第一章 不完全な奇跡と古書店の主
湊(みなと)が営む古書店『時の栞』は、街の片隅で忘れ去られたようにひっそりと息をしていた。古紙とインクの匂いが混じり合った空気は、まるで時間の澱(おり)そのものだった。湊自身もまた、その澱に溶け込むように静かな男だった。彼はカウンターの奥で分厚い本を広げながら、窓の外を流れる日常を、どこか他人事のように眺めている。
彼には、秘密があった。他人が失くしたものの在り処が、ふとした瞬間に映像として頭に浮かぶのだ。それは呪いとも祝福ともつかない、不便で不完全な奇跡だった。
「湊さん、大変!」
店の古びたドアベルがけたたましく鳴り、息を切らした老婦人、常連の佐藤さんが駆け込んできた。彼女は皺の刻まれた手を震わせ、泣き出しそうな顔で訴える。
「主人の形見の、あの、結婚指輪を……どこを探してもないのよ」
湊は静かに本を閉じ、目を伏せた。彼の日常だ。人々はパニックに陥り、最後の藁にもすがる思いで彼の店を訪れる。彼はただ、脳裏に映し出される断片的な情報を、ありのままに告げるだけ。
意識を集中すると、陽光、土の匂い、子供の笑い声、そして金属質な光がきらめく映像が浮かんだ。
「……駅前の公園です」湊はゆっくりと口を開いた。「三番目のベンチ、その足元。カラスが光るものに興味を示して、植え込みの根元に隠したようです」
佐藤さんは半信半疑の顔で湊を見つめ、それでも「ありがとう」とだけ言って、慌ただしく店を飛び出していった。一時間後、電話が鳴った。感謝と興奮に満ちた声が、受話器の向こうで震えていた。
湊は礼儀正しく応対し、静かに電話を切った。胸に広がるのは、達成感ではない。むしろ、空虚感に近いものだった。彼は、誰かの大切なものを見つけることはできても、自分自身の、たった一つの失くしものだけは、もう何年も見つけられずにいる。
幼い頃に失くした、母親との思い出が詰まった小さなオルゴール。その在り処だけは、彼の奇跡が決して教えてはくれなかった。だから、彼の能力は不完全なのだ。他人のポケットを満たすことはできても、自分自身の胸に空いた穴は、永遠に埋まらない。湊は再び本に目を落としたが、活字はもう彼の心には届かなかった。インクの匂いが、なぜかひどく寂しいものに感じられた。
第二章 形のない落とし物
数日後の午後、店のドアベルが、これまで聞いたことのないような、ためらいがちな音を立てた。入ってきたのは、陽菜(ひな)と名乗る若い女性だった。大きな瞳には、まるで迷子の子供のような不安の色が浮かんでいる。
「あの……失くしものを、見つけてくださる方がいると聞いて」
彼女の声は、春先の細い雨のようにか細かった。湊はいつものように「何を失くされたんですか?」と尋ねた。すると、彼女は困ったように眉を寄せ、意外な言葉を口にした。
「それが……何を失くしたのか、わからないんです」
「わからない?」
「はい。でも、何かすごく大事なものを失くしてしまった、という感覚だけが、ずっと胸にあるんです。空っぽになったような……そんな感じで」
形のない落とし物。湊の能力が始まって以来、初めてのケースだった。彼の奇跡は、常に具体的な「物」を手がかりにして発動する。鍵、財布、手帳、猫。しかし、実体のない「喪失感」そのものを探すなど、できるはずもなかった。
「お力にはなれないかもしれません」
湊がそう言って断ろうとした時、陽菜は俯いていた顔を上げ、彼の目をまっすぐに見た。その瞳の奥に、深い悲しみと、それでも諦めきれない一筋の光が見えた。湊は思わず言葉を呑み込んだ。彼女の瞳は、まるで自分自身の心の空洞を映す鏡のようだった。
「少し、お話を聞かせてもらえませんか」
気づけば、湊はそう口にしていた。それは、彼の静かな日常からは逸脱した、予期せぬ行動だった。
陽菜はぽつりぽつりと、自分のことを語り始めた。最近、故郷の街からこの街へ引っ越してきたこと。新しい生活に馴染めず、ふとした瞬間に理由のわからない不安に襲われること。そして、その不安が「何かを失くした」という感覚に繋がっている気がすること。
彼女の話を聞いているうちに、湊の脳裏に、不思議なイメージが断片的に浮かび始めた。それは明確な映像ではなかった。古い木の匂い。午後の柔らかな陽光。遠くで響く、少しだけ調子の外れたオルゴールのメロディ。
「……何か、音楽に関係するものでしょうか」
湊が問いかけると、陽菜ははっとしたように顔を上げた。
「音楽……そうかもしれません。時々、夢の中で、懐かしいメロディを聞くことがあるんです。でも、目が覚めると忘れてしまって」
陽菜との対話は、湊にとって未知の体験だった。これまで、彼は失くしものの在り処を一方的に告げるだけだった。しかし、今は違う。彼女の記憶の断片を共に拾い集め、失われた物語を再構築しようとしている。それは、ひどく手間のかかる、そして不思議と心を満たす作業だった。
この日を境に、陽菜は時々『時の栞』を訪れるようになった。二人は言葉を交わし、彼女の失われた記憶のパズルピースを探した。湊は、自分の胸の空洞が、ほんの少しだけ温かいもので満たされていくのを感じていた。それは、彼がずっと探し求めていたものとは違う、けれど確かに心地よい温もりだった。
第三章 置き去りのメロディ
陽菜の失くしたものへの手がかりは、彼女が持ってきた一枚の古い写真によって、唐突にもたらされた。それは彼女が幼い頃、引っ越す前に住んでいた家の前で撮られたものだった。写真の中で、小さな陽菜は少し不満そうな顔で隣の家を見つめている。
