第一章 八年越しの手紙
俺、水野湊(みずのみなと)の三十歳の誕生日は、まるで灰色のインクを水に垂らしたように、静かに、そして味気なく過ぎていくはずだった。都心のデザイン事務所で、締め切りに追われる日々。合理性と効率を信条とし、感傷的なものは極力排除して生きてきた。そんな俺の日常を揺るがしたのは、一通の古びた封筒だった。
郵便受けの底に、それはあった。差出人の名前を見て、心臓が氷の塊にでもなったかのように冷たく固まる。
『倉田 陽(くらた はる)』
八年前、北アルプスの稜線で忽然と姿を消し、公式には死亡と認定された、たった一人の親友の名前だった。
震える指で封を切る。中から出てきたのは、陽の書くに違いのない、丸っこくて少し跳ねるような癖のある文字だった。
「湊へ。三十歳の誕生日、おめでとう。
この手紙が届いているってことは、俺の仕掛けはちゃんと作動したみたいだな。驚いたか? これは未来のお前に宛てた、俺からのタイムカプセルだ。
さて、単刀直入に言う。お前に頼みたいことがある。俺の『宝物』を探し出してほしい」
馬鹿げている。心の中で毒づいた。死んだ人間からの、悪趣味な悪戯だ。陽は昔からそうだ。いつも突拍子もないことを言い出しては、俺を振り回す。だが、その手紙から漂う微かなインクの匂いが、不思議と陽自身の匂いのように感じられ、俺は続きを読むしかなかった。
「ヒントは、俺たちの歴史の中にある。まず、始まりの場所へ行け。そこには、俺たちが世界で一番くだらないと笑った、土の中の約束があるはずだ」
始まりの場所。土の中の約束。俺の脳裏に、夕暮れの小学校の校庭がぼんやりと浮かび上がった。陽の、太陽みたいに屈託のない笑顔とともに。合理主義者の俺の心に、忘れかけていた感情のさざ波が、静かに、しかし確かに立ち始めていた。陽の最後の悪戯に、俺は乗ってみるしかないのかもしれない。そう思わせる何かが、その手紙には宿っていた。
第二章 褪せた地図の記憶
週末、俺は重い腰を上げ、二十年ぶりに母校の小学校を訪れた。錆びついた鉄棒、ひび割れたコンクリートのウサギ小屋。何もかもが記憶の中より小さく、色褪せて見えた。陽が手紙に記した「始まりの場所」は、校庭の隅にある大きな桜の木の下だった。
俺たちは小学四年生の夏、ブリキの菓子缶に、互いの宝物を入れて埋めたのだ。「二十歳になったら一緒に開けよう」と、幼稚な約束を交わして。俺は当時熱中していた特撮ヒーローのフィギュアを、陽は確か、ガラクタみたいな石ころをいくつか入れていた。「これは星のかけらなんだ」と、真顔で言っていたのを思い出す。
シャベルで土を掘り返すと、鈍い音がした。出てきたのは、赤く錆びたブリキ缶。蓋を開けると、ビニール袋に厳重に包まれた、次の手紙が入っていた。
「見つけたな、湊。どうだ、俺のヒーローはまだ無事だったか?
次のヒントだ。俺たちの王国を覚えているか? 川のせせらぎが王の言葉で、風の音が兵士の足音だった場所。そこに、次の道標がある」
俺たちの王国。それは、町外れを流れる川の中州にあった、打ち捨てられたコンクリートの廃墟のことだった。俺たちはそこを「静寂の城」と名付け、二人だけの秘密基地にしていた。
車を走らせ、草いきれの匂いが濃くなる川辺へ向かう。蔦に覆われた廃墟は、まるで古代遺跡のように静まり返っていた。壁には、俺と陽がスプレーで描いた稚拙な落書きが、今も微かに残っている。ここで俺たちは、将来の夢を語り合った。俺は世界的なデザイナーに、陽は「世界中を冒険する探検家」になると言っていた。
陽の指示通り、崩れかけた壁の、特定のレンガを外す。そこにも、次の手紙が隠されていた。手紙を追うたびに、陽との記憶が鮮やかに蘇る。彼の破天荒な言動の裏にあった優しさ。俺がデザインコンクールで落ち込んでいた夜、何も言わずに隣で夜空を眺めてくれたこと。陽は、俺が思うよりずっと、俺のことを見ていてくれた。手紙の文字を追う俺の頬を、不意に温かいものが伝った。
「なあ湊、覚えているか? お前が初めて自分のデザインを馬鹿にされて泣いた日、俺たちがいつも行ってた喫茶店のマスターが、お前にだけ特別なコーヒーを淹れてくれたこと。あの味を、もう一度思い出してくれ」
その喫身店は、駅前の再開発でとうの昔になくなっている。万事休すか。俺はため息をついた。だが、ふと気づく。マスターは引退後、隣町で小さな焙煎所を開いたと風の噂で聞いたことがあった。かすかな希望を胸に、俺はその焙煎所を探し出した。
店の扉を開けると、芳しいコーヒーの香りが俺を包んだ。カウンターの奥には、白髪になったマスターが、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「……陽くんの、お友達だね?」
マスターは、すべてを知っているかのように言った。そして、奥から小さな木箱を持ってきた。
「あの子に頼まれてたんだ。『いつか親友が、このコーヒーの香りを頼りにやって来るから、その時が来たらこれを渡してほしい』ってね」
木箱の中には、最後の手紙と、一枚の登山地図が入っていた。地図が示しているのは、陽が消息を絶った、あの北アルプスの山だった。
第三章 約束の山へ
地図を広げた瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。陽が死んだ山へ、俺に行けというのか。これは、あまりにも残酷な悪戯だ。怒りと悲しみがごちゃ混ぜになり、俺は地図を丸めて投げ捨てた。
