第一章 朝のリセット
水島湊が目を覚ますと、いつもと同じ見慣れた天井がそこにあった。しかし、胸の内に広がるのは、まるで自分の部屋ではないかのような心許なさだった。昨夜の記憶が靄に包まれている。体を起こすと、ベッドサイドの机に置かれた一冊のノートが目に入った。表紙には、自分の筆跡で『取扱説明書』とだけ書かれている。
湊はため息をつき、そのノートを開いた。インクの匂いが微かに鼻をかすめる。最初のページには、震えるような文字でこうあった。
『おはよう、昨日の僕。君は今、ひどく混乱しているはずだ。落ち着いて読んでほしい。君には記憶障害がある。特定の人物に関する記憶だけを、眠ると失ってしまう。その人物の名前は――月島蓮。』
月島蓮。その名前に、湊の心は全く反応しなかった。写真も、思い出も、声すらも浮かんでこない。ページをめくると、箇条書きで指示が続く。
・月島蓮は、君と同じ大学の同級生だ。
・彼は君の事情をすべて知っている。
・彼は必ず君に会いに来る。その時は、決して彼を拒絶しないこと。
・月島蓮を信じろ。彼は君の、たった一人の親友だ。
最後の行は、ひときわ強い筆圧で書かれていた。湊はノートを閉じた。毎朝繰り返される儀式。知らない誰かから親友だと告げられる、この奇妙な現実。何度経験しても、胃の腑が冷たくなる感覚には慣れなかった。
大学のキャンパスを歩いていると、背後から明るい声がした。
「湊!おはよ!今日もいい天気だな」
振り返ると、太陽をそのまま人にしたような青年が立っていた。色素の薄い髪が風に揺れ、人懐っこい笑顔が湊に向けられている。彼が、月島蓮。ノートに挟んであった写真と同じ顔だ。
「……ああ、おはよう。月島くん」
「また『月島くん』かよ。蓮でいいって、昨日あれほど言ったのに」
蓮はそう言って、からかうように湊の肩を叩いた。その仕草には一片の躊躇もなく、まるで長年の付き合いであるかのような空気が流れている。湊は曖昧に笑うことしかできない。
講義が終わり、昼休みになると、蓮は「屋上、行こうぜ。特等席、取っといた」と言って湊の手を引いた。フェンス際、街並みを一望できる場所に腰を下ろすと、蓮はコンビニの袋からサンドイッチを二つ取り出した。一つは卵サンド、もう一つはツナサンド。
「ほら、湊はこっちだろ?卵」
「……どうして、それを」
「昨日、お前が言ったんだよ。『卵サンドがあれば、大抵のことはどうでもよくなる』ってさ」
蓮はこともなげに笑う。湊は差し出されたサンドイッチを受け取った。ふわりと香るマヨネーズとパンの匂い。昨日、自分が確かにそう言ったのだろう。だが、その記憶はない。目の前の青年は、湊が忘れてしまった無数の「昨日」を知っている。その事実が、胸に小さな棘のように刺さった。
それでも、蓮と過ごす時間は不思議なほど心地よかった。彼の話はいつも面白く、湊が黙り込んでも、気まずい沈黙が流れることはなかった。風が頬を撫で、遠くで聞こえる喧騒が心地よいBGMになる。この男となら、ずっと一緒にいられるかもしれない。ノートに書かれていた「親友」という言葉が、すとんと胸に落ちてくるような感覚があった。
夕暮れがキャンパスを茜色に染める頃、二人は別れた。
「じゃあな、湊。また明日」
蓮はいつもと同じように手を振って去っていく。その背中を見送りながら、湊は込み上げてくる感情に名前をつけられずにいた。感謝、安堵、そして深い、深い罪悪感。
自室に戻り、湊は再びノートを開いた。新しいページに、今日一日の出来事を書き連ねていく。蓮が話してくれた冗談、屋上で感じた風の匂い、彼が自分に向けてくれた屈託のない笑顔。そして、最後にこう書き加えた。
