかなく、文字盤もないそれは、僕の年齢が変わるたびに気まぐれに回転し、カチ、カチ、と不規則な心音のような音を立て続けていた。
第二章 残響は囁かない
「私、もうすぐだと思うんだ」
夕暮れの坂道で、隣を歩く幼馴染のヒカリが呟いた。彼女の横顔を照らす茜色の光が、その頬に大人びた陰影を落とす。今日の僕は彼女と同じ一七歳の姿で、その言葉の意味を痛いほど理解できた。
「そっか」
「うん。なんだか、胸の中の思い出たちが、外に出たがってる感じがするの。キラキラして、あったかくて」
ヒカリは楽しそうに笑う。でも僕には、その笑顔が寂しさで滲んで見えた。彼女が大人になる。それは、彼女が過去を世界に放ち、僕のような不安定な存在を過去の一部として置いていくということだ。僕たちの共有した時間も、美しい『残響』の一部に加工されてしまう。
その瞬間、胸を刺すような寂しさが僕を襲った。
握りしめていた『時間羅針盤』が、ポケットの中で灼熱を帯びる。
カチカチカチッ!
けたたましい音と共に、羅針盤の針が狂ったように回転し、ぴたりと一点を指した。
刹那、僕の視界が歪む。夕焼けに染まる街並みが色を失い、灰色で、静まり返った別の街の風景がフラッシュバックした。そこには『青春の残響』の煌めきなどどこにもなく、人々は無表情に、ただ同じ歩幅で歩いている。それは一瞬の幻。だが、脳裏に焼き付いて離れない、冷たい既視感だった。
第三章 時計仕掛けの図書館
あの幻影は何だったのか。答えを求め、僕は街の中央に聳える大図書館の重い扉を開けた。埃と古い紙の匂いが、時間の澱のように鼻腔を満たす。この図書館の地下には、街の創設以来の記録が眠っていると聞く。
「何かお探しかな、少年」
不意に背後から声をかけられ、振り返ると、そこに物静かな老人が立っていた。銀縁眼鏡の奥の瞳が、探るように僕を見つめている。名札には『司書長 クロノス』とあった。今日の僕は一二歳の姿だった。
「この街の……古い歴史について知りたくて」
僕がおずおずと差し出した『時間羅針盤』を見て、クロノスの目が微かに細められた。
「ほう。珍しい羅針盤だ。針が一本しかない。まるで、始まりも終わりも示さない、永遠の『今』を指し示しているようだ」
彼は僕のコンパスを指先でそっと撫でた。ひやりとした感触が僕の肌を粟立たせる。
「失われた時を探しているのかね? それとも……時そのものを、疑っているのかな?」
その声は穏やかだったが、僕の心の奥底まで見透かしているような響きがあった。彼はこの世界の何かを知っている。僕が迷い込んだ迷宮の、設計者の一人であるかのような、絶対的な静けさをまとっていた。
第四章 きみの卒業式
ヒカリの『青春の残響』は、満月の夜に訪れた。
僕たちの母校のグラウンド。彼女が目を閉じると、その身体から柔らかな光の粒子が溢れ出し、周囲の空間を満たしていく。夏の夜の匂いが、文化祭の日の焼きそばの匂いに変わる。肌を撫でる風が、体育祭の日に感じた熱い声援の響きを運んでくる。彼女の青春が、美しく編集された映画のように再生されていく。
そこにいる誰もが、その光景にうっとりと見惚れていた。僕を除いて。
僕には見えた。彼女が部活で挫折して泣いた日の記憶が、努力の記憶へと巧妙にすり替えられるのを。僕と大喧嘩して口も利かなかった一週間の記憶が、綺麗に消去されているのを。
「ヒカリ……」
彼女を失う悲しみが、絶望が、僕の感情の堤防を決壊させた。僕は再び一七歳の青年の身体を取り戻し、その激しい揺らぎが、右手に握る『時間羅針盤』に流れ込む。
――ガチッ!
