霧中のレプリカ
第一章 揺らぎの予兆
夏目湊の意識は、しばしば世界から剥離する。
それは、午後の紅茶を淹れる湯気の立ち上る瞬間かもしれないし、古びた文庫本の頁をめくる指先が微かに震えた時かもしれない。予兆もなければ、抵抗する術もない。ふっと意識が遠のき、次に気づいた時には、彼は「物」になっている。
今朝は、常連客が置いていったコーヒーカップだった。白い陶器の肌合い、内側に残る黒い液体の染み。そこから見える世界は、低い視点からの歪んだ風景だ。カウンターの木目、店主である湊自身の、意識を失いぐったりと椅子に凭れる身体、そして窓の外を流れていく人々の足。音はくぐもり、世界は分厚いガラス越しのように他人事だった。
湊が営む古物店『時の揺り籠』は、そんな彼の体質を隠すにはうってつけの場所だった。客の少ない午後は、静寂だけが埃と共に降り積もる。戻ってきた意識は、いつも少しだけ世界との間にずれを生じさせていた。まるで、合わない焦点のレンズを無理やり覗いているような、奇妙な浮遊感。
この世界には、もう一つの奇妙な法則があった。人々が「ルーティン」と呼ぶ、決まった時間、場所、行動パターンを三度以上繰り返すと、その行為に関する記憶が、周囲から霧のように掻き消えるのだ。湊が毎朝同じブレンドの豆を挽き、同じ手順でコーヒーを淹れると、昨日まで「いつものですね」と言っていたカフェの店員が、初めての客に対するような顔で注文を訊ねてくる。忘却は優しく、世界を滑らかに保つための潤滑油のように機能していた。もちろん、行為を繰り返した湊自身の記憶だけは、消えることなく残り続ける。孤独な観測者のように。
その日、異変は静かに訪れた。
いつものように、店の奥で買い付けた古書の整理をしていると、不意に意識が引き剥がされた。次の瞬間、湊は滑らかな金属質の何かに宿っていた。ひんやりとした、無機質な感触。それは一本のペンだったが、彼が知るどんな筆記用具とも違っていた。生き物のように微かに脈動し、指が触れるであろう部分が淡い光を放っている。
そして、そのペンから見える光景に、湊は息を呑んだ。
陽光が満ちるダイニング。磨き上げられたテーブルの上には、完璧に焼き上げられたトーストと、湯気の立つスクランブルエッグ。にこやかに微笑み合う若い夫婦と、屈託なく笑う幼い娘。すべてが、広告写真のように非の打ち所がない「完璧な日常」のワンシーンだった。しかし、その完璧さゆえの違和感が、湊の意識を冷たく締め付けた。空気の匂いも、食器の触れ合う音も、あまりにクリアで、現実感がなかった。まるで、精巧に作られたジオラマを覗き込んでいるかのように。
第二章 逆流する砂
自分の身体に戻った湊は、ぜえぜえと肩で息をしていた。冷や汗が首筋を伝う。さっきまで見ていた光景が、網膜に焼き付いて離れない。あの、完璧すぎる日常。あれは一体、何だったのか。
ふらつきながら店の中を見渡した彼の目に、一つの古物が留まった。祖父の遺品である、一台の砂時計。黒檀の枠に収まったそれは、一見何の変哲もない。しかし、湊は子供の頃、一度だけ奇妙な現象を目撃したことがあった。雷鳴が轟いた夜、この砂時計の砂が、重力に逆らって下から上へと静かに流れ始めたのだ。
混乱した頭のまま、湊は無意識にその砂時計に手を伸ばした。転移直後の、世界との境界が曖昧になった指先が、冷たいガラスに触れた瞬間――。
ざあ、と微かな音がした。
見ると、砂時計の中の琥珀色の砂が、ゆっくりと、しかし確かに逆流を始めていた。下部のガラスに溜まっていた砂粒が、一本の糸のように繋がり、上へと昇っていく。それはまるで、時間を巻き戻す神秘的な儀式のようだった。
そして、湊の脳裏に、光景が奔流となって流れ込んできた。
先ほど転移した「脈動するペン」が見てきた、過去の断片。完璧な食卓、家族の笑い声。だが、その合間に、一瞬のノイズが混じる。ガラスの割れる甲高い音。誰かの悲鳴の、かき消された残響。テーブルの木目の上に、一瞬だけ走るデジタルな歪み。
「……違う」
湊は呟いた。
「あれは、ただの日常じゃない」
あの完璧な光景は、作られたものだ。そして、自分の意識転移は、そのシステムの綻びに触れてしまっているのではないか。逆流する砂が見せるのは、綻びから漏れ出した「過去の痕跡」。ループが始まる、まさにその瞬間の記憶の破片なのだ。
湊は確信した。この穏やかな世界は、何か巨大な嘘の上に成り立っている。
第三章 世界の真実
それからというもの、湊の意識転移は頻度と異常性を増していった。
