第一章 灰色のファインダーと禁断の招待状
ファインダー越しの世界は、いつも少しだけ色褪せて見えた。僕、蒼井湊(あおい みなと)にとって、世界とはそういうものだった。シャッターを切る。カシャリ、と乾いた音がして、目の前の退屈な風景がデジタルデータに変換される。手にした一眼レフは父の形見だったが、僕が撮る写真はどれも、情熱も、感動も、何も写し取ってはくれなかった。ただそこにあるものを、忠実に記録するだけの作業。それはまるで、僕の高校生活そのもののようだった。
教室の窓から見えるグラウンドでは、サッカー部が土煙を上げてボールを追いかけている。廊下からは、吹奏楽部の少しずれたチューニングの音が聞こえてくる。誰もが自分の「青春」という物語の主役を演じているように見えるのに、僕だけが観客席でぼんやりと舞台を眺めている気分だった。何かに夢中になることも、本気でぶつかることもない。そんな自分に、とうに諦めにも似た苛立ちを感じていた。
「湊、いいもん手に入れたんだ」
放課後の教室で、空っぽのレンズキャップを弄んでいると、幼馴染の橘翔太(たちばな しょうた)が興奮した様子で声をかけてきた。彼の目はいつも、新しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラしている。僕とは正反対の人間だ。
「またガラクタか?この前の自作ドローンは、離陸五秒で校舎の壁に激突してたけど」
「ガラクタじゃない。これは……革命だ」
翔太は声を潜め、鞄から取り出した黒いヘッドセットのような装置を机の上に置いた。複雑な配線が絡みつき、素人が作ったとは思えない異様な存在感を放っている。
「『メモリア・ダイブ』。非合法のアンダーグラウンド・テックだ。特定の個人の脳から抽出された記憶データに、五感レベルで没入できる」
「……は?何言ってんだよ、SF映画じゃあるまいし」
「マジなんだって。これは、ただの映像じゃない。匂いも、味も、肌触りも、そして感情さえも追体験できる。言わば、他人の人生をレンタルするようなもんだ」
翔太の言葉は荒唐無稽だったが、彼の真剣な眼差しが、それがただの冗談ではないことを物語っていた。彼は、僕が知らない世界の入り口をいつも見つけてくる。
「で、誰の記憶なんだよ」
「……覚えてるか?一年前に事故で死んだ、天野詩織(あまの しおり)先輩」
その名を聞いて、心臓が小さく跳ねた。天野詩織。僕らの高校では伝説的な存在だった。圧倒的な美貌、全国レベルのピアノの腕前、そして誰にでも分け隔てなく優しい完璧な優等生。彼女の死は大きな衝撃となって学校を包み、今でも語り草になっている。僕自身は、廊下ですれ違った時に、ふわりと香ったシャンプーの匂いを覚えているくらいで、ほとんど接点はなかった。
「どうやってそんなものを……」
「コネだよ、コネ。彼女の父親が脳科学者で、事故後、非公式に彼女の記憶のバックアップを試みたらしい。そのデータの一部が、どういうわけか裏に流れてきた」
犯罪の匂いがした。倫理も何もない、冒涜的な行為だ。頭ではそう分かっていた。けれど、心のどこかで、黒い好奇心が鎌首をもたげるのを感じていた。
「完璧だった彼女の青春、覗いてみたくないか?」
翔太が悪魔のように囁く。
完璧な青春。僕が持っていない、何もかも。
ファインダー越しにしか世界を見られない僕が、もし、あの太陽のような彼女の視点で世界を見ることができたなら。そこに写るのは、どんな色彩だろうか。罪悪感と、抗いがたい誘惑が胸の中で渦を巻く。僕は、乾いた唇を舐め、ゆっくりと頷いてしまっていた。
第二章 盗まれた色彩、完璧な追体験
翔太の部屋のベッドに横たわり、あの黒いヘッドセットを装着すると、視界が真っ暗になった。耳元で機械的な起動音が鳴り、やがて全身が弛緩していくような奇妙な浮遊感に襲われる。次の瞬間、僕の意識は、僕のものではなくなった。
