第一章 幸福の売値
霧島朔(きりしま さく)の仕事場は、古びたビルの最上階にあった。窓の外には、無数のネオンが作り出す偽物の星空が広がっている。彼の職業は、言葉にするには少しばかり奇妙だ。「忘却買取人(メモリー・バイヤー)」。特殊なヘッドギア型のデバイスを使い、依頼人が消し去りたいと願う記憶を買い取り、自身の精神領域にアーカイブする。それが彼の生業だった。
買い取る記憶の大半は、インクの染みのようにどす黒く、不快な手触りをしていた。裏切りの記憶、失敗の記憶、加害の記憶、そして耐え難い喪失の記憶。朔はそれらを感情を排して受け取り、データとして分類し、心の書庫の奥深くへと仕舞い込む。他人の苦痛を対価に、彼は静かな孤独を生きていた。
その日、ドアベルを鳴らしたのは、背中の丸まった小柄な老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い年月の物語を秘めているように見える。老婆は、千代(ちよ)と名乗った。
「あのう、こちらでは……記憶を、買い取ってくださると聞きました」
か細いが、芯のある声だった。朔は無言で頷き、革張りのソファを勧める。いつものように、事務的な口調で切り出した。
「どのような記憶を? 忘れたい理由と共に、簡潔にお願いします。査定額は、記憶の鮮明度、感情の強度、そして忘却を望む切実さによって変動します」
千代は震える手で、古びたハンドバッグの留め金を外した。だが、彼女の口から紡がれた言葉は、朔の予測を完全に裏切るものだった。
「買い取っていただきたいのは……私の人生で、たった一日だけの、とても幸せだった記憶なのです」
朔の眉が、わずかに動いた。幸せな記憶? 誰もが胸に抱きしめておきたいと願うはずのものを、なぜ売るというのか。これまで買い取ってきた何千もの記憶の中に、そんな依頼は一件としてなかった。それはまるで、自ら心臓を抉り出して売り払うような行為に思えた。
「……理由をお聞かせ願えますか。当方では、苦痛を伴う記憶を専門としております。幸福な記憶の売却は、前例がありません」
朔の声には、自分でも気づかないうちに、わずかな戸惑いが滲んでいた。
千代は、窓の外の偽物の星空に目を細めた。その瞳は、遠い過去を見つめているようだった。
「あの記憶は、宝物でした。けれど、歳月と共に、その輝きが私の心を焼くようになったのです。美しすぎた思い出は、やがて棘になる。……忘れることが、私にとって最後の優しさなのです。誰に、対してかは……もう、分かりませんけれど」
その言葉は、悲痛な祈りのように朔の耳に響いた。彼は、この奇妙な依頼の奥に、これまで触れたことのない種類の、深く静かな絶望が横たわっているのを感じ取った。これは単なる取引ではない。何かが、始まろうとしていた。彼は深く息を吸い込み、目の前の老婆に向き直った。
「分かりました。お引き受けします。その記憶、見せていただけますか」
朔は、冷たい金属のヘッドギアを手に取った。その表面が、部屋の乏しい光を鈍く反射していた。
第二章 陽だまりの残像
デバイスの起動音が、静かな室内に低く響く。朔は千代の皺深いこめかみに、そっと電極パッドを貼り付けた。彼女の肌は、乾いた和紙のように薄く、冷たかった。朔自身もヘッドギアを装着し、意識を同調させる。瞼を閉じると、他人の過去へと続く、見えない扉が開いた。
ノイズ混じりの映像が、徐々に輪郭を結んでいく。
まず感じたのは、柔らかな陽光の暖かさだった。頬を撫でる風には、初夏の若葉と土の匂いが混じっている。視界が開けると、そこは見知らぬ公園だった。高く伸びたポプラの木々が、心地よい木陰を作っている。視線は、若い頃の千代のものだった。彼女の隣には、一人の青年が座っていた。日に焼けた肌に、少し癖のある黒髪。笑うと、白い歯がこぼれた。
『この木、なんていう名前か知ってる?』
