結晶の空、虹の雨
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結晶の空、虹の雨

第一章 酸っぱい雨と瑠璃色の指先

僕の住む街では、もうずいぶん長いこと、空は気怠い灰色に澱んでいた。時折ぱらつく雨は、レモンを無理やり絞ったような酸っぱい匂いをさせ、アスファルトを黒く濡らしては、世界から色彩を奪っていく。大人たちはこれを『嘆きの雨』と呼んだ。若者たちが未来への期待を失い、空に浮かぶはずの『希望の雲』が痩せ細ってしまったせいだ、と。

そんな世界で、僕は秘密を抱えていた。

初めて彼女の笑顔を見た、あの放課後。胸を締め付けるような、それでいて世界が輝いて見えるほどの強い『喜び』を感じた瞬間、僕の左手の小指に、灼けるような痛みが走った。見れば、指先が透き通った瑠璃色の結晶に変わっていたのだ。それは陽光を浴びて、内側から淡い光を放っていた。不可逆的な変化。僕の最初の感情の化石だった。

「アオイ、また空見てるのか?」

背後からの声に振り返ると、幼馴染のユウキが傘もささずに立っていた。酸性雨が彼の髪を濡らしている。

「昔の雨はさ、ハチミツみたいに甘かったんだって。信じられるか?」

ユウキは空を見上げて、自嘲するように笑った。彼の世代では、もう誰もそんな空想を信じない。それでも彼がそう言うのは、失われたものへの最後の抵抗のように僕には思えた。その笑顔に、僕は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。僕の体は、まだ誰も知らない秘密を、静かに増やし続けていた。

第二章 茜色の傷跡

ユウキの瞳から、少しずつ光が消えていくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。あれほど熱っぽく語っていたパイロットになるという夢を、彼は「馬鹿らしくなった」の一言で片付けた。彼の口から未来を語る言葉が消えるたび、空の灰色は一層深くなる気がした。

ある嵐の夜、事件は起きた。進路のことで父親と口論になったユウキが、家を飛び出してきたのだ。彼の背後から追いかけてきた父親の怒声。突き飛ばされそうになったユウキを庇って、僕は歩道に強く右腕を打ち付けた。

「……っ!」

骨が砕けるような衝撃の後、やってきたのは灼熱の痛みだった。見ると、右腕が肘から先まで、燃えるような茜色の結晶に変わっていた。ユウキの父親への激しい『怒り』と、親友を守れなかった自分への『悔しさ』が、僕の肉体を侵食したのだ。

「アオイ……お前の腕……」

呆然と立ち尽くすユウキの顔が、雨で濡れているのか、涙で濡れているのか、僕にはわからなかった。結晶化した腕は、まるで夕焼けの空を閉じ込めたように美しく、そしてひどく痛んだ。この時から僕は、自分の結晶化が、僕一人の感情によるものではないのかもしれないと、おぼろげに感じ始めていた。僕の体は、この世界が失っていく感情の、最後の受け皿なのかもしれない。

第三章 零れ落ちる虹

僕の体は、感情の万華鏡になっていった。可愛がっていた老犬の死を知った日の『悲しみ』は、左足を深い群青色に変えた。初めて自分の描いた絵がコンクールで認められた時の、天にも昇るような『歓喜』は、胸の中心を黄金色の結晶に変えた。痛みは常にあったが、それ以上に、失われていくはずだった感情の記憶が、確かな形となって僕の中に在るという事実に、奇妙な安堵を覚えていた。

そんなある日、茜色に染まった右腕から、ぽろり、と小さな欠片が剥がれ落ちた。それは爪の先ほどの大きさで、光を受けて七色にきらめいていた。

床に落ちたそれを、何も知らずにユウキが拾い上げた。

「なんだ、これ……きれいだな」

その指先が欠片に触れた瞬間、ユウキの瞳が大きく見開かれた。

「あ……」

彼の唇から、乾いた声が漏れる。

「そうだ……俺、空を飛びたかったんだ。雲の上には、きっと……甘い雨の源泉があるって……信じてた……」

ユウキの頬を、一筋の涙が伝った。それは、僕がずっと見ることのなかった、純粋な憧憬の涙だった。だが、その輝きは一瞬で消え去る。彼は我に返ったように欠片から手を離し、いつもの無気力な表情に戻ってしまった。

「……ごめん、今、俺……」

僕は言葉を失ったまま、床に転がる『虹色の欠片』を見つめていた。これは、ただの結晶じゃない。失われたはずの期待を、人の心に一時的に呼び戻す、世界の記憶そのものだった。そして僕は、自分の体に与えられた、あまりにも過酷な役割を悟り始めていた。