目を開けると、そこは見慣れた高校の音楽室だった。けれど、空気に含まれる埃の匂いや、窓から差し込む午後の光の粒子が、普段感じているものとは比較にならないほど鮮やかに五感を刺激する。そして、自分の手を見た。白く、細く、しなやかな指。僕のごつごつした手とは違う、天野詩織の手だった。
目の前にはグランドピアノの鍵盤が並んでいる。指を置くと、ひんやりとした象牙の感触が伝わってきた。途端に、胸の奥から湧き上がってくる、言葉にできないほどの高揚感と愛情。これは僕の感情じゃない。詩織先輩の感情だ。彼女は、このピアノを、音楽を、心の底から愛していた。
記憶が流れ込んでくる。コンクールに向けた練習の日々。仲間たちとの他愛ないおしゃべり。放課後の買い食いで食べたクレープの甘さ。図書室で偶然隣に座った男子生徒への、淡いときめき。そのすべてが、僕自身の体験であるかのように、鮮烈に心を揺さぶった。灰色の世界に、極彩色の絵の具がぶちまけられたような感覚。これが、彼女が見ていた世界。これが、青春。
ダイブを終えて現実に戻ると、世界は再び色褪せて見えた。翔太の部屋の壁紙の染み、床に落ちた菓子の袋、すべてが惨めで、退屈だった。
「どうだった?」
「……すごかった。本当に、彼女になったみたいだった」
それから僕は、中毒のようにメモリア・ダイブを繰り返した。翔太が心配するのも構わず、暇さえあれば詩織の記憶に没入した。現実の蒼井湊を忘れ、輝かしい記憶の中の天野詩織として生きる時間が、僕にとっての唯一の救いになっていた。
体育祭でクラスが優勝した時の、喉が張り裂けそうな歓声と、流れる汗のしょっぱさ。
文化祭のステージでピアノを弾き終えた後の、鳴り止まない拍手と、胸を満たす達成感。
雨上がりの帰り道、一つの傘に入った時の、彼の肩先に触れるか触れないかの距離感と、甘酸っぱい緊張。
僕は、彼女の完璧な青春を盗み、消費し、自分の空っぽの心を埋めていった。まるで、他人の日記を盗み読んで、その人生を自分のものだと錯覚する愚かな窃盗犯のように。このままでいい、このままこの美しい記憶の世界に浸っていたい。そう、本気で思い始めていた。
第三章 プリズムの裏側、不協和音の真実
ダイブの回数が二桁を超えた頃だろうか。僕は、完璧なプリズムのように輝いていた詩織の記憶に、微かな歪みを感じるようになった。それは、美しい景色の隅に写り込んだ、小さなゴミのような違和感だった。
友人たちと笑い合っている最中に、ふと浮かべる一瞬の翳り。教師に褒められた後に、誰も見ていない廊下でつく、深いため息。完璧な演奏を披露した後の楽屋で、鏡に映る自分を、冷たい目で見つめる瞬間。断片的なノイズは、ダイブを重ねるごとに輪郭を帯びていった。
「何か、おかしい……」
僕は、これまで意図的に避けていた、彼女の「孤独」な時間の記憶へとアクセスを試みた。翔太は「楽しい記憶だけにしとけよ」と忠告したが、もう止められなかった。
ダイブした先は、夜の自室だった。豪華な調度品に囲まれた、広い部屋。しかし、そこには昼間の彼女の輝きはなかった。机の上には、コンクールの課題曲ではない、見知らぬ楽譜が広げられている。それは、どこか悲しげで、切実な祈りのような旋律だった。
『詩織なら大丈夫』『君ならもっと上を目指せる』『さすが天野さんの娘さんだ』
周囲の人々の声が、幻聴のように彼女の脳内で反響する。期待、という名の重圧。完璧な天野詩織、という偶像。彼女は、その偶像を演じることに疲れ果てていた。ピアノを弾くことは喜びではなく、義務になっていた。友人との会話も、優等生としての役割をこなすための演技に過ぎなかった。僕が憧れた輝かしい青春は、彼女にとっては息苦しいガラスケースの中の展示品だったのだ。
そして、僕は見てしまった。事故が起きる、数時間前の記憶を。
彼女は、あの名もなき楽譜を握りしめ、泣いていた。静かに、声を殺して。