青年の声が、朔の脳内に直接響く。それは、千代が聞いた音そのものだった。
『さあ……。でも、見て。葉っぱが光に透けて、翡翠みたいに綺麗』
千代の若い声が、楽しそうに弾む。
二人の間に流れる時間は、ひどく穏やかだった。特別な会話があるわけではない。ただ、ベンチに座り、移ろいゆく雲を眺め、時折、言葉を交わすだけ。だが、そのすべてが、純粋な幸福感に満ちていた。青年が千代に向ける眼差しは優しく、千代が彼に返す微笑みは、一点の曇りもなかった。朔は、他人の記憶の中で、他人の幸福を追体験していた。それは、まるで上質な映画を見ているような、しかし肌で温度や風を感じる、不思議な感覚だった。
やがて陽が傾き、空が茜色に染まる頃、青年は立ち上がった。
『もう行かないと。じゃあ、また』
彼はそう言って、手を振って去っていく。千代は、その背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。記憶はそこで途切れた。
朔が目を開けると、現実世界のオフィスはすでに薄暗くなっていた。デバイスを外すと、千代はぐったりとソファに身を沈め、深く息をしていた。まるで、魂の一部を抜き取られたかのように。
「……ありがとうございました。これで、少しは楽になれるでしょう」
彼女はそう呟き、朔が提示した金額を受け取ると、ふらつく足取りで部屋を出ていった。
一人残された朔は、言いようのない違和感に包まれていた。あまりにも平凡で、あまりにも美しい記憶。なぜ、これを消し去らねばならなかったのか。千代の言った「最後の優しさ」とは、何を意味するのか。
通常、買い取った記憶を個人的に詮索することは、彼の流儀に反していた。それは、依頼人との信頼関係を損なう禁忌。しかし、朔の心には、あの陽だまりの残像が焼き付いて離れなかった。あの青年の、屈託のない笑顔が。
気づけば、朔はアーカイブされた記憶データにアクセスし、青年の顔写真を画像として抽出していた。そして、旧い新聞記事のデータベースを検索し始める。胸騒ぎが、彼を禁じられた領域へと駆り立てていた。
第三章 忘却の在り処
検索結果は、数時間後、朔の心を凍りつかせる記事を画面に映し出した。
『首都圏連続児童誘拐事件、容疑者の顔写真を公開』
そこに写っていたのは、千代の記憶の中にいた、あの青年だった。記事によれば、彼の名前は、高槻 和也(たかつき かずや)。三十年前、世間を震撼させた事件の重要参考人として全国に指名手配されたが、その後、忽然と姿を消し、事件は未解決のまま迷宮入りとなっていた。
そして、朔の全身から血の気が引いた。高槻和也――それは、幼い頃に誘拐され、行方不明になった朔自身の、実の兄の名前だった。
朔の記憶の中の兄は、いつも曖昧な輪郭をしていた。優しかったこと、よく頭を撫でてくれたこと。断片的な思い出だけが、心の奥底に化石のように残っている。両親は兄が「いなくなった」とだけ教え、事件の詳細は固く口を閉ざした。世間が兄を誘拐犯の容疑者として扱っていたことなど、朔は知る由もなかった。彼がこの仕事を始めたのは、無意識のうちに、失われた兄の記憶の断片を、他人の記憶の中から探し求めていたからなのかもしれない。
全身が激しく震えた。自分の探していた答えが、こんな形で、しかも依頼人の「忘れたい幸福な記憶」の中に封じ込められていたとは。朔は愕然とした。千代は、兄が指名手配された後、警察の捜査線上に浮上した唯一の目撃者だったのだ。彼女は兄を庇い、彼と会った日のことを固く口止めしたのだろう。だが、世間の非難と、彼を守れなかった罪悪感、そして彼が凶悪犯かもしれないという恐怖が、数十年の歳月をかけて、あの美しい記憶を呪いへと変えてしまったのだ。忘れることでしか、彼女は自分を保てなかった。忘れることは、彼女にとって、兄を裁く世間から、そして自身の罪悪感から、あの日の純粋な思い出を守るための、歪んだ防衛手段だったのだ。
