忘却のアーカイブ

忘却のアーカイブ

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第一章 忘却の対価

冷たいジェルがこめかみに塗り広げられる感触で、相馬レンは意識を現実へと引き戻す。目の前の男は、痩せこけた頬に不健康な光を宿し、ヘッドギアが装着されるのを待っていた。ここは「エウテルペ・メモリーズ」社のブース。レンの職場であり、人々が不要な記憶を売りに来る場所だ。

「本日、お売りになる記憶は?」

レンは、感情を排した事務的な声で尋ねる。彼の仕事は、クライアントが差し出す「忘れたい過去」をデータとして抽出し、適正価格で買い取ること。買い取られた記憶はサーバーの奥深くでアーカイブされ、二度と持ち主の心を苛むことはない。忘却に、値段がつく時代だった。

「借金取りに……追い詰められた、三日間の記憶だ」男はどもりながら言った。「あの恐怖を、消してほしい。もう眠れないんだ」

レンは頷き、コンソールのパネルを操作する。恐怖、苦痛、後悔。そういった強い負の感情を伴う記憶ほど、高値で取引される。需要があるからだ。ある種のセラピーとして、あるいは倒錯したエンターテイメントとして、他人の絶望を消費する富裕層がいる。レンの仕事は、その巨大な忘却市場の末端を担っていた。

抽出プロセスが始まると、男の身体が小刻みに震え、やがて虚ろな目で宙を見つめた。モニターには、意味をなさない光の明滅と、断片的な音の波形が表示される。ドアを叩く音、怒声、心臓の鼓動。レンはそれらをただのデータとして処理する。かつては胸がざわついたが、今はもう何も感じない。摩耗した心は、他人の不幸に対して鈍感になることで自身を守っていた。

プロセスが完了し、男は解放された。彼の口座には、三日間の地獄の対価として、わずかな金が振り込まれる。それで次の家賃が払えるのだろうか。

「ありがとうございました」男はふらつきながら立ち上がり、まるで憑き物が落ちたかのように、少しだけ軽い足取りでブースを出ていった。彼の頭からは恐怖が消え、レンの手元にはその恐怖のデータが残った。

レンは、買い取ったばかりの記憶を自身の検証用デバイスで再生する。これは義務だった。買い取った記憶に欠損がないか、商品としての価値があるかを確認するためだ。ヘッドセットを装着すると、視界がノイズに覆われ、耳の奥で他人の心臓が鳴り響く。狭いアパートの闇、ドアを蹴破らんばかりの衝撃、喉元までせり上がる絶望感。数分間の追体験。それが終わると、いつも深い疲労感だけが残った。レンは、他人の絶望を濾過するフィルターのような存在だった。

そんな日々が続くと思っていた。あの日、古びたワンピースを着た一人の老婆が、彼のブースの前に立つまでは。

「あのう、記憶を、買い取っていただけますか」

しわがれた、しかし凛とした声だった。レンはいつものように尋ねる。

「どのような記憶でしょう。差し支えなければ」

老婆は困ったように微笑んだ。「それが、わたくしには、忘れたいような辛い記憶は、もう何も残っておりませんで」

レンは眉をひそめた。規定外だ。「では、お売りになる記憶はございませんね」

「いいえ」老婆は首を横に振った。「忘れたい記憶ではございません。ただ、誰にも思い出してもらえなくなった、幸せな記憶を。……買い取ってはいただけませんでしょうか」

その言葉は、レンが築き上げてきた日常の壁に、小さな、しかし確実なひびを入れた。幸せな記憶を売る? そんな前例はない。価値がつかないどころか、会社のシステムが受け付けない。だが、老婆の澄んだ瞳は、ただまっすぐにレンを見つめていた。その眼差しに、レンはなぜか「規則ですから」という一言を、喉の奥に押しとどめてしまった。

