第一章 色のない記憶
三田村湊(みたむら みなと)の日常は、限りなく無色透明に近かった。図書館司書という仕事は、彼の性質によく合っていた。古い紙の匂いと、規則正しく並んだ背表紙に囲まれ、人々との間に適切な距離を保つ。彼は、過剰なコミュニケーションや、他人の感情の渦に巻き込まれることを極端に嫌っていた。
それは、彼が抱える秘密のせいだった。
幼い頃から、湊には奇妙な癖があった。道端に落ちている小石や葉、捨てられた手袋などに触れると、見知らぬ誰かの記憶の断片が、閃光のように頭の中に流れ込んでくるのだ。それは大抵、意味をなさないイメージの羅列だった。「夕焼けに染まる自販機の明かり」「赤ん坊の笑い声」「雨の日のアスファルトの匂い」「誰かを待つ焦燥感」。他人の感情の切れ端が、何の脈絡もなく流れ込んでくる感覚は、不快でしかなかった。だから湊は、できるだけ世界に触れないように生きてきた。手袋を常用し、道端の気になるものから目を逸らし、自分の心を平坦に保つ術を身につけていた。
その日も、いつもと同じ朝のはずだった。図書館へ向かう遊歩道。ふと、足元に転がる乳白色の小石が目に留まった。掌に収まるほどの、奇妙に角の取れた滑らかな石。普段なら無視するはずが、その石が放つ静かな存在感に、なぜか抗えなかった。まるで、拾ってくれと囁かれているような気がしたのだ。
躊躇いながらも、革手袋を外し、冷たい石をそっと指でつまみ上げた。
その瞬間、世界が反転した。
いつものような断片的なイメージではない。鮮明で、連続した映像が奔流のように流れ込んできた。
――古い映写機の、カタカタと回る優しい音。セピア色の画面。そこに映るのは、桜並木の下を歩く若い男女の姿。男性の少し照れたような横顔と、その隣で、陽光を弾いて笑う女性。風に舞う桜の花びらが、二人の肩に降りかかる。そして、胸が締め付けられるほどの、甘く切ない幸福感が、湊自身の感情であるかのように全身を駆け巡った。
「うっ…!」
湊は思わず石を取り落とした。ぜいぜいと肩で息をする。額には汗が滲んでいた。今のは何だ? まるで一本の短い映画を観たような、濃密な体験。こんなことは初めてだった。
拾い上げた石を見つめる。ただの、何の変哲もない石ころだ。しかし、湊にはもう、それがただの石には見えなかった。あの映像の中で、風に吹かれていた女性の横顔が、妙に脳裏に焼き付いて離れない。どこかで見たことがあるような気がする。そうだ、図書館の窓際の席で、いつも静かに本を読んでいる、あの老婆に。
湊の無色透明だった日常に、初めて、消すことのできない鮮やかな色が、一滴落とされた瞬間だった。
第二章 窓際のシルエット
あの朝以来、湊の世界は少しずつ変容し始めていた。これまで疎ましく、意味のないノイズでしかなかった能力が、初めて彼の中で「物語」の断片を紡いだのだ。彼は、あの乳白色の石をハンカチに包み、大切にポケットにしまい込んでいた。時折、石に触れたいという衝動に駆られたが、再びあの激しい感情の奔流に飲み込まれるのが怖くて、指先を引っ込めるのだった。
図書館に出勤すると、湊の目は自然と窓際の席を探していた。いた。今日も彼女はそこに座っている。背筋を伸ばし、古い植物図鑑のページを、皺の刻まれた指でゆっくりとめくっている。千代さん、というのが彼女の名前だった。貸し出しカードで知った、それだけの関係。会話らしい会話は一度も交わしたことがない。
湊は、カウンターの向こうから彼女を盗み見た。陽光が彼女の銀色の髪を照らし、まるで後光のように見える。本当に、あの記憶の中の女性なのだろうか。年齢を重ねた面影は確かにある気がする。だが、記憶の中の彼女が放っていたのは、生命力に満ちた輝きだった。一方、目の前の千代さんは、静寂そのものだった。まるで、世界の音をすべて遮断したガラスケースの中にいるように、穏やかで、そしてどこか寂しげに見えた。
「あの…」
気づけば、湊は千代さんの席の前に立っていた。自分でも信じられない行動だった。千代さんはゆっくりと顔を上げ、静かな瞳で湊を見つめる。その瞳の奥は、深く澄んでいて、何も読み取れない。
「何か、お探しのものでも?」