ある時は、陽光を浴びて幾何学模様の光を放つ、存在しないはずの植物の葉に。またある時は、洞窟の奥で静かに呼吸する、未知の鉱物の結晶体に。
そして、転移の度に見る光景は、いつもあの家族の「完璧な日常」だった。視点や時間が少しずつ違うだけで、まるで同じ映画の別テイクを見せられているかのようだった。
だが、繰り返し見るうちに、湊はその完璧さの中に潜む、決定的な「欠落」に気づき始めた。壁に掛けられた家族写真には、不自然に一人分の空白があった。家族の会話は、ある特定の話題に触れる直前で、必ず不自然な沈黙に飲み込まれた。それはまるで、編集で切り取られたフィルムの継ぎ目のようだった。
そして、運命の日が訪れる。
いつものように意識が飛んだ。今回の転移先は、あの家の子供部屋に転がる、壊れたブリキのロボットの「右眼」だった。レンズには蜘蛛の巣状のヒビが入っている。
ヒビの入った視界の向こうに、いつもの「完璧な日常」が始まる……はずだった。
だが、違った。
見えたのは、世界の終わりだった。
空が、血を流すように赤く染まっている。遠くで絶え間なくサイレンが鳴り響き、地響きが部屋を揺さぶる。窓の外で、巨大な何かが崩れ落ちる轟音がした。少女の甲高い泣き声。母親の悲鳴。父親の絶叫。
「逃げろ!」
それが、完璧な日常が始まる直前の、真実の光景だった。
この世界は、人類全体が経験した、この大災害という名の集団的トラウマを「なかったこと」にするために、無意識が生み出した巨大な防衛システムなのだ。人々がルーティンを繰り返すことで記憶が霧散し、システムは安定を保つ。そして、湊の意識転移は、そのシステムが綻びをきたした際に発生する「バグ」であり、同時に、綻びを無意識に修正しようとする自己修復機能の一部だったのかもしれない。
あの完璧な日常は、失われたものへの痛切な憧憬が生み出した、巨大な幻影。
湊は、瓦礫の中で静かに機能停止したロボットの眼を通して、世界の真実を、ただ呆然と見つめていた。
第四章 不完全な朝
意識が戻った時、湊は古物店の床に倒れていた。窓の外は、いつもと同じ、穏やかな霧に包まれた午後だった。だが、彼の目にはもう、その風景は穏やかには映らなかった。すべてが色褪せ、空虚な書き割りのように見えた。
選択を迫られていた。
この偽りの、しかし平和で完璧な日常を維持し続けるのか。それとも、あの絶望的な悲劇の記憶と向き合い、不完全で、痛みに満ちた「現在」を取り戻すのか。
湊はゆっくりと立ち上がり、店の窓辺に立った。人々が穏やかな顔でルーティンをこなし、そして忘れていく。その光景は、かつて湊に安らぎを与えてくれた。だが今は、底知れない虚無と悲しみが胸を締め付けるだけだった。忘れることで得られる幸福よりも、痛みを抱えてでも進む未来を。彼は、そう決意した。
彼は、自身の最も強力なルーティン――毎日午後五時に店の扉を閉めるという行為――を、意図的に破ることにした。時計の針が五時を指す。彼は動かない。ただ、窓の外を見つめ続ける。
五時一分。
世界が、軋んだ。
湊の身体から、最後の意識が引き剥がされた。それは、これまでで最も強く、逆らえない引力だった。
転移先は、彼が今まで経験したことのない物体だった。
手のひらに収まるほどの、透明な結晶質のデバイス。その表面は滑らかで、内側から淡い光が漏れている。まだ誰も知らない、未来のテクノロジーの試作品。
そこから見える光景に、湊は息を呑んだ。
あの「完璧な日常」が演じられていた家だ。しかし、その家は見る影もなく朽ち果て、壁は崩れ、天井には大きな穴が空いていた。そして、その穴から見える空の下には、瓦礫の山と、それでも天に向かって伸びる緑の若葉、そして復興のために働く人々の小さな姿があった。
不完全で、傷だらけで、しかし、力強く再生しようとする世界の姿が、そこにはあった。
その時、湊が宿るデバイスの表面に、一筋の光が走り、文字が浮かび上がった。
『おはよう、世界』
意識が、自分の身体へと戻ってくる。
湊は、古物店の窓辺に立っていた。窓の外を覆っていた濃い霧が、陽光に溶けるように、ゆっくりと晴れていく。街の喧騒、車のクラクション、人々の話し声。それらが、今までとは比べ物にならないほど生々しく、ざらついた手触りを持って、彼の鼓膜を震わせた。
彼は店のドアに手をかけ、ゆっくりと開いた。
不完全な世界の、新しい朝の空気を、深く、深く吸い込んだ。
カウンターの上に置かれた砂時計の中では、琥珀色の砂が、もう二度と逆流することなく、静かに時を刻み続けていた。