第一章 存在しない思い出の香り
柏木湊(かしわぎみなと)の日常は、古い紙とインクの匂いで満たされていた。彼の営む古書店『言の葉堂』は、大通りから一本入った路地の奥にひっそりと佇み、時間の流れがそこだけ緩やかになっているかのような錯覚を覚える場所だった。湊自身、その静寂を愛していた。というより、愛さざるを得なかった。彼には、ささやかな秘密があったからだ。
湊は、他人の強い感情が残した「香り」を嗅ぎ取ることができた。
それは比喩ではない。喜びは陽だまりで干した蜜柑の皮のように甘く、深い悲しみは雨に濡れた墓石の土のように重く冷たい。怒りは錆びた鉄を焼いたような刺激臭を放ち、純粋な好意は淹れたての緑茶のように心を落ち着かせる。この特異な嗅覚のせいで、感情が渦巻く人混みは彼にとって耐え難い拷問だった。だからこそ、過ぎ去った物語だけが静かに眠るこの古書店は、彼にとって唯一の聖域なのだ。
その日も、湊はカウンターの奥で、革の装丁が剥がれかけた植物図鑑の修繕をしていた。午後の柔らかな光が埃をきらきらと照らし、店内には古紙の乾いた香りが満ちている。心地よい静寂。しかし、それを破るように、ドアベルがちりん、と澄んだ音を立てた。
入ってきたのは、常連の老婦人、藤間千代さんだった。週に二、三度ふらりと現れては、窓際の一番奥にある肘掛け椅子に一時間ほど座り、文庫本を数ページめくっては、また静かに帰っていく。会話らしい会話はほとんど交わしたことがない。
「こんにちは」
「……いらっしゃいませ」
いつも通りの短い挨拶。千代さんは会釈をすると、ゆっくりとした足取りで定位置の椅子へと向かった。湊は彼女の邪魔をしないよう、再び手元の作業に意識を戻した。
だが、数分後、湊はふと顔を上げた。何かが違う。店内の空気に、これまで感じたことのない香りが混じっている。それは千代さんの座る椅子の方から漂ってきていた。
湊は慎重に鼻腔を広げ、その香りの正体を探った。それは、どの感情にも分類できなかった。甘くも、苦くも、辛くもない。あえて言うなら、それは「白檀(びゃくだん)の煙が薄れていく最後の瞬間の、微かな寂寥感」と、「真夏の夜にだけ咲くという、誰も見たことのない花の蜜」を混ぜ合わせたような、不思議な香りだった。懐かしさと、諦観と、そして決定的な何かの不在。まるで、誰かが「存在しなかったはずの思い出」を、そこに置いていったかのような香りだった。
湊の日常に、初めて解読不能な一文が投げ込まれた瞬間だった。これまで彼が知るどんな感情の香りとも異なるその匂いは、静かな水面に落ちた一滴のインクのように、彼の心をじわりと侵食し始めた。
第二章 老婦人と星屑の記憶
その日を境に、湊は藤間千代という存在を意識せずにはいられなくなった。彼女が店に訪れるたび、あの「存在しない思い出」の香りは、まるで彼女の影のように寄り添い、彼女が去ったあとの椅子に深く染み付いては、数時間かけてゆっくりと薄れていくのだった。
湊は、自身の能力を疎ましく思うことはあっても、それに興味を抱いたことはなかった。だが、この香りだけは違った。その正体を知りたいという衝動が、彼の内側で静かに育っていた。
ある雨の日、店に他の客は誰もいなかった。千代さんがいつもの椅子に腰を下ろし、窓の外を流れる雨粒をぼんやりと眺めている。その横顔は、上質な陶器のように静かで、どこか儚げだった。彼女の周りには、今日もあの不思議な香りが揺らめいている。
「……良い雨ですね」
気づけば、湊は自分から声をかけていた。普段の彼からは考えられない行動だった。千代さんは驚いたようにゆっくりと湊の方を向き、それからふわりと微笑んだ。
「ええ。主人が好きだったんです、雨の日の書斎の匂いが」
その一言が、固く閉ざされていた扉をそっと開いた。それから千代さんは、ぽつり、ぽつりと亡き夫の話を始めた。夫は大学で物理学を教えていたが、趣味で星を眺めるのが何よりも好きな人だったこと。二人で小さな天体望遠鏡を担いで、光の届かない山奥までよく出かけたこと。夫が見つけたいくつかの新星の話。