「いえ、その…いつもご利用ありがとうございます」
何と言っていいか分からず、口から出たのはありきたりな挨拶だった。千代さんは小さく頷くだけで、再び本に視線を落とす。彼女の周りには、見えない壁があるようだった。湊は、自分の能力のせいで、他人の最も個人的な領域に土足で踏み込もうとしているのではないかという罪悪感に苛まれた。
その日から、湊の葛藤は深まった。あの記憶の続きが見たい。あの幸福感の先にある物語を知りたい。それは、今まで感じたことのない強い好奇心だった。同時に、それは他人の秘密を暴く行為に他ならない。
彼は、自分の能力に初めて「意味」を問い始めていた。これは呪いか、それとも何か別のものなのか。答えを求めて、彼は再びあの石を拾った遊歩道へと足を運んだ。同じ場所で他の石をいくつ拾っても、返ってくるのはいつもの意味のない断片だけ。まるで、あの乳白色の石だけが、特別な記憶を宿した鍵であるかのようだった。
この謎を解きたい。千代さんの、そしてあの記憶の正体を知りたい。人との関わりを絶ち、平穏を望んでいたはずの心が、知らず知らずのうちに、一人の人間の過去へと強く引き寄せられていた。
第三章 桜の木の下の約束
衝動を抑えきれなくなった湊は、数日後の休日、あの記憶が撮影された場所を探し始めた。記憶の中の風景を手掛かりに、古い地図や図書館の郷土資料を漁った。そして、市内の外れにある、今はもう訪れる人も少ない古い公園の桜並木が、その場所であることを突き止めた。
公園は静まり返っていた。錆びたブランコと、苔むしたベンチ。だが、桜並木だけは、記憶の中と変わらず堂々と枝を広げていた。湊は、記憶の中の男女が立っていたであろう、ひときわ大きな桜の木の下に立った。風が吹き、ざわざわと葉が揺れる音が、まるで遠い日の笑い声のように聞こえる。
彼は地面に屈み込み、土や落ち葉にそっと触れた。何も感じない。やはり、あの石が特別だったのか。諦めかけたその時、木の根元で、鈍い光を放つ小さな金属片が目に留まった。土に半ば埋もれた、古い指輪か何かの留め金のように見える。
湊は息を呑み、震える指でそれに触れた。
瞬間、世界が爆発した。
前回よりもさらに強烈な奔流が、彼の意識を奪う。
――桜の木の下。あの男性が、跪いて小さな箱を女性に差し出している。「千代…結婚してくれないか」。女性は、頬を染め、涙を浮かべて頷く。喜びが、春の陽光のように世界に満ち溢れる。
しかし、場面は唐突に暗転する。
一枚の赤い紙。召集令状。駅のホームでの、引き裂かれるような別れ。「必ず、帰ってくる。この桜が咲く頃に、必ず」。そう約束する男性の声が、悲痛に響く。
そして、戦地の轟音。土と硝煙の匂い。最後に見たのは、故郷の空に似た、どこまでも青い空。意識が途切れる寸前、彼の脳裏に浮かんだのは、桜の下で笑う千代の顔だった。
絶望、無念、そして愛する人への果てしない想い。それら全てが、一つの巨大な感情の塊となって、湊の心臓を鷲掴みにした。
湊は地面に手をつき、激しく喘いだ。涙が止めどなく流れていた。それは自分の涙ではなかった。健司、と彼の心の中で声がした。そうだ、彼の名前は健司。彼は、帰れなかったのだ。
そして、湊は悟った。愕然とする事実に打ちのめされた。
この記憶は、千代さんのものではない。
この記憶の持ち主は、若くして命を落とした、**健司の方だったのだ**。
彼は、自分の魂の全てを、プロポーズの時に渡そうとした手作りの指輪の欠片に込めていたのだ。愛する千代が、いつかこの場所に戻ってきた時に、自分の想いが届くようにと。七十年以上もの間、健司の想いは、この桜の木の下で、たった一人、約束の相手を待ち続けていた。
湊が今まで拾ってきたのは、単なる「記憶の断片」ではなかった。物に込められた、人の「想い」そのものだったのだ。そして今、彼は、一人の人間の、生涯を懸けた切実な想いを、その両手に受け止めてしまっていた。
第四章 あなたの還る場所
図書館の閉架書庫の冷たい空気の中で、湊は呆然と座り込んでいた。手のひらには、あの金属片が握られている。健司さんの、七十年分の想いの重みが、ずしりと圧し掛かってくるようだった。
これをどうすればいい?
