虹色シャボンの終着点
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虹色シャボンの終着点

第一章 泡と消えた夏空

息を止めると、胸の奥で何かが静かに熱を帯びるのがわかった。それは確かな形を持ち、ゆっくりと俺の身体を通り抜け、差し出された手のひらの上で輝き始める。

手のひらに浮かぶ、歪な虹色の石鹸玉。その表面には、真夏の入道雲と、二人乗りで駆け抜けた坂道がゆらめいていた。汗の匂い、錆びたチェーンの軋む音、そして隣で笑うアカリの声。俺の、たった一つの、完璧な夏の日。

「先輩、すごい……きれい」

目の前でしゃがみこんで泣いていた後輩のミカちゃんが、顔を上げて呟いた。その潤んだ瞳が、石鹸玉の虹色を映してきらめく。

「あげるよ。元気、出るから」

無意識だった。俺の指がそっと石鹸玉に触れると、それはふわりと浮き上がり、彼女の小さな手のひらに吸い寄せられるように収まった。パチン、と儚い音。虹色の光が弾け、ミカちゃんの身体を淡く包み込む。彼女の頬に驚きと、そして満ち足りたような笑みが広がった。

それと同時に、俺の頭から、何かがすっぽりと抜け落ちる。

坂道? 自転車? 隣で笑っていた、誰か……。

胸にぽっかりと穴が空いたような、ひどく心もとない感覚。背後から近づいてきたアカリが、悲しげな声で言った。

「カイト、またやったの」

彼女の足元で、アスファルトから小さなつむじ風が生まれては消える。この世界では、俺たちのような『青春』の真っ只中にいる人間の強い感情が、時折こうして物理法則を捻じ曲げる。『感情のゆらぎ』。アカリの焦燥が、空気を掻き乱していた。

「あの子、笑ってくれたから」

「あんたの夏が、あの子の涙の代わりになっただけじゃない! いつか、あんたの心は空っぽになっちゃうよ」

アカリの言う通りだった。俺の記憶には、どうしようもないほどの空白が点在している。誰かを笑顔にするたび、俺は俺の一部を失っていく。この虹色の石鹸玉という、美しすぎる代償を払いながら。

第二章 世界の熱量

「君の能力は、この世界の『感情のゆらぎ』そのものと深く結びついている」

放課後の物理準備室。埃っぽい空気の中に、アルコールの匂いが混じっている。ユキヤ先輩は、窓から差し込む夕日を背に、静かな声で言った。彼の周りだけは、いつも空気が澄んでいるような錯覚を覚える。

「近年、世界中で『感情のゆらぎ』が異常なほど強まっている。些細な嫉妬が雹を降らせたり、集団の熱狂が局地的な蜃気楼を生んだり。まるで、世界の感情の総量が飽和しかけているようだ」

先輩は、奇妙な図形の描かれたレポートを指差した。

「君が生み出す『虹色の石鹸玉』。それは、君個人の『決定的瞬間』であると同時に、世界に飽和した感情エネルギーの塊でもある。君は無意識にそれを汲み上げ、他人に分け与えている。いわば、世界の感情の安全弁だ」

安全弁。その言葉は、ずしりと重かった。俺が誰かのためにと願ってしてきたことが、もっと大きな、世界規模の現象の一部だったというのか。

「ですが、先輩」俺は口を挟んだ。「石鹸玉が割れると、俺の記憶は消えます。それはつまり、世界から一つの感情が、完全に失われるということじゃないですか?」

ユキヤ先輩は黙って頷いた。

「そうだ。君は世界を安定させる代償に、世界から熱量を奪っているのかもしれない。このまま君が石鹸玉を作り続ければ……いつか世界は、あらゆる感情を失って冷え切ってしまうかもしれない」

彼の言葉が、耳の奥で重力のように響いた。良かれと思ってしたことが、世界から色を奪っていた。俺は世界を救っているのか、それとも、静かに殺しているのか。答えは、夕闇に溶けて見えなかった。

第三章 君のいない思い出

「覚えてる? 小学校の裏山にあった秘密基地。あの大きな楠の上」

アカリが、古びたアルバムをめくりながら話しかけてくる。写真の中では、泥だらけの俺とアカリが、得意げな顔で木の枝に座っていた。

俺は、その写真に写る少年が、まるで知らない誰かのようだった。

「……ごめん。覚えてない」

「そっか……」

アカリの声が、少しだけ震えた。彼女の指先が触れた窓ガラスが、急速に曇っていく。悲しみが、水蒸気を凝結させていた。

「この記憶も、カイトにもらったんだよ。カイトが、転校生にいじめられてた私を庇って、二人でここに逃げ込んだ日の記憶。あんたが初めて見せてくれた、最高の笑顔の記憶」

彼女はそう言って、小さなガラスの小瓶を取り出した。中には、七色に輝く砂粒がいくつか入っている。彼女が俺から受け取った、虹色の石鹸玉の残骸だった。俺が失った、俺たちのかけだった。

「思い出って、一人だけで持ってても意味ないんだよ……。あんたがいない思い出の中で、私、一人ぼっちだよ」

アカリの瞳からこぼれた一粒の涙が、テーブルに落ちて、パチリと小さな音を立てて弾けた。その瞬間、部屋の空気がひどく冷たくなった。共有されない記憶は、まるで剥製の蝶のように、美しいけれど、もう二度と飛ぶことはない。