『明日の僕へ。月島蓮は、本当に君の親友だ。彼は、君が忘れてしまう悲しみを一人で背負ってくれている。だから、絶対に彼を傷つけるな。彼と過ごす一日を、大切にしろ』
ペンを置き、湊はベッドに潜り込んだ。明日になれば、また蓮の記憶は消えてしまう。この温かい感情も、感謝の気持ちも、すべてがリセットされる。それでも、と湊は思う。明日の自分が、今日の自分と同じように、彼と出会い直し、同じように友情を感じてくれることを、ただ願うしかなかった。
第二章 積み重ならない想い
季節は巡り、キャンパスの銀杏並木が鮮やかな黄色に染まる頃になっても、湊の日常は何も変わらなかった。毎朝、見知らぬ「親友」の存在に戸惑い、ノートを読み、蓮と出会い直し、そして夜にはすべてを忘れる。まるで終わりのないエチュード(練習曲)を、来る日も来る日も繰り返しているかのようだった。
湊にとって、蓮と過ごす時間は日々の救いだった。しかし同時に、それは耐え難い苦痛にもなっていた。共有したはずの笑いも、交わしたはずの約束も、湊の中には何も残らない。友情という名の建造物を、毎日ゼロから組み上げては、夜の間に跡形もなく崩される。その虚しさが、じわじわと心を蝕んでいった。
ある日の午後、図書館で本を探していると、蓮が湊の隣にやってきた。
「これ、探してたんだろ?」
差し出されたのは、湊が先週からずっと探していた古い写真集だった。
「どうして……」
「お前、一週間前に『この写真家の初期作品が見たい』って言ってたからさ。ずっと探してたんだよ。ようやく見つけた」
蓮は得意げに笑う。その笑顔が、湊の胸を鋭く抉った。一週間前。湊には存在しない時間だ。蓮の中には、湊と共に過ごした時間が着実に積み重なっている。しかし、湊の中には何もない。空っぽの棚が延々と続いているだけだ。
「……ありがとう」
かろうじて礼を言うと、湊は写真集を受け取ってその場を走り去った。蓮の戸惑う声が背後で聞こえたが、振り返ることはできなかった。自分が、蓮の優しさを踏みにじっているように思えてならなかった。蓮が積み上げてくれる思い出を、自分は毎晩ゴミ箱に捨てているのと同じではないか。
その夜、湊はノートに初めて蓮への疑問を書きつけた。
『どうして君は、こんな俺のそばにいてくれるんだ?』
一方、蓮もまた、見えない壁に苦しんでいた。湊の記憶がリセットされるたび、二人の関係も振り出しに戻る。昨日交わした親密さは消え、今朝の湊はまた、警戒心を滲ませた瞳で蓮を見る。それでも蓮は、毎日笑顔で声をかけ続けた。それが自分の選択であり、覚悟だと決めていたからだ。
時折、蓮は湊の寝顔を想像することがあった。穏やかな寝息を立てる彼の頭の中から、自分の存在が静かに消えていく様を。それはまるで、丁寧に描いた砂絵が、波に攫われていくのを見ているような、途方もない無力感だった。
それでも、蓮は諦めなかった。記憶が残らなくても、心が何かを覚えているかもしれない。昨日と同じジョークで湊が笑った時、以前勧めたコーヒーを彼が注文した時、蓮の心には小さな希望の灯がともる。失われることを恐れるのではなく、今日という一日に、新しい思い出を刻みつける。蓮はそう自分に言い聞かせ、また次の朝日を待つのだった。
湊の焦燥と、蓮の献身。二人の友情は、決して交わることのない平行線の上で、危ういバランスを保ちながら続いていた。積み重ならない想いは、やがて見えない重荷となって、二人の心を軋ませ始めていた。
第三章 ひび割れた真実
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。重苦しい灰色の空が、湊の心模様を映しているかのようだった。いつものように蓮と出会い直し、学食で昼食をとっていた時、事件は起きた。