朔の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れていく。今までただのデータとして処理してきた「記憶」が、生々しい意味と重みを持って彼に迫ってきた。買い取った記憶は、単なる過去の記録ではない。それは、誰かの人生そのものであり、誰かの魂の叫びだった。
朔は、自らの書庫にアーカイブした、兄と千代の記憶を再び再生した。陽光、風の匂い、兄の優しい声。これは、凶悪犯の記憶などではない。これは、紛れもなく、霧島朔が知らなかった、兄・高槻和也の、優しさに満ちた真実の一片だった。
涙が、彼の頬を静かに伝った。それは、何十年もの間、心の奥底で凍りついていたものが、ようやく溶け出した瞬間だった。彼は、この記憶をどうすべきか、答えを見つけなければならなかった。
第四章 記憶の継承者
翌日、朔は千代が暮らす古いアパートを訪ねた。ドアを開けた千代は、一瞬驚いた顔をしたが、静かに彼を招き入れた。陽光が差し込む小さな部屋には、古いが手入れの行き届いた家具が並んでいた。
「ご依頼の件で、お伝えしたいことがあります」
朔は、まっすぐに千代の目を見て言った。
「あの記憶にいた青年……高槻和也は、私の兄です」
千代の瞳が、大きく見開かれた。彼女は息を呑み、言葉を失った。朔は、自分の過去、兄を失った経緯、そして何も知らずに生きてきたことを、静かに語った。
「あなたが、あの記憶を手放したかった理由が、分かりました。兄を守れなかった罪悪感と、世間からの非難が、あなたを苦しめ続けたのですね。だから、一番幸せだった記憶ごと、蓋をした」
千代の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、三十年間、誰にも見せることのできなかった涙だった。
「あの子は……和也さんは、優しい人でした。ただ、居場所がなくて、寂しい目をしていた。あの日、公園で話したのが最後でした。悪い人だなんて、どうしても思えなかった……。でも、私には何もできなかった。私が黙っていたから、真実が闇に葬られたのかもしれない。だから、思い出すのが辛くて……」
朔は、静かに首を振った。
「いいえ。あなたは兄を守ろうとした。そのせいで、一人で重荷を背負ってきた。もう、十分です」
彼は懐から小さなデータチップを取り出した。中には、千代から買い取った記憶が保存されている。
「この記憶を、お返しします。ですが、ただ返すわけではありません」
朔は続けた。
「この記憶は、もうあなたの罪悪感の象徴ではありません。これは、高槻和也という人間が、確かにこの世界に存在し、誰かを心から幸せにしたという、何物にも代えがたい証拠です。僕が、この記憶を預かります。僕が、兄の記憶と共に生きていきます」
それは、忘却買取人としてのルールを逸脱した、前代未聞の提案だった。他人の記憶を、自らの人生の一部として引き受けるという宣言。
千代は、嗚咽を漏らしながら、何度も頷いた。彼女の顔には、長年の苦しみから解放されたような、安らかな表情が浮かんでいた。
オフィスに戻った朔は、窓の外に広がる夜景を見つめていた。彼の心の書庫には、今、一つの温かい光が灯っている。それは、兄と千代が過ごした、陽だまりの記憶。彼はもう、単なる記憶の保管人ではない。失われた記憶の意味を問い直し、その価値を未来へと繋ぐ「記憶の継承者」となったのだ。
兄の事件の真相が明らかになったわけではない。世間の評価が変わるわけでもない。だが、朔の中には、確かなものが芽生えていた。兄は、確かに生きていた。そして、優しかった。その事実だけで、十分だった。
彼はこれからも、忘却を求める人々の記憶を買い取り続けるだろう。だが、その意味は大きく変わった。一つ一つの記憶に宿る魂の重みを感じながら、彼は生きていく。空虚だった心は、数多の物語と、たった一つの陽だまりの記憶によって、静かに満たされていた。