第一章 鋼鉄の心と子守唄
硝煙と鉄錆の匂いが混じり合う塹壕の中で、リョウは息を殺していた。土埃にまみれた頬を流れる汗が、ヘルメットの縁から滴り落ちる。眼前の荒野に、敵である帝国軍の兵士が姿を現した。一人。索敵兵だろう。リョウの心は凪いでいた。まるで精密な機械の歯車が噛み合うように、彼は呼吸を整え、スコープを覗き込み、そして引き金を引いた。
乾いた発砲音が響き、遠くの兵士が崩れ落ちる。任務完了。だが、リョウの仕事はここで終わりではない。彼は倒した兵士の元へ駆け寄ると、腰のポーチから銀色のデバイス――「シナプス・リンク」を取り出した。ケーブルの先端にあるニードルを、まだ微かに温かい敵兵の首筋に突き立てる。
『リンク開始。対象の戦闘技能、戦術情報を抽出します』
ヘルメットに内蔵されたスピーカーから、無機質な合成音声が響く。リョウの網膜に、膨大なデータがノイズ交じりの映像となって流れ込んできた。銃の構え方、地形の把握、仲間との連携符丁。共和国軍の最新技術であるシナプス・リンクは、こうして敵の経験を「奪う」ことで、兵士の練度を飛躍的に向上させる画期的な装置だった。
リョウはこのシステムの最高の適応者だった。彼は不要な感情を排し、純粋なデータとして敵の技能を吸収できた。仲間たちは、副作用として流れ込んでくる個人的な記憶の断片――「亡霊の囁き」と彼らが呼ぶそれに苦しめられ、精神の均衡を崩す者も少なくなかった。だが、リョウは違った。彼は心を鋼鉄の壁で覆い、囁きをただのノイズとして処理できた。
――そのはずだった。
いつものようにデータの濁流が流れ込んでくる。だがその中に、ひときわ鮮明なイメージが紛れ込んでいた。夕陽に染まる窓辺。揺り椅子に座った若い女性が、優しい眼差しでこちらを見ている。彼女の唇が、柔らかな旋律を紡ぎ出す。
『眠れ、眠れ、我が愛し子よ…月の光が、お前を包む…』
それは、素朴で、どこか懐かしい響きを持つ子守唄だった。その歌声は、リョウの鋼鉄の心をやすりで削るように、微かに、しかし確かに揺さぶった。彼はハッとしてリンクを強制的に遮断した。ニードルを引き抜くと、敵兵の顔が見えた。まだ若さの残る、平凡な顔。その顔が、あの歌を聴いていたのだろうか。
「どうした、リョウ。終わったか?」
背後から上官の声が飛ぶ。
「…はい。問題ありません」
リョウは平静を装って立ち上がった。だが、彼の耳の奥には、先ほどの歌声が亡霊のようにこびりついて離れなかった。それは初めて経験する、奇妙に心地よく、そして胸を締め付けるような感覚だった。戦場に吹く乾いた風が、そのメロディを遠くへ運んでいくように思えた。
第二章 魂の残響
あの子守唄との出会いから数週間、リョウの中で何かが変わり始めていた。彼は相変わらずトップクラスの戦績を維持していたが、その内面は静かな嵐に見舞われていた。シナプス・リンクを使うたび、彼は意識的に「亡霊の囁き」を探すようになっていた。
ある時は、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、粉まみれで笑う父親の記憶。またある時は、恋人と交わした他愛ない約束と、繋いだ手の温もり。故郷の祭りの喧騒、初めて雪を見た日の感動、友と酌み交わした安酒の味。それらは敵兵たちの人生のかけらであり、リョウがこれまで無価値だと切り捨ててきたものだった。
一つ一つの記憶が、リョウの中に小さなテラリウムを作るように、ささやかな世界を築いていく。彼は夜ごと、他人の夢にうなされた。知らないはずの故郷の風景を懐かしみ、会ったこともない愛する人の名を呼んで目を覚ます。自分の記憶と他人の記憶の境界線は、雨に滲むインクのように曖昧になっていった。
「最近のお前、少しおかしいぞ」