学食のトレイを運んでいた学生が足を滑らせ、湊たちのテーブルのすぐそばで派手に転倒した。食器が床に叩きつけられ、ガラスの割れる甲高い音が響き渡る。その瞬間、湊の頭を閃光のような痛みが貫いた。
―――キィィィッ!という耳障りなブレーキ音。誰かの悲鳴。アスファルトに叩きつけられる衝撃。そして、目の前で血を流して倒れる、見慣れた後ろ姿。
「うっ……あぁっ!」
湊は頭を抱えてその場にうずくまった。断片的で、しかし恐ろしいほど鮮明なビジョン。脳が焼き切れそうなほどの激痛が走る。
「湊!どうした、しっかりしろ!」
蓮が駆け寄り、その肩を支える。湊は、ぜえぜえと荒い息をつきながら、蓮の顔を見上げた。心配そうに自分を覗き込むその瞳。その瞳を、自分は知っている。あの時も、同じ瞳で自分を見ていた。
「……あれは、何だ?」湊はかすれた声で尋ねた。「今、見えた……事故の光景は、何なんだ?君は、何か知ってるんじゃないのか?」
蓮の顔から、すっと血の気が引いた。その表情が、湊の疑念を確信へと変えた。
「教えてくれ、蓮!俺のこの記憶障害は、事故の後遺症なのか?俺は、一体何を忘れてるんだ!」
蓮は唇を固く結び、しばらく黙り込んでいた。学食の喧騒が、急に遠い世界の出来事のように感じられる。やがて、彼は観念したように深く息を吐き、静かに口を開いた。
「……話すよ。全部。でも、ここじゃダメだ。場所を変えよう」
二人が向かったのは、大学の裏手にある小さな公園だった。雨に濡れたブランコが、寂しげに揺れている。雨音だけが響く静寂の中、蓮はぽつりぽつりと語り始めた。湊が予想していたものとは、全く異なる真実を。
「一年前、俺たちは事故に遭った。お前が見たビジョンは、その時のものだ。でも……怪我をしたのは、お前じゃない。俺の方だ」
蓮の言葉に、湊は息を飲んだ。
「トラックが、信号無視して交差点に突っ込んできた。お前を庇って、俺が轢かれたんだ。意識不明の重体で、医者からは……もう、覚悟してくださいって言われてた」
湊の心臓が、氷の塊になったように冷えていく。
「お前は、毎日病院に来て、俺の手を握って、泣いてた。そして……ある日、どこかで聞きつけてきた古い言い伝えに、お前は手を出したんだ」
「言い伝え……?」
「ああ。『一番大切な記憶を捧げることで、奇跡を呼び起こす』っていう、馬鹿げたおまじないだ。お前は、それに縋った。俺の病室で、お前は願ったんだ。『蓮が助かるなら、あいつと築いてきた一番大切な記憶を、俺は毎日捧げ続ける』って」
その言葉は、雷鳴のように湊の頭に響いた。自分の記憶障害は、事故の後遺症などではなかった。蓮を救うために、自分自身が課した、呪いにも似た代償だったのだ。
「お前がそう願った翌日、信じられないことに、俺の容態は奇跡的に回復した。でも、代わりに……お前は、俺に関する記憶を、一日しか保てない体になった。目を覚ました俺を、お前はまるで初対面みたいに見てたよ。あの時の顔は、一生忘れられない」
蓮はそう言って、辛そうに顔を歪めた。
「だから、俺は決めたんだ。お前が俺のために捨ててしまった思い出を、今度は俺が、毎日お前にプレゼントし続けようって。お前が俺を忘れても、俺が覚えていればいい。毎日、ゼロからだって友達になればいい。それは、お前がくれた命への、俺なりの恩返しなんだ」
雨が、二人の間を隔てるように降りしきる。湊は、言葉を失って立ち尽くしていた。自分が忘れていたのは、単なる友人との記憶ではなかった。命を懸けて守りたいと願った、かけがえのない親友との絆そのものだったのだ。ひび割れた真実の欠片が、鋭い刃となって湊の心を深く、深く切り裂いた。
