第一章 赤い手袋とアスファルトの染み
柏木湊(かしわぎ みなと)の一日は、地面を見つめることから始まる。通勤のためにアパートのドアを開け、階段を下り、アスファルトの道に出る。そこから古書店までの十五分間、彼の視線はほとんど上を向くことがない。人々が気にも留めないガムの痕、ひび割れたタイルの模様、風に運ばれてきた枯れ葉。それらすべてが、彼にとっては地雷原の標識のようなものだった。彼は探しているのではない。避けているのだ。道に落ちている、あらゆる「忘れ物」を。
湊には、生まれつきの厄介な癖があった。他人の忘れ物に触れると、その持ち主が「忘れたい」と強く願った記憶の断片が、奔流となって流れ込んでくるのだ。それは共感などという生易しいものではない。痛み、後悔、怒り、羞恥。持ち主の最も生々しい感情が、彼の精神を無遠慮に侵食する。だから湊は、決して地面から物を拾わない。手袋、ハンカチ、傘、片方だけのイヤリング。それらはすべて、誰かの心の叫びが物質化した呪いのアイテムに他ならなかった。
その日の朝は、冷たい雨が降っていた。古びたビニール傘が、灰色の空と湊との間に頼りない境界線を作っている。いつものように視線を落として歩いていると、ふと、目に飛び込んできた色があった。水たまりの縁に、鮮やかな赤い毛糸の手袋が片方だけ落ちている。雨に濡れて、その赤は血のように濃く、不吉なほど美しかった。
普段の彼なら、数歩迂回して通り過ぎるはずだった。だが、その日に限って、何故か目が離せなかった。まるで手袋が、声なく彼を呼んでいるように感じられた。魔が差した、としか言いようがない。彼は周囲に誰もいないことを確認すると、そっと屈み、躊躇いがちに指先を伸ばした。
湿った毛糸の感触が指に伝わった瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
視界がホワイトアウトし、耳の奥で甲高い女の叫び声が木霊する。「どうして分かってくれないの!」。知らない部屋の風景。テーブルの上には冷めた料理。目の前には、顔の見えない男のシルエット。「もう、あなたのことなんて忘れたい!」。その絶叫と共に、赤い手袋が窓から投げ捨てられる。ガラスに叩きつけられる雨粒。頬を伝う熱い涙の感覚。絶望と、愛情の燃えカスのような激しい怒り。
「うっ…!」
湊は喘ぎながら手袋を離し、その場にうずくまった。心臓が激しく脈打ち、冷や汗が背中を伝う。他人の記憶の残滓が、まだ頭の中で渦を巻いている。雨音が遠くに聞こえる。アスファルトの冷たさが、ズボンの生地を通してじわりと伝わってきた。
また、やってしまった。
彼は濡れた赤い手袋を、まるで汚物でも扱うかのようにティッシュで包み、鞄の奥深くに押し込んだ。立ち上がると、世界は元の灰色の日常に戻っていた。しかし、湊の心には、見知らぬ誰かの痛みが、新たな染みとなって深く刻み込まれていた。
第二章 沈黙の引き出しと陽だまりの客
湊が働く『夕凪古書店』は、時間の流れが止まったような場所だ。古い紙とインクの匂いが満ち、埃っぽさの中にどこか落ち着く静寂がある。彼はカウンターの奥にある自分の机の引き出しをそっと開けた。中には、今日拾ってしまった赤い手袋の他に、いくつかの「忘れ物」が眠っている。インクの出なくなった万年筆、色褪せた絹のリボン、欠けた貝殻のブローチ。それぞれが、彼が過去にうっかり触れてしまった、誰かの痛みの標本だった。捨てることもできず、かといって持ち主を探す気にもなれず、ただ引き出しの闇の中で沈黙させている。それが、彼なりの世界との距離の取り方だった。
その日も、彼は書棚の整理をしながら、静かな午後の時間をやり過ごしていた。カラン、とドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。ショートカットの髪が快活な印象を与える、太陽のような人だった。
