鳥籠と世界の終わりに降る羽根
第一章 色褪せた日常の幻影
僕、湊(みなと)が働くカフェ「夕凪」の窓から見える街並みは、いつも少しだけ歪んでいる。それは比喩ではない。通りの向かいにある時計塔の針が、時折ゼリーのようにしなったり、アスファルトを歩く人々の影が一瞬だけ本体から離れて踊ったりする。この世界では、人々の「感情の平均値」が物理法則の安定を左右する。僕らはそんな不安定な世界に、とっくに慣れきっていた。
僕の日常は、それに輪をかけて奇妙だった。集中すると、他人の無意識下の記憶が、実体のない『物』として目の前に浮かび上がるのだ。
「いつものブレンドを」
常連の老紳士が注文すると、彼の肩越しに、湯気の立つ肉じゃがの幻影がほわりと浮かんだ。昨日の夕食だろう。向こうの席の女性が溜め息をつくと、足元にはしおれた向日葵の束が散らばった。触れることはできない、ただそこにあるだけの、誰かの心の断片。僕にとって、世界は常に他人の記憶の幻影で満ちていた。
だが、最近は何かが違った。世界の揺らぎが、許容範囲を超えて大きくなっている。信号が青と赤の間で痙攣するように点滅し、雑誌の活字が踊り出す。街全体が微熱に浮かされているような、不穏な空気が漂っていた。
そして、僕の視界にも異変が起きていた。
それは、誰の記憶でもなかった。客の誰に意識を向けても、その『物』の持ち主は見つからない。不意に、空間そのものから滲み出すようにして現れるのだ。
―――欠けた、ガラスの鳥籠が。
それは繊細な細工が施された美しい鳥籠だったが、側面の一部が大きく欠けていた。中には何も入っていない。ただ空虚な空間を囲っているだけ。それは数秒で霧のように消え、僕の心に冷たい感触だけを残していった。
第二章 揺らぎの音階
世界の綻びは、日に日に大きくなっていった。人々は些細な物理法則のズレには慣れていたが、目の前の郵便ポストが突然溶けて銀色の水たまりになったり、走行中のバスが数秒間、半透明になったりするようでは、さすがに平静ではいられない。街角では諍いが絶えず、人々の顔からは余裕が消え、その負の感情がさらなる世界の不安定を招く悪循環に陥っていた。
僕の見る幻影も、その影響を受けていた。幸せな記憶から生まれたはずのウエディングケーキは腐って崩れ、楽しげな遊園地のメリーゴーラウンドは錆びつき、軋んだ音を立てていた。人々の心象風景が、そのまま世界の荒廃に繋がっているかのようだった。
そんな中、『欠けたガラスの鳥籠』が現れる頻度は増す一方だった。カフェのカウンターに。公園のベンチに。自室のベッドの脇に。それはまるで、僕に何かを訴えかけるように、静かに、しかし執拗に姿を現した。僕はその鳥籠の正体を探ろうと、街ゆく人々の心に深く潜ろうと試みたが、得られるのは頭痛と、持ち主のいない空虚さだけだった。
「大丈夫ですか?顔色が……」
ふと、柔らかな声に我に返った。カウンターの向こうに、一人の女性が立っていた。栞(しおり)さん。いつも窓際の席で静かに本を読んでいる、このカフェの常連客だった。彼女の澄んだ瞳が、心配そうに僕を覗き込んでいる。不思議なことに、彼女が店にいる間は、カップの紅茶がコーヒーに変わるような些細なズレさえ、ぴたりと止むのだった。
第三章 ガラスの鳥籠と光の羽根
栞さんと話すようになってから、僕の世界は少しだけ色を取り戻した。彼女は世界の異変に不安を感じながらも、どこか達観したような穏やかさを保っていた。彼女が読んでいる本の話、好きな音楽の話、そんな他愛ない会話が、ささくれだった僕の心を凪がせてくれた。
ある雨の日、店内の客は僕ら二人だけだった。雨音が窓を叩き、コーヒーの香りが静かに満ちていた。
「湊さんの目には、世界はどう映っているんですか?」
栞さんが不意に尋ねた。彼女の問いはいつも、僕の心の核心を突いてくる。
僕は一瞬ためらったが、ぽつりぽつりと自分の能力について語り始めた。他人の記憶が見えること、それが時として苦痛であること。
僕が話している最中、それは現れた。栞さんの座るテーブルの上に、あの『欠けたガラスの鳥籠』が、雨に濡れたように静かに佇んでいた。
「また、これか……」
僕が思わず呟くと、栞さんは不思議そうに首を傾げた。
「何かが、見えるのですか?」
その時だった。カフェの天井から、小さな光の粒がふわりと舞い降りてきた。それはまるで、蛍の光のように柔らかく、ゆっくりと鳥籠に向かって落ちていく。そして、光は鳥籠の欠けた部分にそっと触れると、一枚の『光の羽根』に姿を変え、そこに吸い込まれるように収まった。
鳥籠の中に、初めて何かが灯った瞬間だった。
栞さんはそれが見えていないはずなのに、まるで何かを感じ取ったかのように、そっと目を伏せた。その横顔は、ひどく懐かしくて、そしてどうしようもなく、哀しかった。
第四章 崩壊のプレリュード
転機は、警告もなく訪れた。
轟音と共に、カフェの窓の外のビルが、まるで砂の城のように崩れ落ちたのだ。悲鳴が街中に木霊し、アスファルトには亀裂が走り、空は不気味な紫色に染まっていた。世界の感情の平均値が、ついに臨界点を下回ったのだ。