第四章 忘却のエチュード
真実の重圧に、湊は押し潰されそうだった。自分の愚かな願いが、蓮をどれだけ苦しめてきたのだろう。記憶を失う自分よりも、忘れられる痛みを知りながら、毎日笑顔を作り続けてきた蓮の方が、よほど辛かったに違いない。
「……もう、やめよう」
湊は、絞り出すような声で言った。
「こんなこと、もうやめよう、蓮。君をこれ以上苦しめるのは耐えられない。明日からはもう、俺に構わないでくれ」
それは、湊が自分自身に下す罰だった。蓮を解放するためには、孤独になるしかない。そう思った。
しかし、蓮は静かに首を横に振った。雨に濡れた髪が、彼の額に張り付いている。
「苦しいだけじゃないよ、湊」
蓮はまっすぐに湊の目を見て言った。
「確かに、毎朝お前に忘れられるのは寂しいさ。でもな、悪いことばかりじゃないんだ。毎日、新しいお前に出会える。俺のことを何も知らないお前が、戸惑いながらも、だんだん心を開いてくれる。そして、一日の終わりには、ちゃんと俺を『親友』だって認めてくれる。……毎日、お前に好きになってもらえるチャンスがあるんだ。それって、俺にとっては最高のプレゼントなんだよ」
その言葉は、湊が抱えていた罪悪感を、温かい光で包み込むようだった。蓮は、これを罰だとも、苦しみだとも思っていなかった。彼は、この奇妙で不完全な関係性の中に、喜びを見出していたのだ。
湊の頬を、雨とは違う熱い雫が伝った。失われた過去を嘆き、積み重ならない未来を憂うことばかりに囚われていた自分を恥じた。大切なのは、記憶の量ではない。たとえ一日で消えてしまうとしても、「今、この瞬間」を共に過ごし、心を交わすことの尊さではないのか。
「……ありがとう、蓮」
湊は、心の底からそう言った。
「俺、間違ってた。忘れることを怖がるんじゃなくて、今日一日を、君と一緒に全力で生きることにするよ」
湊は蓮に向かって、はにかむように微笑んだ。それは、記憶に頼らない、心が紡ぎ出した本物の笑顔だった。
その夜、湊はノートの最後のページを開いた。そして、決意を込めた文字で、最後のメッセージを書き記した。
『明日の僕へ。朝、目覚めた君は、きっと僕が誰かを忘れていることに気づくだろう。その人の名前は、月島蓮。彼は君の、かけがえのない親友だ。記憶にはなくても、君の魂は彼のことを覚えているはずだ。だから、何も恐れることはない。窓の外を見てごらん。きっと彼が、太陽みたいな笑顔で君を待っている。さあ、新しい一日を始めよう。僕たちの、終わらないエチュードの、新しい楽章を』
ペンを置き、湊は穏やかな気持ちで眠りについた。
翌朝。窓から差し込む眩しい光で、湊は目を覚ました。体は軽く、世界が昨日までとは少し違って見える。机の上のノートが目に入る。彼はそれを手に取り、最後のページを開いた。そこに書かれた文章を、ゆっくりと目で追う。
月島蓮。
その名前を呟いた時、窓の外から、弾むような声が聞こえた。
「湊、いるか?大学行こうぜ!」
湊は、少し戸惑いながらも、吸い寄せられるように窓を開けた。そこには、朝日に照らされて眩しそうに目を細めながら、大きく手を振る青年がいた。色素の薄い髪。人懐っこい笑顔。全く知らないはずの顔。
なのに、なぜだろう。
彼の姿を見た瞬間、湊の胸の奥深くで、何かが温かく灯るのを感じた。まるで、長い間待ちわびていた誰かに、ようやく再会できたかのような、懐かしい喜び。
湊の口元に、無意識のうちに柔らかな笑みが浮かんでいた。
「……ああ、おはよう」
新しい一日が、また始まる。記憶ではなく、魂が奏でる友情のエチュードが、今日、この瞬間から、再び始まるのだ。