ある日の休息中、戦友のケンジが訝しげに言った。「前のお前は、もっと…そう、機械みたいだった。だが今は、時々ひどく遠い目をする」
「気のせいだ」
リョウは短く答えたが、その動揺は隠せなかった。彼の指は、引き金を引く瞬間に、コンマ数秒の躊躇いを覚えるようになっていた。スコープの向こうに見える敵兵が、もはや単なる的ではなく、誰かの父親であり、息子であり、恋人であるという事実が、重くのしかかる。
上官からも、戦闘効率の僅かな低下を指摘された。
「スランプか、リョウ。お前は我が隊の要だ。個人的な感傷は捨てろ。奴らは我々の故郷を脅かす敵だ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉は正論だった。共和国を守るという大義は、リョウが兵士になった理由そのものだ。だが、彼の心に響くのは、数多の魂の残響だった。敵兵の最後の瞬間に見た恐怖や絶望、そして家族への想いが、彼の心を蝕んでいた。
特に、あの最初の子守唄は、彼の精神の最も深い場所に根を張り、ことあるごとに再生された。彼はその歌の続きを知りたかった。あの優しい笑顔の女性は誰なのか。なぜ、この歌がこれほどまでに心を揺さぶるのか。答えの出ない問いが、霧のように彼を包み込んでいた。彼は、自分が壊れていくのを感じながらも、戦い続けるしかなかった。戦場という名の舞台で、他人の記憶という名の亡霊たちと、奇妙な共存を続けるしかなかったのだ。
第三章 シナプスの真実
共和国軍は、帝国軍の重要拠点である「鷲ノ巣砦」への総攻撃を決定した。リョウが所属する部隊は、最も過酷な正面突破を担うことになった。作戦前夜、リョウは眠れずに、ぼんやりと空の月を眺めていた。耳の奥では、いくつもの知らない歌や声が、寄せては返す波のように囁き合っている。
戦闘は熾烈を極めた。爆発音が鼓膜を破り、閃光が目を焼く。土と血の匂いが立ち込める中、リョウは半ば無意識に銃を撃った。かつての冷徹な精密さは失われ、今はただ、生き残るためだけに引き金を引いていた。
激戦の末、部隊は砦の司令部へと到達した。そこに待ち構えていたのは、歴戦のオーラを纏った一人の帝国軍指揮官だった。彼は圧倒的な強さでリョウの仲間を次々となぎ倒していく。絶体絶命の状況で、リョウは最後の力を振り絞り、指揮官との一騎打ちに臨んだ。もはや技術ではなかった。執念と偶然が重なり、リョウの放った弾丸が、指揮官の胸を貫いた。
巨木が倒れるように崩れ落ちる指揮官。静寂が訪れる。
『リョウ!よくやった!敵将の脳は無傷だ。情報価値は計り知れない。直ちに全記憶をダウンロードしろ!』
上官の興奮した声が通信機から響く。
リョウは震える手でシナプス・リンクを構えた。ためらいがあった。この男の人生もまた、奪ってしまうのか。だが、これは命令だった。彼はニードルを指揮官の首筋に突き立て、全記憶ダウンロードを開始した。
瞬間、凄まじい情報の奔流がリョウの意識を飲み込んだ。それは、一人の男の誕生から死までを追体験する、あまりにも濃密な旅だった。
――貧しい村での少年時代。帝国軍による突然の徴兵。過酷な訓練の日々。やがて彼は頭角を現し、若くして指揮官となる。戦場で出会った衛生兵の女性と恋に落ち、ささやかな結婚式を挙げた。娘が生まれ、その小さな手を握りしめた時の、胸が張り裂けそうなほどの喜び。
リョウは、その見慣れた光景に息を呑んだ。指揮官の妻。それは、リョウが初めてリンクした時に見た、あの子守唄を歌う女性だった。
記憶の旅は続く。指揮官は、戦争が終わったら、妻と娘を連れて、故郷の近くにある景色の良い丘で静かに暮らしたいと夢見ていた。そして、彼はいつも心の中で、生き別れたままの幼い弟の無事を祈っていた。
その時、指揮官の最も古い記憶の断片が、閃光のようにリョウの脳裏を貫いた。
