空色のインク

空色のインク

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第一章 消印のない誕生日

高梨湊の二十八回目の誕生日は、他の三百六十四日と何ら変わりのない、灰色の朝靄の中から始まった。市役所の戸籍係という仕事は、人々の人生の始点と終点をインクと紙の上で処理する、いわば物語の管理者だ。しかし、湊自身の物語は、起伏のない平坦な道をただ進んでいるだけだった。感動もなければ、大きな悲しみもない。安定という名の退屈に、心はとっくの昔に順応してしまっていた。

その日も、くたびれたスーツに身を包み、玄関のドアを開けようとした瞬間、集合ポストの投入口から半分だけはみ出した、見慣れない一枚の葉書に気がついた。手に取ると、ざらりとした厚手の紙の感触。それは、鮮やかな青空を切り取ったような、美しい水彩画の絵葉書だった。描かれているのは、湊が子供の頃に住んでいた町の、古びた時計台。その空の色に、湊は息を呑んだ。忘れようはずもない、祖父の使う「空色」だったからだ。

祖父は画家だった。自由奔放で、煙草の匂いをまとわせ、いつも悪戯っぽく笑っていた。湊が十八歳の夏、その祖父はあっけなくこの世を去った。もう十年になる。

絵葉書を裏返すと、そこにはインクが滲んだ、懐かしい丸文字が並んでいた。

『湊へ。二十八歳の誕生日おめでとう。最初の宝のありかは、この絵の中にある。達者でな。じいちゃんより』

心臓が、錆びついた振り子のようにぎこちなく揺れた。差出人は、間違いなく祖父。しかし、あり得ないことだ。戸籍係の自分が、死者の存在を誰よりも知っている。これは手の込んだ悪戯か、あるいは何かの間違いだろう。だが、消印のないその絵葉書は、まるで十年という時間を飛び越えて、今朝、誰かがそっと差し入れたかのように生々しい存在感を放っていた。

湊は絵葉書をポケットにねじ込み、いつもと同じ電車に乗った。しかし、窓の外を流れる風景は、なぜかいつもと違って見えた。灰色だった日常のキャンバスに、一滴だけ、鮮やかな空色のインクが垂らされた。それは無視するにはあまりにも眩しく、湊の心を静かに、しかし確実に侵食し始めていた。

第二章 過去を旅する地図

結局、湊はその日、午後半休を取った。同僚の「顔色が悪いですよ」という言葉を言い訳に、十年ぶりに故郷の町へ向かう電車に揺られていた。ポケットの中の絵葉書が、微かな熱を帯びているように感じる。馬鹿げている。そう頭では理解しながらも、足は自然と絵を描かれた場所、あの古い時計台へと向かっていた。

時計台の下には、祖父とよく立ち寄った『喫茶ポラリス』が、昔と変わらぬ姿でひっそりと佇んでいた。年季の入った木の扉を開けると、コーヒー豆の香ばしい匂いと、低いジャズの音色が湊を包む。カウンターの奥で、白髪のマスターが静かにカップを磨いていた。

「いらっしゃい」

湊は意を決して、マスターに絵葉書を見せた。「これを、ご存じないかと……」

マスターは目を細め、絵葉書を受け取ると、ふっと口元を緩めた。「ああ、やっぱり来たか。あのお爺さんから、いつかこの絵葉書を持った青年が来ると聞いていたよ。君が、湊君だね」

そう言って、マスターはレジの引き出しから、もう一枚の絵葉書を取り出した。今度は、川沿いの桜並木が描かれている。裏には、やはり祖父の文字で『よく来たな。次の宝は、春の思い出の中だ』とだけ記されていた。

「お爺さんは、君が来るのをずっと楽しみにしていたようだったよ。毎年、君の誕生日が近くなると、そわそわしてね」

「毎年……?」湊は聞き返した。マスターは曖昧に微笑むだけだった。

川沿いの桜並木。そこは、湊が初めて自転車に乗れるようになった場所だった。何度も転ぶ湊の後ろを、祖父は「大丈夫だ、空を見て走れ」と声を張り上げながら追いかけてくれた。その場所に行くと、ベンチに腰掛けた見知らぬ老婆が、湊に気づいてにこりと笑いかけ、次の絵葉書を渡してくれた。

宝探しは、まるで過去の記憶をなぞる旅のようだった。図書館の片隅、閉館した映画館の跡地、神社の境内の大木。行く先々で、祖父と関わりのあった人々が湊を待ち構えており、彼らは次の絵葉書と共に、湊の知らない祖父の思い出話を一つ、二つと聞かせてくれた。絵を描くことしか能がないように見えた祖父が、町の人々にどれほど愛され、慕われていたか。湊の心に、じんわりと温かいものが広がっていく。

市役所の無味乾燥な書類の束とは違う、生きた人間の繋がり。忘れていた感情が、古いアルバムをめくるように蘇ってくる。いつも俯きがちに歩いていた湊は、いつしか顔を上げ、町の空の色を確かめるようになっていた。祖父の描いた空色と、今の空は同じだろうか。そんなことを考える自分が、少し可笑しかった。

第三章 配達されなかった言葉

五枚目の絵葉書に示された最後の場所は、生家から少し離れた場所にあった、祖父のアトリエだった。十年以上、誰も足を踏み入れていないはずのその小屋は、しかし、不思議と綺麗に保たれていた。