彼女が語る思い出話からは、甘い金木犀のような、温かく確かな「喜び」の香りがした。湊はそれを心地よく感じながらも、内心では混乱していた。彼女が語る幸せな記憶の香りと、彼女の椅子に常に残されている、あの掴みどころのない香りは、まったくの別物だったからだ。
「主人はね、自分だけの星座を作るのが夢だったんですよ」と千代さんは楽しそうに続けた。「夜空のどの地図にも載っていない、二人だけの星座をね。よくスケッチブックに、星を線で結んでは、おかしな名前をつけていましたわ」
彼女の言葉を聞きながら、湊はひとつの仮説にたどり着いた。あの香りは、あるいは、彼女の夫が遺したものなのではないか。今はもうこの世にいない人が遺した、強烈な思念の残り香。そうだとしたら、あの「不在感」にも説明がつく。
謎の輪郭が少しだけ見えた気がして、湊は安堵した。しかし、その安堵が、やがて来る嵐の前の静けさに過ぎないことを、彼はまだ知らなかった。彼の日常を根底から覆す「転」は、すぐそこまで迫っていた。
第三章 虚構に咲いた真実
数週間後の、風が強く吹く日だった。店のドアが勢いよく開き、息を切らした千代さんが駆け込んできた。その手には、古びて黄ばんだ大きな紙の筒が握られている。彼女の様子は明らかにいつもと違っていた。その全身から立ち上る香りは、混乱と、すがるような不安が混じり合った、湿った藁のような匂いだった。
「柏木さん、これ……これを見ていただけますか」
千代さんはカウンターに紙筒を置くと、震える手でそれを広げた。現れたのは、インクで描かれた一枚の精緻な星図だった。しかし、そこに描かれた星座のどれ一つとして、湊が見知ったものはなかった。ケンタウロスでも白鳥でもない、奇妙で、しかし不思議な魅力を持つ星座たちが、夜空を埋め尽くしている。
「主人が遺した、最後の星図なんです。ずっと大切に仕舞っていたんですが……今日、ふと気になって調べてみたら、こんな星、どこにも……どこにも存在しないんです」
彼女の声は悲痛だった。夫との思い出の象徴が、ただの空想の産物だったと知った衝撃は計り知れないだろう。湊は彼女を落ち着かせようとしながら、星図に鼻を近づけた。
その瞬間、息を呑んだ。
星図から放たれているのは、まさしく、あの香りだった。「存在しなかった思い出」の香り。しかも、これまで椅子に残っていたものとは比べ物にならないほど濃く、深く、鮮烈だった。やはり、この香りの源は彼女の夫、そしてこの星図なのだ。湊はそう確信した。
しかし、星図を仔細に眺めるうち、湊は微かな違和感に気づいた。インクで描かれた星々。その一つ一つの点が、単なる染みではないように見える。湊は書物の修繕に使う高倍率のルーペを取り出し、星の一つにレンズを合わせた。
そして、彼は自分の目を疑った。
それは、インクの点ではなかった。おびただしい数の、極小の文字の集合体だった。それはまるで、蟻の行列のように連なり、一つの星を形作っていた。湊は息を殺して、その文字を追った。
『もし、あの夜、あなたと出逢えなかったなら』
『もし、あの丘で、もう一度星を見ることができたなら』
『もし、病が彼の時間を奪わなかったなら』
それは、詩であり、祈りであり、そして叶わなかった願いのリストだった。星図全体が、無数の「もしも」という言葉で埋め尽くされていたのだ。
そして、その筆跡。湊は店の顧客名簿に書かれた千代さんのサインを思い出した。流麗で、右肩上がりの、特徴的な筆跡。この星図に書かれた文字は、紛れもなく、藤間千代、彼女自身のものだった。
雷に打たれたような衝撃が湊の全身を貫いた。この星図を描いたのは、彼女の夫ではなかった。夫を亡くした千代さん自身が、何年も、あるいは何十年もかけて、彼と共に見たかった未来、体験したかった思い出、語りたかった言葉を、星の形にして、この紙の上に綴っていたのだ。
彼女が語ってくれた夫との思い出は、どこまでが真実で、どこからが彼女の創り出した虚構だったのだろう。いや、彼女の中では、それらはとっくに境界を失い、分かち難く溶け合っていたのかもしれない。