「この隣の家、なんだか見覚えがあるような気がして……」
陽菜がそう呟いた瞬間、湊の中で何かが弾けた。彼の能力が、これまで経験したことのないほどの激しさで発動したのだ。視界が白く染まり、耳鳴りが頭蓋を揺さぶる。
彼が見たビジョンは、陽菜の失くしものではなかった。
それは、彼自身が二十年以上も前に失くした、あのオルゴールだった。
ビジョンの中の光景は鮮明だった。古い家の子供部屋。窓から差し込む西日。少年時代の自分が、母親にひどく叱られ、泣きながらお気に入りのオルゴールを窓から放り投げる。それは「失くした」のではない。「捨てた」のだ。衝動的に、自らの手で。
オルゴールは隣の家の庭に落ちた。それを拾い上げたのは、小さな女の子だった。彼女は戸惑いながらも、その美しい細工が施された小箱を、大切そうに胸に抱きしめた。
その女の子の顔は、写真の中で不満そうに隣家を見つめていた、幼い陽菜そのものだった。
湊は息を呑んだ。全身から血の気が引いていく。そういうことだったのか。彼がずっと探し続けていたオルゴールは、失くしたのではなく、置き去りにしたのだ。そして、それを拾い上げたのが、すぐ隣に住んでいた陽菜だった。自分の能力で見つけられなかったのは、能力が不完全だったからではない。自らの罪悪感と後悔が、その記憶に分厚い蓋をしていたからだ。
陽菜が失くしたと思っていた「何か」。それは、このオルゴールそのものではなく、それに付随する記憶。「誰かの大切なものを預かっている」という責任感と、持ち主を気遣う優しい気持ち。引っ越しを繰り返し、大人になるにつれて薄れてしまった、その温かい記憶の残滓こそが、彼女の胸の空洞の正体だったのだ。
「湊さん? どうかしましたか、顔が真っ青ですよ」
心配そうに覗き込む陽菜の顔が、ビジョンの中の少女と重なる。湊は震える声で尋ねた。
「この家……この家の住所を、覚えていますか」
湊の価値観が、根底から崩れ落ちていく音がした。彼の奇跡は、単なる物探しのための能力ではなかったのかもしれない。それは、忘れられた記憶を、置き去りにされた心を、人と人とを繋ぎ直すための、不器用な架け橋だったのではないか。そして今、その橋は、二十年以上の時を経て、彼自身と陽菜とを結びつけようとしていた。
第四章 見つかったもの
陽菜が覚えていた住所は、彼女が今住む場所から電車で一時間ほどの、古い住宅街だった。二人は週末、その場所を訪れた。かつて湊と陽菜が住んでいた家は、どちらも既に取り壊され、新しい家が建っていた。しかし、陽菜は「たぶん、実家の物置にあるかもしれない」と言った。
陽菜の実家は、幸いにも同じ市内にあった。彼女の両親に事情を話すと、彼らは快く屋根裏の物置へと案内してくれた。埃っぽい空気と、古い木の匂い。その中で、陽菜はある段ボール箱を指差した。
箱を開けると、がらくたに紛れて、それはあった。銀色の細工が施された、木製の小さなオルゴール。所々塗装が剥げ、歳月の流れを感じさせる。湊が最後に見た時と、何も変わらない姿だった。
陽菜はそれを手に取り、懐かしそうに目を細めた。「思い出した……。これ、隣の男の子が捨てちゃったのを見て、いつか返さなきゃってずっと思ってたんだ。でも、すぐに引っ越すことになって……」。彼女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。胸の空洞が、ようやく満たされた安堵の涙だった。
湊は、震える手でオルゴールを受け取った。そして、そっと底のネジを巻く。カチ、カチ、という小さな音の後、蓋を開けると、懐かしいメロディが流れ出した。それは、幼い頃、母がよく歌ってくれた子守唄だった。
音色は、彼の心の最も柔らかい場所に染み渡った。彼が失くしていたのは、オルゴールという「物」だけではなかった。母親を傷つけてしまった後悔、過去から目を背けていた臆病な自分、そして、誰かに許されたいと願う心。それら全てを、彼は置き去りにしてきたのだ。
陽菜が、彼の捨てたものを拾い、ずっと守っていてくれた。その事実が、凍てついていた湊の心をゆっくりと溶かしていく。
「ありがとう、陽菜さん。ずっと、探してたんだ」
彼の言葉は、感謝以上の響きを持っていた。それは、過去の自分自身への赦しであり、新しい未来への第一歩だった。
後日、『時の栞』に、陽菜が晴れやかな顔で訪れた。二人の間には、もうあのぎこちない空気はない。穏やかで、温かい時間が流れていた。
そこへ、一人の学生が困った顔で入ってきた。
「すみません、昨日買った本に挟んだはずの、大切な栞が見当たらなくて……」
湊は微笑んで、静かに目を閉じた。そして、すぐに目を開けると、以前とは違う、確信に満ちた声で言った。
「二階の文芸書の棚、一番右端です。『星の王子さま』の中に、綺麗に挟まってますよ」
彼の能力は、もう不完全な奇跡ではなかった。誰かの日常の、小さな綻びを繕うための、ささやかな贈り物。湊はもう、自分自身の失くしものを探すことはないだろう。空っぽだった彼のポケットは、陽菜が守り続けてくれた温かい記憶と、これから紡がれるであろう新しい物語で、もう十分に満たされていたのだから。湊は、カウンター越しに陽菜へと微笑みかけた。古書のインクの匂いが、今日は希望の香りのように感じられた。