「こんにちは。ちょっと、探している本があるんですけど」
彼女はそう言うと、一枚のメモを差し出した。そこに書かれていたのは、絶版になって久しい、マイナーな作家の絵本だった。
「藤宮陽菜(ふじみや ひな)です」と彼女は名乗った。
在庫を調べたが、残念ながらその絵本は店になかった。湊がそれを伝えると、陽菜は少し残念そうな顔をしたが、すぐに「そっかぁ。また探しに来ますね」と明るく笑った。
それから、陽菜は週に二、三度、店を訪れるようになった。絵本を探すという名目だったが、彼女は店にある他の本を眺めたり、湊に他愛ない質問をしたりして、しばらくの時間を過ごしていくのが常だった。湊は、彼女の屈託のなさに戸惑いながらも、その存在が店の空気を少しだけ温かくすることに気づいていた。陽だまりが、埃っぽい店内に差し込むような感覚。
しかし、彼女と親しくなればなるほど、湊は恐ろしくなった。もし、この人が自分の秘密を知ったらどう思うだろう。他人の心を覗き見るような、気味の悪い能力を持つ男だと知ったら、きっと軽蔑するに違いない。そう思うと、彼は無意識に壁を作った。言葉は少なく、視線は合わせない。陽菜が微笑みかけるほどに、彼は自分の殻に深く閉じこもっていった。
ある日、陽菜がカウンターに一冊の文庫本を持ってきた。
「この本、面白いですよ。柏木さんも、読んでみたらどうですか?」
「…僕は、あまり物語は」
「え、古本屋さんの店員さんなのに?」
「仕事ですから。人の物語より、自分のことで精一杯なので」
冷たく響いた自分の言葉に、湊自身が傷ついていた。陽菜は一瞬、目を丸くしたが、やがて何かを察したように、ふっと柔らかく微笑んだ。
「そっか。…でも、誰かの物語が、自分の助けになることもあるかも、ですよ」
彼女はそう言って本を買い、店を出ていった。残された湊は、彼女の言葉を反芻しながら、重い溜息をついた。助けになる物語なんて、あるものか。他人の物語は、彼にとって苦痛の源でしかないのだから。彼は再び、沈黙の引き出しに視線を落とした。
第三章 ビー玉に封じた追憶
変化は、予期せぬ場所から訪れた。店の奥にある、開かずの物置を整理していた時のことだ。そこは、数年前に亡くなった祖父の遺品が、手つかずのまま眠っている場所だった。祖父もまた、この古書店の主だった。埃をかぶった段ボール箱を動かすと、その下に小さな桐の箱があるのが見えた。蓋を開けると、中には古びた懐中時計、セピア色の一枚の写真、そして――湊の心臓を鷲掴みにするような、見覚えのあるものが入っていた。
それは、深い海の青を閉じ込めたような、ガラスのビー玉だった。
湊が幼い頃、何よりも大切にしていた宝物。そして、いつの間にか失くしてしまった、思い出の品。なぜ、こんなところに。震える指で、彼はそっとビー玉を摘み上げた。
その瞬間、世界が反転した。
それは、他人の記憶ではなかった。流れ込んできたのは、湊自身が固く蓋をし、忘却の彼方に葬り去ったはずの、自分自身の記憶だった。
土砂降りの雨。車のヘッドライトが乱反射する濡れた路面。鋭いブレーキ音と、金属が引き裂かれるような衝撃音。助手席にいた母の悲鳴。運転席で自分をかばおうとする父の腕。そして、すべてが終わった後の、恐ろしいほどの静寂。割れたフロントガラスの向こう、遠ざかっていく救急車の赤い光を見つめながら、幼い彼は固く拳を握りしめていた。その手の中に、このビー玉があった。
『忘れたい。こんなこと、全部忘れてしまいたい』
小さな心の、絶望的な叫び。それは、彼がこれまで体験したどの記憶よりも、深く、鋭く、彼の胸を貫いた。彼は、交通事故で両親を一度に亡くしていた。そのショックで、事故前後の記憶が曖昧になっていたが、それは記憶喪失などではなかった。彼自身の能力が、彼自身の耐え難い記憶を「忘れ物」として封じ込めていたのだ。
涙が溢れて止まらなかった。呆然としながら、彼は次に、箱に入っていた懐中時計に手を伸ばした。
