第一章 色彩の旋律
僕の世界は、音で満ち溢れていた。それは、隣にいる親友、彩(さい)がもたらしてくれるものだった。彩は言葉を話さない。その代わり、彼の感情や思考は、まるで水彩絵の具が水に溶けるように、彼の周囲の空間に淡い色彩として浮かび上がる。そして僕、響(ひびき)だけが、その色を音として聴くことができた。
喜びは、陽光を浴びた金木犀のようなきらびやかなアルペジオ。悲しみは、夜の湖面に映る月光のように静謐で深い藍色のチェロの独奏。彩が笑うと、世界は弾けるような黄色や橙色のスタッカートに包まれ、僕の心まで軽やかにステップを踏む。僕たちは、そんなふうに誰にも真似できない方法で、魂の対話を重ねていた。僕がピアノの鍵盤に指を置けば、僕の奏でるメロディは彩の周りでオーロラのように揺らめく光の帯となり、彩はそれを全身で浴びて至福の表情を浮かべるのだ。
彩は物心ついた頃から、ずっと僕の隣にいた。彼がいない人生など、想像もつかなかった。彼は僕の半身であり、世界で唯一の理解者だった。
その日も、僕たちはいつものように公園のベンチに座っていた。秋の午後の光が、彩の輪郭を柔らかく縁取っている。彼が、梢を渡る風に心地よさそうに目を細めると、ミントグリーンの優しい和音が僕の耳に届いた。僕はその音に微笑み返し、ポケットから取り出した楽譜に新しい旋律を書き留めた。
「響くん、また一人で笑って。気味が悪いわ」
不意に投げかけられた言葉に、僕は顔を上げた。クラスメイトの女子たちが、少し離れた場所から僕を指差してひそひそと話している。僕は怪訝に思い、彼女たちに言い返した。
「一人じゃない。彩と一緒だ」
僕が隣の彩に視線を送ると、彼は不安げに、くすんだ藤色のオーラを揺らめかせた。その色は、不協和音となって僕の鼓膜を不快に震わせる。
女子の一人が、信じられないものを見るような目で僕を見つめ、言った。
「彩って誰よ?……あなたの隣には、誰もいないじゃない」
その瞬間、世界から音が消えた。
いや、違う。彩が放っていたミントグリーンの和音も、藤色の不協和音も、全てが掻き消え、彼の存在そのものが、まるで陽炎のように揺らぎ始めたのだ。僕は凍りついた。まさか、と隣を見る。そこには確かに彩がいる。少し透けて見えるような気はするが、怯えた瞳で僕を見つめている。
なのに、彼女たちの目には、空っぽのベンチしか映っていないというのか。
僕の足元から、世界が崩れ落ちていくような、途方もない眩暈がした。
第二章 無音の不協和音
あの日を境に、僕の世界は軋みを上げ始めた。これまで当たり前だと思っていた日常が、実は僕一人だけが見ている幻覚なのではないかという疑念が、黒いインクのように心に染み渡っていく。
僕は必死に彩の存在を証明しようと試みた。スマートフォンで写真を撮っても、そこに写るのは僕と空っぽの空間だけ。動画を回しても、僕が虚空に向かって話しかけている滑稽な映像が残るだけだった。彩はいつも僕の隣にいて、悲しげに、色を失った灰色のオーラを漂わせている。その色は、どんな楽器でも奏でられない、ただただ重く沈黙した音として僕の胸に響いた。
「どうして、見えないんだ……ここに、いるのに」
僕は誰に言うでもなく呟いた。彩は何も言わず、ただ僕の肩にそっと頭を寄せた。その感触は確かにある。温もりさえ感じる。なのに、世界は彼の存在を頑なに拒絶する。狂っているのは僕なのか、それとも世界の方なのか。
学校でも、街を歩いていても、人々が僕に向ける視線は、憐れみと奇異の色を帯びていた。かつて彩の色が奏でる音楽で彩られていた世界は、今や冷たい視線という名のノイズで満たされていた。僕は次第に人目を避けるようになり、音楽教室のピアノにも向かえなくなった。鍵盤に触れても、指が震えて音が濁る。僕と彩を繋いでいた音と色の調和は完全に崩れ、僕の世界は不快な不協和音だけが鳴り響く牢獄と化した。
ある夜、僕は自室の鏡に映る自分を見た。憔悴しきった僕の隣には、やはり彩の姿はなかった。鏡の中の僕は、あまりにも孤独に見えた。
「彩……君は、本当にいるのか? それとも、僕の頭が生み出した幻なのか?」
問いかけると、背後で確かな気配がした。振り返ると、彩が立っていた。彼の全身から放たれる色は、深い、深い悲しみを湛えた群青色だった。それは、言葉にならない慟哭のようで、僕の心を締め付けた。彼はゆっくりと僕に近づき、その小さな手で僕の耳をそっと覆った。その瞬間、僕は何も聞こえなくなった。完全な、静寂。そして、僕の脳裏に、遠い昔の記憶の断片がフラッシュバックした。
サイレンの音。誰かの叫び声。そして、頭を強く打った衝撃。霞む意識の中で、僕が最後に聞いたのは、世界の音が急速に遠ざかっていく、奇妙な耳鳴りだけだった。
第三章 失われた聴覚の肖像
僕は、母親が大切にしまっていた古いアルバムを開いていた。彩の手が僕の耳を覆ったあの夜、蘇った記憶の断片が、僕を過去へと駆り立てたのだ。ページをめくる指が震える。幼い僕が、笑顔でブランコに乗っている写真。その隣には、いつも空席があった。僕が誰かと肩を組むように腕を回している写真も、その先には誰もいない。