第四章 灰色の告白

世界はゆっくりと、しかし確実に希望を失っていた。酸性雨はもはや霧雨ではなく、肌を刺すような礫となって降り注ぎ、街路樹は茶色く枯れ果てていった。ユウキは完全に心を閉ざし、『未来への期待喪失症候群』の典型的な症状を示していた。虚ろな目で、一日中窓の外の灰色の空を眺めている。

「なあ、アオイ」

ある日、彼がぽつりと言った。

「期待なんて、するだけ無駄なんだ。夢を持てば、いつか裏切られる。希望は絶望の始まりなんだよ」

彼の視線が、僕の結晶化した腕に向けられる。

「お前はいいよな。その痛みや苦しみを、そんな綺麗な宝石に変えられるんだから。世界のバグみたいだ」

その言葉は、僕の胸を鋭く抉った。彼は僕の『虹色の欠片』に依存し始めていた。僕が剥がれ落ちた結晶を渡すと、彼は一時的に生気を取り戻し、そして効果が切れれば、以前よりも深い絶望に沈む。それは麻薬のようだった。根本的な解決にはならない。

このままでは、ユウキも、この世界も、本当に終わってしまう。

僕は決意した。この現象は、個人の感情の問題じゃない。世界全体の『希望の循環』が壊れてしまっているんだ。僕のこの体は、世界のバグなんかじゃない。失われた感情を集め、淀んだ循環を再起動させるために生まれた、たった一つの『鍵』なのだ。

ならば、僕の全てを懸けて、この空を、もう一度青く染め上げてみせる。たとえ僕という存在が、砕け散ることになったとしても。

第五章 希望の核へ

街で一番高い、今はもう使われていない電波塔の頂上を目指した。一歩進むごとに、僕の体は内側から光を発し、結晶化が急速に進んでいく。足が、胴が、そして視界までもが、きらめくプリズムに覆われていく。痛みはもはや感じなかった。ただ、僕がこれまでに経験した全ての感情の記憶が、奔流となって意識の中を駆け巡っていた。

瑠璃色の恋心。茜色の怒り。群青色の悲嘆。黄金色の歓喜。

それら全てが僕自身だった。僕が生きた証だった。

「アオイ!」

息を切らしてユウキが追いついた時、僕の体はもうほとんどが透明な結晶の塊と化していた。言葉を発することはできない。ただ、最後の力を振り絞り、僕は彼に向かって微笑んだ。そして、胸の中心、黄金色の結晶から剥がれ落ちた、最大で最後の『虹色の欠片』を、そっと彼の手のひらに乗せた。

次の瞬間、僕の体は完全に光に呑まれた。個としてのアオイの意識はそこで途切れ、世界中の失われた未来への期待と、数えきれない感情の記憶を宿した、巨大な『希望の核』へと変貌した。塔の頂点で、それは心臓のように静かな脈動を始め、淀んだ夜空に、どこまでも優しい光を放ち始めた。

第六章 結晶の空、虹の雨

あれから、どれくらいの時が経っただろうか。

世界の空は、その色を取り戻した。塔の頂で永遠に輝き続ける『希望の核』から生まれた新しい雲は、人々が忘れていた『希望の雲』となり、そこから降る雨は、ほんのりと甘く、陽光を浴びて七色に輝いた。人々はそれを『虹の雨』と呼んだ。

ユウキは空の研究者になっていた。パイロットにはならなかったが、誰よりも空に近い場所で、彼は生きていた。時折、彼は塔の頂で静かに脈動する光を見上げる。その手には、アオイが最後にくれた虹色の欠片が握られている。それはもう輝きを失っていたが、握りしめると、今でも確かな温もりを感じるような気がした。

「なあ、アオイ」

ある晴れた日の午後、降り注ぐ虹の雨に濡れながら、ユウキは空に語りかけた。

「今日の雨は、少しだけ君が笑った時の味がするよ」

アオイという名の少年は、もうどこにもいない。彼の自我も、記憶も、巨大な希望の中に溶けてしまった。しかし、彼の存在そのものが、この世界の空になり、雨になり、未来への祈りとなって、今も降り注いでいる。

虹の雨の下で、新しい世代の子供たちが空を見上げ、その頬を濡らしながら、まだ見ぬ未来への期待に胸をときめかせていた。その瞳の輝きこそが、一人の少年が世界に残した、永遠の答えだった。

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