人々はパニックに陥り、その恐怖と絶望が連鎖反応を引き起こし、世界の崩壊をさらに加速させていく。建物の輪郭は溶け、人々の身体は半透明になり、存在そのものが希薄になっていく。
「湊さん!」
栞さんの声に、僕はかろうじて自我を保った。カフェの中も例外ではなく、壁は歪み、床は波打っている。僕の周りには、人々の恐怖が生み出したおびただしい数の歪んだ幻影――牙を剥く獣、底なしの沼、燃え盛る家――が嵐のように渦巻いていた。
もう駄目だ、と思ったその時。
目の前に、あの鳥籠が固定された。それは今までで最も鮮明で、確かな存在感を放っていた。空から無数の『光の羽根』が降り注ぎ、次々と鳥籠の欠けた部分へと吸い込まれていく。欠損はみるみるうちに光で満たされ、鳥籠全体が眩い輝きを放ち始めた。その光は、周囲の崩壊の波を奇跡的に押し留めていた。
僕は、まるで何かに導かれるように、その光り輝く鳥籠に手を伸ばした。
第五章 忘れられた創造主の夢
指先が鳥籠に触れた瞬間、僕の意識は純白の光に飲み込まれた。
―――そして、すべてを理解した。
ここは、現実ではなかった。かつて、孤独に苛まれた一人の「創造主」が、「誰も傷つかず、永遠に穏やかな日常が続く世界」を願って創り上げた、精巧な仮想現実。
だが創造主は気づいてしまった。自らの存在――その揺れ動く感情や孤独こそが、この完璧な世界を不安定にさせる要因なのだと。だから創造主は、自らを世界から切り離す決断をした。己の存在と記憶、そして全ての感情をこの『欠けたガラスの鳥籠』に封印し、世界の礎としたのだ。
世界の感情の平均値の低下は、封印された創造主の記憶が永い時間の果てに風化し、世界を支える基盤そのものが失われつつあったために起きていた。
そして、僕は。
僕は、創造主が自らを封印する際に、世界にこぼれ落ちてしまった最後の『感情の欠片』だった。愛しさ、寂しさ、そして世界への未練。その欠片から生まれた不完全な存在。だからこそ、人々の心の断片が見え、世界の核である鳥籠を唯一認識できたのだ。
光の中で、栞さんの姿が浮かび上がった。彼女は、創造主が夢見た「理想の日常」そのものが具現化した存在。穏やかで、優しく、美しい世界の象徴だった。
第六章 選択の夜明け
意識がカフェに戻ると、崩壊はすぐそこまで迫っていた。完全に光で満たされた鳥籠が、僕の手の中で静かに脈打っている。
僕の脳裏に、二つの道が示された。
一つは、この鳥籠を我が身に取り込み、創造主の記憶と感情を完全に受け継ぐこと。僕が新たな「核」となり、世界の法則を再構築する。そうすれば、この崩壊は止まり、栞さんのいる穏やかな日常を守ることができる。だがそれは、永遠に続く美しい箱庭の中で生きることを意味する。
もう一つは、この鳥籠を解放すること。創造主の魂を永い眠りから解き放ち、この仮想現実を終わらせる。ここにいる人々を、彼らが忘れてしまったそれぞれの「本当の現実」へと還すことができる。しかし、それは僕自身の消滅を意味する。世界の礎の『欠片』である僕は、世界と共に消える運命だ。そして、栞さんとの、永遠の別れ。
僕は崩れゆく街並みと、静かに僕を見つめる栞さんを見た。彼女の瞳は、すべてを理解しているかのように、悲しいほどに澄んでいた。彼女は、僕の選択をただ静かに待っていた。
第七章 あなたの世界へ
僕はゆっくりと息を吐き、栞さんに向かって微笑んだ。
「君のいる日常は、本当に美しかった。温かくて、眩しくて……ずっとここにいたいと、本気で思ったよ」
僕の言葉に、彼女の瞳がかすかに揺れる。
「でも、これは檻の中の美しさじゃないはずだ。誰かが、心の底から生きたいと願った世界の輝きなんだ。だから、終わらせちゃいけない。……解放しなきゃ」
僕は決意を込めて、両手で持った鳥籠にそっと力を込めた。栞さんは何も言わず、ただ、涙を一筋だけ頬に伝わせた。
パリン、と澄んだ音が響いた。
ガラスの鳥籠は砕け散り、そこから解放された無数の光の羽根が、一斉に空へと舞い上がっていく。世界が、真っ白な光に塗り替えられていく。僕の身体も、足元から光の粒子となってはらはらと崩れていった。
薄れゆく視界の中で、最後に栞さんの姿が映った。彼女は涙を浮かべながらも、僕が初めて見るような、心の底からの穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ありがとう」
唇が、そう動いたように見えた。
―――どこかの、現実の街。雑踏の中、コートの襟を立てた一人の女性が、ふと足を止めて空を見上げた。
冷たい冬の空に、幻のように一瞬だけ、光り輝く鳥の羽根が舞い落ちていくのが見えた気がした。
なぜだろう。胸の奥に、知らないはずのカフェの温かい記憶と、誰かの優しい微笑みが、切ないほど鮮やかに灯った。彼女は小さく微笑むと、また雑踏の中へと歩き出した。その足取りは、ほんの少しだけ軽やかだった。