あの香りの正体が、ついに分かった。それは悲しみでも喜びでもない。愛する人を失った人間が、その不在を埋めるために、記憶と願望を織り交ぜて創り出した「虚構」という名の感情。切なく、儚く、しかし何よりも純粋で美しい、魂の香りだったのだ。感情は、必ずしも事実に根差すものではない。湊の世界観が、ガラガラと音を立てて崩れていく。彼は、ただ呆然と、無数の「もしも」が輝く偽りの夜空を見つめていた。
第四章 未来の星図
真実を知ってしまった湊は、言葉を失った。目の前で不安げに彼を見つめる千代さんに、何と伝えればいいのか。あなたの夫が遺したものではなく、あなた自身が無意識に創り上げた、悲しい願望の塊なのですよ、と?それはあまりにも残酷だ。彼女が長年かけて築き上げてきた、心の最後の砦を、自分の手で破壊するようなものだ。
湊は数秒間、思考を巡らせた。彼の嗅覚は、常に感情の「結果」だけを伝えてきた。だが今、彼は初めて、これから生まれる感情の「原因」を作ろうとしていた。
彼はゆっくりと顔を上げ、努めて穏やかな声で言った。
「千代さん、旦那様は……未来を見ていたのかもしれません」
「え……?」
「この星図、少しお預かりしてもよろしいですか。心当たりがあるんです」
怪訝な顔をする千代さんをなんとか説得し、湊はその夜、店を閉めたあと、書庫の奥深くへと分け入った。天文学の専門書、古い星図、最新の宇宙写真を掲載した洋書。彼は何時間もかけて、ある一つのイメージを探し続けた。
翌日の午後、再び千代さんが店を訪れた。湊は彼女をカウンターに招き、一冊の大きな写真集を開いて見せた。そこに写っていたのは、ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた、遥か彼方の銀河系の写真だった。無数の星々が渦を巻き、壮大な光景を作り出している。
「これを見てください」と湊は言った。「この部分……星の並びが、あなたの星図に少し似ていませんか?」
湊が指差した先には、千代さんの星図に描かれた奇妙な星座と、どことなく配置が似ている星の集まりがあった。もちろん、偶然に過ぎない。こじつけと言われればそれまでだ。
「これは、まだ私たちの銀河系からはっきりと観測できない、遠い場所です。もしかしたら、物理学者だった旦那様は、理論の先に、我々がまだ知らない、こんな未来の星空を見ていたのかもしれません。これは、過去の思い出の地図ではなく、これから誰かが見つけるであろう、未来の星図なんですよ」
湊の言葉を、千代さんはじっと聞いていた。彼女の瞳が潤み、やがて一筋の涙が皺の刻まれた頬を伝った。それは絶望の涙ではなかった。
「そう……そうだったのね。あの人は、私を置いていったんじゃなくて……未来で待っていてくれるのね」
彼女は、心の底から安堵したように、そう呟いて微笑んだ。それは、長い旅を終えた旅人のような、穏やかで、澄みきった笑顔だった。
千代さんが帰ったあと、湊は一人、店に残った。彼女が座っていた椅子からは、もうあの「存在しない思い出」の香りはしなかった。代わりに、そこには、雨が上がったあとの森の、若葉が放つような、新しくて清々しい香りが、微かに漂っていた。それは、小さな「希望」の香りだった。
湊は、窓の外を眺めた。路地を行き交う人々。彼らからも、様々な感情の香りが立ち上っている。これまで厄介なだけだと思っていた無数の香りが、今は一つ一つ、かけがえのない物語の断片のように感じられた。
世界は、目に見えるものだけで出来ているわけじゃない。人々の心の中には、真実と虚構、過去と未来が混じり合った、自分だけの星空が広がっている。そして、そのか弱くも美しい輝きを、自分はほんの少しだけ、感じ取ることができる。
湊は、静かに息を吸い込んだ。街の香りは、相変わらず複雑で、混沌としていた。だが、その香りはもはや、彼にとって苦痛ではなかった。それは、彼がこれから読み解いていくべき、無数の物語の、始まりの匂いがした。彼の日常は、何も変わらないようでいて、その色彩と深度を、決定的に変えたのだった。