今度は、温かい記憶が流れ込んできた。それは、祖父の記憶だった。事故後、一人残された幼い湊を引き取った祖父。夜中にうなされる孫の背中をさすりながら、悲しみに満ちた顔で呟く声が聞こえる。
『湊、この力はお前にはまだ重すぎる。この痛みは、お前が自分の足でしっかりと立てるようになるまで、じいじが預かっておこう』
祖父は、湊の枕元に転がっていたビー玉を、そっと拾い上げていた。祖父もまた、湊と同じ能力を持っていたのだ。彼は、孫が自ら封じ込めた記憶を、このビー玉という「忘れ物」に移し替え、自分の力で大切に保管してくれていた。それは呪いなどではなかった。深い愛情と、孫を想う祈りそのものだった。
湊は、桐の箱を抱きしめて泣いた。忘れていたのは、事故の記憶だけではなかった。自分は一人ぼっちではなかったこと。誰よりも深く、自分を愛し、守ってくれていた存在がいたこと。その温かい記憶さえも、彼は忘れてしまっていたのだ。
自分の能力は、呪いではないのかもしれない。誰かの痛みを一時的に「預かる」ための、不器用で、けれど優しい力なのかもしれない。湊は、初めて自分の宿命と向き合う覚悟を決めた。
第四章 忘れ物は、明日への道標
翌日から、柏木湊は少しだけ変わった。通勤の道すがら、彼は時折、空を見上げるようになった。雲の流れや、電線にとまる鳥の姿が、やけに新鮮に目に映った。地面に落ちた忘れ物を、もう地雷のように恐れてはいない。それらはただ、誰かの物語の、小さな栞のようなものに見えた。
彼は、意を決して机の引き出しを開け、あの赤い手袋を取り出した。手袋から感じた記憶の断片――窓から投げ捨てられた光景、冷めた料理、女性の悲痛な叫び。それを手がかりに、彼は持ち主を探し始めた。店が休みの日に、記憶の風景に似た場所を探して歩いた。公園のベンチ、川沿いのカフェ。それは、途方もない作業だった。しかし、彼の心は不思議と穏やかだった。
数日後、川沿いの遊歩道を歩いていた時だった。ベンチに一人座って、川面を眺めている女性がいた。湊が見た記憶の中の横顔と、驚くほどよく似ていた。彼は心臓が跳ねるのを感じた。声をかけるべきか。何を言えばいい?
結局、彼は何も言わなかった。ただ、女性が席を立った後、そのベンチにそっと赤い手袋を置いた。忘れたいと願った記憶を、無理に返す必要はない。ただ、失くしたものが、あるべき場所に戻るように。持ち主がそれを見つけた時、過去を乗り越え、新しい一歩を踏み出すための、小さなきっかけになればいい。彼はそう思えるようになっていた。
店に戻ると、カウンターの前で陽菜が待っていた。彼女は満面の笑みで、一冊の絵本を掲げて見せた。
「見つけたんです!別の古本屋さんで、偶然!」
それは、彼女がずっと探していた絵本だった。
「よかったですね」
湊は、心の底からそう言った。以前のような棘も、壁もなかった。ただ、穏やかな祝福の気持ちがそこにはあった。
陽菜は、そんな湊の顔をじっと見つめ、悪戯っぽく笑った。
「柏木さんも、何か見つかったみたいですね。探してた本とか?」
湊は、彼女の洞察力に少し驚きながら、静かに首を横に振った。
「本じゃありません。でも、ずっと失くしてた、大事なものを」
彼は自分の秘密を語りはしない。だが、もうそれを隠すために心を閉ざす必要もなかった。
物語の終わり。湊は古書店の窓から、夕暮れの街を眺めている。人々が家路につき、街に灯りがともり始める。この世界には、数え切れないほどの喜びと悲しみがあり、毎日、どこかで誰かが何かを失くし、何かを忘れたがっている。それは誰かの痛みの欠片かもしれないし、未来への希望の種かもしれない。
湊はもう、それを恐れない。彼は「忘れ物預かり所」の、静かな番人だ。誰かの痛みをそっと預かり、その人が再び歩き出す日を待つ。窓ガラスに映った自分の顔は、確かにほんの少しだけ、祖父に似た、優しい色を帯びているように見えた。