第二章 無価値のきらめき

「幸せな記憶、ですか」レンは反芻した。「申し訳ありませんが、弊社では負の感情を伴わない記憶は買い取り対象外です。市場価値がありませんので」

「お金は、ほんの少しで結構なのです。ただ、このまま誰にも知られずに消えてしまうのが、あまりに寂しくて。この記憶だけでも、どこかに残しておいていただけないかと」

老婆の言葉には、奇妙な切実さがあった。レンの心の中で、規則と好奇心がせめぎ合う。彼はこれまで、絶望や恐怖といった「強い」記憶ばかりを扱ってきた。静かで、穏やかな記憶。それは一体、どんな手触りをしているのだろう。

彼はため息をつき、マニュアルにない操作を行った。これは個人的な興味だ、と自分に言い聞かせる。「……今回だけです。ただし、ほとんど値はつきませんよ」

「じゅうぶんです」老婆は安堵したように微笑み、ヘッドギアを装着された。

抽出されたデータは、あまりに微弱だった。感情の振れ幅を示すグラフは凪いだ海のように平坦で、音の波形も鳥のさえずりや風の音といった、環境音ばかり。商品価値はゼロ。本来なら即時消去されるべきデータだ。

老婆が帰った後、レンは衝動に駆られてそのデータを自身のデバイスで再生した。

次の瞬間、彼の意識は、温かい陽光が降り注ぐ、知らない路地に立っていた。土の匂いと、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。古びた木造家屋の塀には、鮮やかなピンク色のツルニチニチソウが絡みつき、ミツバチの羽音がすぐ近くで聞こえた。見上げれば、抜けるような青空と、ゆっくりと流れる白い雲。そこには何のドラマもない。事件も、恐怖も、絶望もない。ただ、穏やかな時間が流れているだけだった。

なのに、なぜだろう。レンの胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。忘れていた感覚だった。まるで、硬く凍り付いていた心が、春の陽射しにゆっくりと融かされていくような。数分間の再生が終わった時、彼の頬を一筋の涙が伝っていた。自分でも理由がわからなかった。

この記憶は、一体何なのだろう。

レンは、会社のデータベースに不正アクセスし、老婆の個人情報を検索した。藤堂(とうどう)さち。七十八歳。そして、彼女のステータス欄には、赤い文字でこう記されていた。

『記録抹消者』

デジタル社会に適応できず、あるいは意図的に拒絶し、公的な個人記録の更新が途絶えた者たち。彼らは社会保障システムのネットワークから弾き出され、存在しない人間として扱われる。仕事も、住居も、医療も、すべてが制限される社会の棄民。レンは、自分の仕事がそうした人々の最後の命綱になっている現実を知ってはいた。彼らが売りに来る記憶は、文字通り命を繋ぐための最後の財産だった。

だが、藤堂さちの記憶は違った。彼女は金のために売ったのではない。忘れられることへの、ささやかな抵抗のために売ったのだ。

レンは、自分が毎日行っている仕事の意味を、初めて根底から問い始めていた。自分は彼らの尊厳を、わずかな金で買い叩いているだけではないのか。忘却を手伝うことは、彼らを社会からさらに見えなくする手伝いをしていることと同義ではないのか。

あの温かい路地の風景が、脳裏に焼き付いて離れなかった。それは無価値なデータなどではなかった。それは、一人の人間が生きてきた証そのものであり、金銭では測れない、確かなきらめきを放っていた。

第三章 灰色の追憶

レンは、藤堂さちが売った路地の風景を、何度も何度も再生した。そのたびに、奇妙な既視感が彼を襲う。古びた木製の電柱、塀の染み、道の曲がり方。まるで、夢の中で見たことがあるような、朧げな懐かしさがあった。

彼はアーカイブ部門の友人に頼み込み、記憶データの地理情報を解析してもらった。数日後、友人から送られてきた座標を見て、レンは息を呑んだ。

そこは、彼が十歳まで住んでいた町の跡地だった。二十年前、大規模な火災で一帯が焼失し、今は再開発された無機質な商業ビルが立ち並んでいるはずの場所。彼の父と母は、その火事で亡くなった。