『もう、疲れた。完璧な私じゃなくても、ただの私として聴いてくれる人のために、この曲を弾きたかっただけなのに』
彼女には、たった一人、想いを寄せる人がいた。それは僕が記憶の中で見た、図書室で隣に座った男子生徒でも、傘に一緒に入った彼でもなかった。学校の用務員室で働く、無口な青年だった。彼女は、コンクールのためではなく、彼に聴かせるためだけに、あの曲を作っていたのだ。
『逃げ出したい』
その強い感情と共に、彼女は家を飛び出した。誰にも行き先を告げず、ただ無心で自転車を漕ぐ。その先に、あの運命の交差点があったことを、僕は知っている。
ダイブから覚醒した僕の頬を、涙が伝っていた。それは僕の涙なのか、彼女の涙なのか、分からなかった。僕がしてきたことは、何だったのだろう。彼女の人生を、美しい物語として安易に消費し、その苦悩や孤独から目を逸らしていただけではないか。完璧な青春なんて、どこにもなかった。そこにあったのは、僕と同じように、いや、僕以上に、もがき、苦しみ、不器用に生きようとしていた、一人の人間の魂の叫びだった。
他人の人生を覗き見た罰。その重さが、鉛のように僕の全身にのしかかった。
第四章 僕だけのシャッターチャンス
翔太に、もうダイブはしないと告げた。彼は何も聞かず、「そうか」とだけ言って、ヘッドセットを片付けた。僕の顔を見れば、すべてを察してくれたのだろう。
部屋に戻った僕は、埃を被っていた父のカメラを手に取った。ずしりと重い。けれど、その重さが、なぜか今の僕には心地よかった。僕は、天野詩織の人生を盗むのをやめる。そして、蒼井湊の人生を始めなければならない。
僕は学校の資料室に忍び込み、過去の卒業アルバムや文集を漁った。彼女が遺した、あの曲の手がかりを探して。やがて、一枚の写真を見つけた。文化祭の準備中、楽しそうに笑う詩織の傍に、少し離れて、はにかむように立っている用務員の青年が写っていた。きっと、彼だ。
彼に会いに行く勇気は、まだ僕にはなかった。彼女の秘密を暴く権利など、僕にはない。僕にできることは、彼女が本当に伝えたかった想いを、僕なりに受け止めることだけだ。彼女は完璧な演奏家ではなく、たった一人の不器用な表現者だった。完璧じゃなくてもいい。不完全なままでも、伝えたいと願うこと。その切実さこそが、心を打つのだ。
僕はカメラを首から下げ、街に出た。今までと同じ風景。けれど、ファインダー越しに見る世界は、もう色褪せてはいなかった。行き交う人々の表情、風に揺れる街路樹の葉、壁の落書き。その一つ一つに、それぞれの物語と、不完全な美しさがあることに気づいた。完璧なものなんて、この世界のどこにもない。だからこそ、世界はこんなにも豊かなのかもしれない。
足は自然と、彼女が記憶の中でよく訪れていた、海辺の公園へと向かっていた。潮風が頬を撫でる。そこには、ぽつんと一台のストリートピアノが置かれていた。鍵盤はところどころ傷つき、潮風に晒されて黄ばんでいる。
僕はピアノを弾けない。けれど、その前に立ち、そっと目を閉じた。彼女が奏でたかったであろう、あの悲しくも美しい旋律が、幻のように聞こえてくる気がした。
目を開け、僕はカメラを構えた。
ファインダーの先には、オレンジと紫が混じり合う、壮大な夕焼けが広がっていた。完璧な構図でも、理想的な光でもないかもしれない。雲が流れ、刻一刻と形を変えていく、二度とは見られない不確かな光景。
天野詩織の記憶の中で見た、どんな美しい景色よりも、今、僕の目の前にあるこの不確かで、儚い夕焼けが、どうしようもなく愛おしく感じられた。
カシャリ。
シャッターを切る。その音はもう、乾いてはいなかった。僕自身の人生が、確かに動き出した音だった。プリズムの向こう側にあった真実を知った僕は、ようやく、僕だけの色で世界を切り取るための、最初の一歩を踏み出したのだ。