俺は、自分の空っぽの心で、彼女の孤独の冷たさをただ感じていることしかできなかった。

第四章 グレースケールの侵食

その変化は、ある朝、突然やってきた。

空が、色を失っていた。太陽はそこにあるのに、世界はまるで色褪せた古い写真のように、くすんだ灰色に沈んでいた。風は音を立てるのをやめ、鳥の声も、街の喧騒も、すべてが分厚いガラスの向こう側のように遠い。

「感情飽和の臨界点を超えたんだ……!」

ユキヤ先輩の研究室に駆け込むと、彼は夥しい数のモニターの前で青い顔をしていた。

「世界中から、色彩と感情が急速に失われている! 人々が笑い方や泣き方を忘れ始めているんだ!」

テレビの映像には、無表情で街を歩く人々の姿が映し出されていた。喜びも、悲しみも、怒りさえも、その顔からは読み取れない。カイトがこれまで生み出し、消費されてきた石鹸玉の総量が、ついに世界の許容量を超え、感情そのものが枯渇し始めていたのだ。

世界の終焉は、爆発や破壊ではなく、こんなにも静かで、色のないものだったのか。

俺のせいだ。俺が、大切な記憶を安易に人に渡してきたから。世界から熱を、色を、心を奪い続けてきたから。

絶望が、鉛のように身体にのしかかる。アカリの顔が目に浮かんだ。彼女の笑顔さえも、この灰色の世界に飲み込まれてしまうのだろうか。

それだけは、駄目だ。

それだけは、絶対に。

第五章 最後の虹

俺は決意を固めていた。アカリとユキヤ先輩を、あの楠があった裏山に呼び出した。

「世界に、色を取り戻す方法が一つだけある」

俺の言葉に、二人は息を呑んだ。

「俺の、一番最初の、一番強い『決定的瞬間』を、この世界そのものに返すんだ」

「馬鹿なこと言わないで!」アカリが叫んだ。彼女の足元で、乾いた土が激しく渦を巻く。「そんなことをしたら、あんたはどうなるの!? あんた自身が、消えてなくなっちゃうかもしれないんだよ!」

彼女の絶叫が、音を失ったはずの空に、低く響いた。

「それでも、いいんだ」

俺は微笑んだ。初めて、心の底からそう思えた。

「俺がいなくなっても、俺たちが一緒にいた記憶は、アカリの中に残る。世界の中に残る。だったら、俺は空っぽになってもいい」

俺は、自分の胸の中心に、そっと両手を当てた。目を閉じ、意識を集中させる。

心の奥底。記憶の生まれる場所。すべての始まりだった、光の源泉。

――君の名前は?

――アカリ。あなたは?

――カイト。

アカリと初めて出会った日。夕暮れの公園。彼女の大きな瞳に映った、少しだけ不安そうな俺。そして、彼女が笑った瞬間に感じた、世界が始まったかのような、言葉にできないほどの途方もない喜び。

それが、俺の原点。

身体中の血液が逆流するような感覚。魂が引き剥がされるような痛み。

俺の手のひらに、これまでで最も大きく、最も鮮やかに輝く『虹色の石鹸玉』が、ゆっくりと姿を現した。

第六章 空っぽのキャンバス

「さよなら、アカリ」

俺は、その巨大な虹色の石鹸玉を、誰にも渡すことなく、空へ向かってそっと放した。

それは、重力に逆らうようにゆっくりと上昇し、灰色の空の中心で、一点の太陽のように輝きを増していく。

そして。

世界で一番静かな音を立てて、弾けた。

瞬間、世界中に虹色の光の粒子が降り注ぐ。それは雪のように優しく、雨のように全てを濡らし、灰色の世界を洗い流していく。剥がれ落ちた絵の具の下から、新しい色彩が生まれてくるように、空に淡い青が、木々に柔らかな緑が、街に温かな橙が、ゆっくりと、しかし確実に灯り始めた。

世界から『感情のゆらぎ』の気配が、完全に消え去っていた。もう、誰かの感情が風を起こすことも、雨を降らせることもない。

光の雨が止んだ時、俺はそこに立っていた。

ここは、どこだろう。目の前にいる、泣きながら微笑んでいる女の子は、誰だろう。

そして、俺は――誰だ?

心は完全に磨き上げられたガラス玉のように、どこまでも透明で、空っぽだった。

第七章 新しい色のはじまり

あれから、数年の時が流れた。

世界は、新しい色で満たされている。かつてのような激しい『感情のゆらぎ』はないけれど、人々は穏やかに心を通わせる術を見つけていた。誰かの優しい言葉が、陽だまりのような温かさを生み、子供たちの笑い声が、花の香りをそっと運んでくる。ささやかで、美しい奇跡。

アカリは、記憶を失くした俺の隣で、昔の話をよく聞かせてくれる。それはもう、俺の記憶ではなく、彼女が大切にしている、美しい物語として。俺はそれを、初めて聞くおとぎ話のように、静かに聞いている。

ある晴れた日の午後、公園のベンチに座っていた俺は、足元に咲く小さな青い花に気づいた。

「……きれいだね」

言葉が、自然とこぼれた。

その瞬間、隣に座っていたアカリの大きな瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。彼女の涙が地面に染み込むと、まるで魔法のように、そこから小さな、本当に小さな虹色の芽が顔を出した。

俺が失った全ての記憶は、消えてなくなったわけじゃなかった。

この新しい世界の土壌となり、優しい感情の種を育むための、静かな力になっていたんだ。

俺の空っぽの心に、今、小さな青い花の色が、じんわりと染み込んでいくのを感じた。

それは、新しい物語の、最初の色だった。


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