――幼い兄弟が、母親の膝の上で子守唄を聴いている。
『眠れ、眠れ、我が愛し子よ…』
優しい母の声。隣にいる兄の温もり。兄は弟の頭を撫でながら、小さな声で言う。「大丈夫だ、リョウ。俺がずっと守ってやるからな」
その声。その名前。
リョウの全身が凍りついた。目の前で命の灯が消えかけているこの男は、帝国に連れ去られ、洗脳され、敵として生きてきた、実の兄だった。リョウがずっと心のどこかで探し求めていた温もりの正体。あの忘れられない子守唄は、母と兄と過ごした、失われた日々の記憶そのものだったのだ。
「あ…あに…さん…?」
リョウの口から、か細い声が漏れた。彼は自分の手で、たった一人の兄を殺してしまった。シナプス・リンクを通じて流れ込んでくる最後の感情は、驚きでも憎しみでもなく、ただ、愛する娘の顔を思い浮かべる、深い、深い哀しみだった。
リンクが途切れ、世界が静寂に包まれた。リョウは、兄の亡骸の横で、ただ嗚咽を漏らし続けた。鋼鉄の心は粉々に砕け散り、彼の内側で増殖していた無数のテラリウムは、その意味を失って崩壊した。
第四章 追憶の丘で
あれから、五年が過ぎた。
長きに渡った共和国と帝国の戦争は、どちらの勝利とも言えない形で、疲弊のうちに幕を閉じた。リョウは、あの日、鷲ノ巣砦から姿を消した。軍は彼を脱走兵として記録したが、その行方を知る者はいなかった。
今、リョウは、かつて帝国領だった辺境の村で暮らしている。そこは、兄の記憶の中にあった、彼が「戦争が終わったら家族と住みたい」と夢見ていた丘が見える村だった。彼は名前を変え、畑を耕し、静かに日々を送っていた。彼の心の中には、兄をはじめとする、彼が殺めた数多の人々の記憶が、今も静かに息づいている。それはもはや呪いではなく、彼が生きていく上で背負うべき、贖罪の十字架だった。
彼は自分の素性を誰にも明かしていない。特に、この村の少し外れに住む、ある母娘には。義理の姉となった女性と、姪にあたる少女。リョウは、兄の代わりに彼女たちを守ることこそが、自分の唯一の使命だと信じていた。直接手を差し伸べることはできない。だから、遠くから見守り、彼女たちの暮らしが脅かされることがないよう、村の厄介事を人知れず片付けた。
ある夕暮れ時、リョウは自分の畑から、兄が夢見た丘を眺めていた。橙色の光が、なだらかな丘の緑を優しく染めている。その時、風に乗って、か細い歌声が聞こえてきた。
『眠れ、眠れ、我が愛し子よ…月の光が、お前を包む…』
丘の方を見ると、小さな人影が見えた。姪の少女が、花を摘みながら、あの懐かしい子守唄を口ずさんでいる。母親から教わったのだろう。兄が愛し、リョウが失った、あの歌。
その歌声を聞いた瞬間、リョウの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、兄を殺めてしまったことへの後悔の涙であり、戦争の無情さを呪う涙だった。しかし、それだけではなかった。兄の夢、兄の愛した歌が、こうして小さな命に受け継がれ、この美しい丘に響いている。その事実に対する、どうしようもない安堵と、微かな救いの涙でもあった。
リョウはもう、銃を手にすることはないだろう。彼は、奪った命の記憶と共に、これからは守るために生きていく。それは兵士としてではなく、一人の人間として。彼の顔には、かつての冷徹な兵士の面影はなかった。深い哀しみを湛えながらも、その瞳は、丘の上で歌う少女の姿を通して、確かな未来を見つめていた。
亡霊たちの歌声は、今や彼の魂の一部となり、彼の歩む道を静かに照らしている。戦争が魂に何を刻み、そして残された者は何を抱えて生きていくのか。その答えを、リョウはこれから、この追憶の丘で探し続けていくのだろう。