扉を開けると、絵の具とテレピン油の懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。イーゼルには、大きなカンバスが立てかけられていた。だが、そこに描かれていたのは、壮大な風景画でも、誰かの肖像画でもなかった。ただ、真っ白なのだ。何一つ描かれていない、純白のカンバス。

そのイーゼルの足元に、最後の一枚であろう絵葉書が置かれていた。湊はそれを拾い上げる。

『湊へ。これが最後の宝だ。この真っ白なカンバスがお前にとっての宝だ。わしからの手紙は、これで終わり。……実はな、この手紙を毎年お前に届けていたのは、隣に住む郵便配達員の佐藤さんだ。わしが死ぬ前に、十数年分の絵葉書を託して頼んでおいたんだ。「あいつが自分の色を見失いそうになったら、一枚ずつ届けてやってくれ」ってな』

湊の心臓が大きく跳ねた。毎年、届いていた?

『お前が安定した仕事に就いたと聞いて、少しだけ心配になった。安定は良いことだ。だが、お前の心が安定しすぎて、このカンバスみたいに真っ白になっちまうんじゃないかと。だから、毎年少しだけ、わしの空色で世界を揺さぶってやろうと思った。でもな、もう大丈夫そうだ。佐藤さんから、お前が少しずつ変わっていく様子を、時々聞いていたからな。だから、これが本当に最後の「配達」だ。あとは、お前がお前の色で、このカンバスを埋めていけ。わしが見つけられなかった宝を、お前が見つけろ。じいちゃんより』

毎年聞いていた? 変わっていく様子を? 意味が分からなかった。湊がこの奇妙な宝探しに巻き込まれたのは、ほんの数日前のことだ。それに、隣に住んでいた佐藤さんは、湊が子供の頃に引っ越して以来、顔も覚えていない。

混乱した頭で、湊はアトリエを飛び出した。生家の隣、今は空き家となっているはずの「佐藤」の表札がかかった家へ走る。すると、その家の前に数人の人だかりができていた。近所のおばさんが、心配そうな顔で湊に声をかけた。

「湊君……。佐藤さん、先週、ここで亡くなっているのが見つかったのよ。孤独死だったみたいでね……」

雷に打たれたような衝撃が、湊の全身を貫いた。

そうか。そういうことだったのか。

郵便配達員の佐藤さんは、祖父との約束を守ろうとしていた。しかし、おそらく人見知りだったか、あるいはただそのきっかけを掴めなかったか、十年もの間、一度も湊に絵葉書を渡せずにいたのだ。毎年、誕生日の度にポストの前で逡巡し、結局持ち帰る、という日々を繰り返していたのかもしれない。

そして、自らの死期を悟ったのか、最後の力を振り絞って、託された大量の絵葉書の中から「最初の一枚」だけを、湊のポストに投函したのだ。それは、祖父の壮大な計画の、たった一度きりの実行。始まりであり、同時に、永遠の終わりだった。

第四章 はじまりのカンバス

警察の許可を得て、遺品整理業者と共に佐藤さんの部屋に入った湊は、言葉を失った。古びた文机の引き出しの中に、丁寧に輪ゴムで束ねられた絵葉書の束が、いくつも眠っていたのだ。

『十九歳の湊へ』『二十歳の湊へ』『二十一歳の湊へ』……。そこには、湊が受け取ることのなかった、九年分の誕生日プレゼントが、配達される日を待ち続けていた。一枚一枚、めくっていく。そこには、若者への不器用な励まし、失恋を慰める言葉、社会人になった湊へのエールなど、その時々の湊に寄り添うように綴られた、祖父からのメッセージがあった。空色のインクで書かれた言葉たちは、十年という時を経て、今ようやく受取人の元へとたどり着いたのだ。

湊は、涙が止まらなかった。届けられることのなかった九年分の愛情。それを届けられなかった、名も知らぬ郵便配達員の、十年間の葛藤と後悔。そして、最後に果たされた、たった一つの約束。それら全てが、ずっしりと重く、しかし温かく湊の胸に響いた。日常のすぐ隣で、こんなにも静かで、壮大な物語が息づいていたことに、彼は全く気づかずに生きてきたのだ。

数日後、湊は市役所に辞表を提出した。上司や同僚は驚き、引き留めたが、湊の表情は、まるで雨上がりの空のように晴れやかだった。

季節は巡り、初夏の日差しがアトリエに差し込む頃。

湊は、あの真っ白なカンバスの前に立っていた。傍らには、祖父が遺した絵の具箱と、佐藤さんが守り続けた絵葉書の束が置かれている。そして、一瓶の、空色のインク。

彼は、震える手で一本の筆を手に取った。安定という名の灰色の世界から、彼はもう旅立ったのだ。これから何を描くのか、どこへ向かうのか、まだ分からない。だが、不安はなかった。

湊は、カンバスに最初の一筆を、そっと下ろした。

それは、祖父の空色ではなかった。誰のものでもない、彼自身の色。

忘れられた約束と、届けられた想いを胸に、高梨湊の物語は、今、ようやく本当の意味で始まった。その一筆が、やがてどんな絵を描き出すのか。それを知っているのは、アトリエの窓から差し込む、名前のない光だけだった。

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