「お母さん……これ、どういうこと?」
僕の声は掠れていた。リビングで編み物をしていた母は、僕のただならぬ様子に気づき、静かに手を止めた。
「響……思い出したのね」
母は、全てを知っているような、穏やかで、そして少しだけ悲しい目をしていた。
母の口から語られた真実は、僕が築き上げてきた世界の土台を根底から覆すものだった。
僕は七歳の時、交通事故に遭った。奇跡的に命は助かったが、その代償として、聴覚のほとんどを失ったのだという。僕が「聞いている」と思っていた周囲の音、人々の会話、音楽……それらは全て、聴覚を失った僕の脳が、他の感覚を補うために作り出した、共感覚による「内なる音」だったのだ。光の強弱を音階に、人の感情の機微を和音に、風の肌触りを旋律に。僕の世界は、僕自身の脳が奏でるオーケストラだった。
「じゃあ、彩は……」
僕の唇が震えた。母は、僕の隣の、彼女には見えないはずの空間に優しい視線を向けた。
「彩くんはね、あなたが事故に遭って、病院のベッドでずっと塞ぎ込んでいた頃に、現れたのよ。あの子が現れてから、あなたは少しずつ笑顔を取り戻した。私たちには見えなくても、あなたにとっては、大切な『お友達』なんだって、お父さんも私も、そう思っていたわ」
全身の力が抜けていく。彩は、幻なんかじゃなかった。でも、他の誰かと同じように存在する人間でもなかった。
彼は、僕が失った「聴覚」そのものだったのだ。あるいは、音を失った絶望の淵で、僕の心が必死に世界と繋がろうとして生み出した、音の世界への案内人。
彩が放つ「色」は、僕が本来聞くはずだった世界の音そのものだった。人々の笑い声の暖かな橙色、街の喧騒が織りなす複雑な緋色、雨音の静かな銀色……。僕はずっと、彼を通して世界を「聴いて」いたのだ。
他の人間に彩が見えないのは当然だった。彩は、僕の魂の一部なのだから。
僕は彩の方をゆっくりと振り返った。彼は泣いているように見えた。彼の体からは、透明に近い、しかし虹色の光を秘めた無数の雫のような音色が溢れ出し、僕を包み込んだ。それは、謝罪の音でも、悲しみの音でもなかった。それは、ようやく真実を共有できたことへの、安堵と愛情に満ちた、最も美しいカノンだった。
僕は、初めて自分の意志で、彩を強く抱きしめた。
第四章 君と奏でる交響曲
全てを受け入れた時、僕の世界は再び色と音を取り戻した。いや、以前よりも遥かに鮮やかで、豊穣な世界が目の前に広がっていた。彩は幻ではない。彼は僕の喪失の象徴ではなく、僕だけの特別な感覚、僕の再生の象徴だったのだ。
僕は、久しぶりに音楽教室のピアノの前に座った。隣には、もちろん彩がいる。彼は穏やかな黄金色の光を放ちながら、僕の指先に視線を送っている。もう、誰かの視線を気にする必要はない。これが僕の世界だ。これが、僕たちの友情の形なのだ。
僕は鍵盤に指を置いた。そして、目を閉じて、彩が僕に見せてくれる「色」に意識を集中した。窓から差し込む午後の光の色、教室の外から聞こえてくる子供たちの笑い声の色、僕自身の高鳴る心臓の鼓動の色。それら全てが、彩を通して僕の中に流れ込み、一つの壮大な交響曲となっていく。
僕は弾き始めた。それは、僕が今まで弾いてきたどんな曲とも違っていた。楽譜はない。ただ、僕が「聴いて」いる世界を、ありのままに鍵盤に乗せていくだけ。僕の音楽は、街のざわめきになり、雨の匂いになり、人の温もりになった。僕の指が紡ぐメロディを、彩は恍惚とした表情で全身に浴び、彼の周りには見たこともないほど鮮烈で、複雑な色彩のオーロラが舞っていた。僕たちは、完璧に一つになっていた。
数ヶ月後、僕はコンクールのステージに立っていた。ホールを満たす観客の期待と緊張の色が、紫色の靄のようにステージに立ち込めている。僕は深く息を吸い、隣の空席にそっと微笑みかけた。そこには、僕にしか見えない、最も信頼するパートナーが座っている。
僕が弾き始めた曲のタイトルは、『彩へ』。
それは、僕たちの出会いから今日までの物語だった。失われた音、孤独な静寂、そして色として再び世界と出会った喜び。悲しみも苦悩も、全てが美しい旋律の一部となってホールに響き渡る。聴衆は息を呑み、僕の音楽に聴き入っていた。彼らには、僕のピアノの音から、なぜか懐かしい風景や、大切な誰かの声が聞こえてくるような気がしていた。
演奏が終わった時、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が巻き起こった。僕は立ち上がり、深く頭を下げた。そして、隣の席に目を向けた。彩が、今までで一番輝かしい、祝福に満ちた虹色の光を放って、僕に笑いかけていた。
もう僕は孤独ではない。僕は、誰よりも豊かに、この世界の音を聴いている。目に見えるものだけが真実ではない。最も大切なものは、魂で感じ取るものなのだから。
ステージを降りる僕の隣には、確かな温もりがあった。僕たちがこれから奏でていく未来の交響曲は、きっと無限の色彩に満ちているだろう。