だが、眠れぬ夜を過ごすうちに、俺の心は別の感情に支配され始めていた。これは、陽が俺に残した最後の「冒険」への招待状なのかもしれない。彼がなぜこの宝探しを計画したのか、その本当の意味を知るためには、行くしかない。俺は陽の死から目を背け、合理的な日常に逃げ込むことで、喪失の痛みを麻痺させてきた。だが、陽はそれを許してはくれなかった。
覚悟を決め、俺は登山用具を揃え、山へと向かった。澄み渡る秋空の下、山々は燃えるような紅葉に彩られていた。そのあまりの美しさが、逆に胸を締め付ける。
地図に記されたルートは、一般的な登山道から外れた、険しい獣道だった。陽が残したと思われる、木の幹に刻まれた不自然な十字の傷だけが、俺の道標だった。一歩進むごとに、息が切れ、足が鉛のように重くなる。なぜ、こんなことを。陽の顔が何度も脳裏をよぎる。
陽の最後の軌跡を辿っているのだと気づいた時、俺の足取りは巡礼者のそれに変わっていた。彼の孤独、彼の見た風景、彼の最後の想い。それらを感じ取りたいと、心の底から願っていた。
丸一日歩き続けた末、俺は地図が示す最終地点にたどり着いた。そこは、巨大な岩壁に守られるようにして口を開けた、小さな洞窟だった。ひんやりとした空気が、汗ばんだ肌を撫でる。洞窟の奥、岩棚の上に、それは静かに置かれていた。喫茶店のマスターから渡されたものと同じ、古びた木箱。陽の、本当の「宝物」が、そこにあった。
第四章 星屑の告白
震える手で木箱を開ける。中には、何十枚ものスケッチブックがぎっしりと詰まっていた。一枚一枚めくっていく。そこに描かれていたのは、特別な絶景などではなかった。小学校の校庭で笑う俺。秘密基地でコーラを飲む俺。コンクールに落ちて俯く俺。何気ない、俺と過ごした日々の断片が、陽の温かいタッチで、愛情深く描かれていた。
そして、スケッチブックの一番下に、封をされた最後の手紙と、一枚の未完のキャンバスがあった。俺は息を飲み、手紙を開いた。
「湊へ。ここまでたどり着いてくれて、ありがとう。
驚かせてごめんな。本当のことを話す。俺の山での遭難は、事故じゃない。
俺は、病気だったんだ。治る見込みのない、厄介なやつでね。医者からは、もって数年だって言われてた。誰にも言わなかった。お前に心配かけたくなかったし、同情されるのも嫌だったから。
だから決めたんだ。誰にも迷惑をかけず、大好きな自然の中で、最後の冒険の途中で消えようって。俺らしいだろ?」
文字が涙で滲んで、読めなくなった。陽が、そんな壮絶な秘密を一人で抱えていたなんて。俺は、何も知らずに……。
「この宝探しは、俺からの最後の頼みであり、贈り物だ。
俺の宝物は、大層な財宝なんかじゃない。お前と過ごした、あのくだらなくて、かけがえのない時間そのものだったんだ。
だから、湊。俺の代わりに生きて、俺が見ることのできなかった世界を見て、感じてほしい。そして、この未完の絵を完成させてほしいんだ。
この絵は、この洞窟から見える山の頂からの景色だ。俺は、これを完成させることができなかった。だから、お前がこれから見るであろう、美しい風景を、この絵の続きに描き足してくれ。お前の見た世界が加わって、初めて俺の宝物は完成する。それが、俺の本当の願いだ」
俺は声を上げて泣いた。陽の死は、ただの悲劇ではなかった。それは、俺への深い友情と愛情に裏打ちされた、壮大で、あまりにも切ない、最後の自己表現だったのだ。俺がずっと背けてきた「死」という現実の裏側に、こんなにも温かい「生」への願いが込められていたなんて。論理や合理性では決して測れない、魂の繋がりが、確かにそこにはあった。
第五章 未完の風景
夜が明け、洞窟の入り口から、紫とオレンジ色が混じり合った柔らかな光が差し込んできた。俺は木箱と未完のキャンバスを抱きしめ、最後の目的地である山の頂を目指した。
頂上に立つと、言葉を失うほどの絶景が広がっていた。雲海が足元に広がり、その向こうから昇る太陽が、世界を金色に染め上げていく。まるで、宇宙の誕生の瞬間に立ち会っているかのようだった。陽は、この景色を俺に見せたかったのだ。
俺は、陽が遺した携帯用のイーゼルを立て、キャンバスをセットした。パレットに絵の具を出し、筆を握る。不思議と、迷いはなかった。
陽の描いた、力強い山々の輪郭。その上に、俺は今見ている朝焼けの色を重ねていく。オレンジ、ピンク、ゴールド。それは、陽の情熱の色であり、俺の再生の色だった。筆を動かすたびに、陽が隣で笑っているような気がした。お前ならできるよ、と背中を押してくれているようだった。
陽はいなくなった。その事実は変わらない。けれど、彼の想いは、この絵の中で、そして俺の心の中で永遠に生き続ける。彼は俺に、喪失を乗り越え、未来を描く力を与えてくれた。
冷めた現実主義者だった俺は、もういない。陽が信じた、目に見えないものの価値を、今なら心から信じられる。友情とは、共に過ごす時間の長さではない。どれだけ深く、相手の魂に触れることができたか、なのだ。
俺はキャンバスに、最後の一筆を入れた。それは、地平線の彼方に輝く、一番星の光だった。まるで、遠い空から俺を見守る、陽の瞬きのようだった。
陽、お前の宝物は、確かに完成したぞ。そして俺の冒険は、今、ここから始まる。