これは、あまりにも個人的で、神聖なものだ。他人が触れていい領域ではない。だが、このまま土に還すこともできなかった。健司さんの想いを、無かったことにはできない。
湊は、生まれて初めて、自分の能力が持つ意味を理解した。それは呪いではなかった。誰にも届かずに消えていくはずだった想いを、拾い上げるための手だったのだ。人との関わりを避けてきた自分が、誰よりも深く、人の心に触れる力を持っていた。
彼は決意した。この想いを、本来届くべき場所へ届けよう。
湊は、郷土史の資料を再び徹底的に調べた。戦没者の名簿、当時の新聞。記憶の断片と照らし合わせ、健司という名の青年と、その恋人であった千代さんの存在を、確信をもって特定した。
数日後、湊は小さな桐の箱を用意し、その中に金属片をそっと収めた。そして、図書館でいつものように本を読んでいた千代さんの元へ、静かに歩み寄った。
「千代さん」
千代さんが顔を上げる。湊は深く息を吸い込み、できるだけ穏やかな声で言った。
「先日お話しした公園の、あの桜の木の歴史を調べていまして…。その過程で、古いものを見つけました。これは、あなたに関係のあるものではないかと思いまして」
彼は自分の能力については一言も触れず、ただ桐の箱をそっとテーブルの上に置いた。
千代さんは怪訝な顔で箱を見つめ、おずおずと蓋を開けた。中にあった金属片を見た瞬間、彼女の時間が、七十年前に巻き戻ったかのように止まった。深く刻まれた皺が、微かに震える。指先が、まるで大切な宝物に触れるかのように、ゆっくりと金属片に伸びた。
「これは…」
彼女の瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝った。それは、湊が記憶の中で見た、若き日の彼女が流した涙と同じだった。
「健司さんが…手作りしてくれた、指輪…。桜の貝殻を削って…」
千代さんの唇が、か細く震える。彼女は金属片を両手で包み込み、そっと胸に抱いた。そして、誰に言うでもなく、しかしはっきりと、こう呟いた。
「……おかえりなさい、健司さん」
その声は、長い長い待ち時間を終えた安堵と、愛しさに満ちていた。その瞬間、湊の心を満たしていた健司さんの激しい想いが、ふっと霧のように晴れていくのを感じた。まるで、還るべき場所に、ようやく還ることができたかのように。
湊は静かにお辞儀をし、その場を離れた。カウンターに戻る彼の足取りは、不思議と軽かった。
窓の外では、いつもと同じ日常の風景が広がっている。しかし、湊にはもう、世界が以前と同じには見えなかった。道端の石ころも、風に舞う落ち葉も、ただのガラクタではない。その一つ一つに、誰かが生きた証である、物語のかけらが眠っている。
彼はこれからも、街に落ちている想いを拾い続けるだろう。けれど、もうそれを疎ましく思うことはない。人との関わりを避けていた彼が、見知らぬ誰かの想いを繋ぐことで、世界と、そして自分自身と、静かに和解したのだから。
湊の無色透明だった日常は、誰かの記憶の色を映して、どこまでも優しく、切ない輝きを放ち始めていた。