羅針盤の針が、真上を指して停止した。
世界が、止まる。
いや、違う。世界の裏側が剥き出しになったのだ。
ヒカリの美しい残響の向こうに、僕は見た。巨大な時計仕掛けの歯車が噛み合い、街全体を覆っているのを。そして、クロノスのようなローブを纏った『時間管理者』たちが、人々から溢れ出た記憶の光――特に、苦悩や悲しみ、怒りといった負の感情――を抜き取り、吸収している光景を。
『青春の残響』は祝福などではなかった。人々の記憶を検閲し、不都合な歴史を消去し、世界を都合よく書き換え続けるための、巨大な記憶収穫システムだったのだ。
第五章 針が指し示す孤独
「ようやく理解したようだな、時の迷い子よ」
気づけば、クロノスが僕の隣に立っていた。彼の周囲だけ、時間の流れが凪いでいるようだった。
「なぜ……こんなことを」
「世界の調和のためだ。人々は辛い過去を忘れ、美化された青春を胸に、従順な大人となる。歴史は我々『時間管理者』が管理し、争いのない安定した時を紡ぎ続ける。実に効率的なシステムだろう?」
クロノスの言葉に、血の気が引いていく。
「君の体質は、我々のシステムの規格外だ。感情の揺らぎが時間を固定させないため、記憶の検閲が機能しない。だから君だけが、改変される前の『真の歴史』の断片を、その羅針盤を通じて垣間見ることができたのだ」
彼は僕に手を差し伸べた。
「だが、君にも選択肢を与えよう。我々のシステムに加わるがいい。安定した一つの年齢を選び、普通の大人になるのだ。そうすれば、君もこの孤独な揺らぎから解放される」
それは甘い誘惑だった。もう年齢の変化に苦しむことも、誰かとの別れに怯えることもない。ヒカリのように、穏やかな大人になれる。
だが、それは僕が僕でなくなること、この世界の偽りに加担することを意味していた。
第六章 大人になれない僕の選択
僕は、差し伸べられたクロノスの手を見つめ、それから自分の胸で不規則な音を立てる『時間羅針盤』に視線を落とした。
カチ、カチ……。
この音は、僕の心臓の音だ。揺れ動く感情そのものだ。喜びも、悲しみも、怒りも、ヒカリを想う切なさも、全てがこの音の中に在る。
これを失うことは、僕の魂を明け渡すことに等しい。
「断る」
僕の声は、少年のように高く、それでいて老人のように揺るぎなかった。
「僕は、大人にならない」
クロノスが初めて驚いたように目を見開く。
「僕は、このまま揺れ動き続ける。僕が『青春の残響』を引き起こさない限り、この世界の時間サイクルには僅かな亀裂が残り続ける。いつか誰かが、この偽りの空に気づくかもしれない。僕の存在が、そのための小さな楔になるのなら」
それが僕の答えだった。
世界を救うための、最も純粋な『大人』の選択。
僕は永遠に青春の中に閉じ込められるだろう。肉体も精神も、時の流れから切り離された孤独な島になる。ヒカリとはもう、同じ時間を生きることはできない。
だが、それでいい。彼女が失った本当の記憶の欠片も、世界が忘れた真実の歴史も、僕がこの身で憶え続ける。
クロノスは何も言わず、静かに闇へと消えていった。
僕は夜明け前の街を見下ろせる丘の上に一人、立っていた。身体は一〇歳の子供に戻っていた。冷たい夜明けの風が、小さな身体を吹き抜ける。けれど、心は不思議なほど凪いでいた。
手のひらの『時間羅針盤』は、相変わらず不規則な音を立てている。でももう、それは僕を苛む呪いの音ではなかった。
世界が忘れた全ての時間を記憶し、真の夜明けを待ち続ける、孤独で、気高い、僕だけの心音だった。