全身の血が逆流するような感覚に襲われる。偶然か? いや、偶然にしては出来すぎている。藤堂さちとは、一体何者なんだ。

レンは、会社のサーバーのさらに深層、通常はアクセス権限のない創業者たちの記録ファイルにまで手を伸ばした。危険な賭けだった。だが、真実を知るためには手段を選んでいられなかった。暗号化されたファイルをいくつも解き明かし、彼がたどり着いたのは、エウテルペ・メモリーズ社の前身である巨大投資ファンドの古い事業記録だった。

そこに、信じがたい事実が記されていた。

二十年前、その投資ファンドは、あの地域の再開発計画を推し進めていた。しかし、立ち退きに最後まで抵抗した住民がいた。その一人が、小さな町工場を経営していたレンの父親だった。記録には、ファンド側による執拗な圧力、悪質な嫌がらせの数々が、淡々としたビジネス文書として残されていた。そして、火災が発生した日付の直前、レンの父の工場は不渡りを出し、倒産に追い込まれていた。

火事は、事故として処理された。しかし、レンの脳裏に、断片的な記憶が蘇る。深夜の焦げ臭い匂い。けたたましいサイレンの音。そして、炎に包まれる我が家を前に、絶望した顔で立ち尽くす父の姿――。

いや、違う。その記憶は、後に植え付けられたものだ。本当の記憶は? レンは混乱する頭で、必死に記憶の底をまさぐった。

その時、彼は気づいた。藤堂さちの記憶データの中に、再生時には意識していなかった微かな音声が混じっていることに。彼はノイズ除去ソフトを使い、その音声を抽出した。

『――レン、大丈夫だ。父さんが、必ず何とかするからな』

それは、紛れもなく、若き日の父の声だった。

レンは、藤堂さちの記憶をもう一度、今度は全神経を集中させて再生した。温かい路地の風景。優しい陽光。その風景の片隅で、幼いレンの手を握り、必死に笑顔を作ってそう語りかける父の姿が見えた。藤堂さちは、隣の家の窓から、その光景を偶然見ていたのだ。

彼女が売ったのは、ただの風景ではなかった。それは、追い詰められた父親が、息子に見せた最後の愛情の記憶。火事という絶望的な結末から切り離された、たった一片の「幸せ」の断片だった。

そして、レンの父を追い詰めたのは、彼が今勤めている会社そのものだった。

レンは、デスクに突っ伏した。自分がこれまで信じてきたすべてが、音を立てて崩れ落ちていく。彼は、両親を死に追いやったシステムの末端で、そのシステムが生み出した他人の不幸を糧に生きてきたのだ。無知は罪ではなかったかもしれない。だが、知ろうとしなかったことは、紛れもない罪だった。彼の心を満たしたのは、もはや虚無感ではなかった。燃えるような怒りと、深い、深い後悔だった。

第四章 名もなき花の場所

数日後、レンはエウテルペ・メモリーズ社に辞表を提出した。引き留める上司に、彼は何も語らなかった。語るべき言葉は、この会社の人間には届かないとわかっていたからだ。

彼は退職するまでの数日間、自分の権限を最大限に利用した。サーバーの奥深くに沈んでいた、何千、何万という「忘れられたい記憶」のアーカイブにアクセスした。絶望、苦痛、恐怖のデータの中から、彼は砂金を探すように、微かに残された喜びや安らぎ、愛情の断片を探し出した。それは、借金取りに追われる中で見た夕焼けの美しさだったり、病床で握られた手の温もりだったりした。社会が価値なしと断じた、名もなき記憶たち。レンはそれらを丁寧に繋ぎ合わせ、一つの映像データに編集した。それは、忘れられた人々の魂の賛歌のようだった。

荷物をまとめたレンは、藤堂さちが暮らす古いアパートを訪ねた。彼女は、驚いた顔でレンを迎え入れた。

「あの記憶は、お返しします」レンはそう言って、データチップを差し出そうとした。

しかし、さちは静かに首を振った。「いいえ、あれはもうあなたのものです。わたくしには、もうあの記憶を支えるだけの力が残っておりませんから。……ただ、あなたの優しいお父様が、あんな形で亡くなられたことが、ずっと心残りで」

彼女はすべてを知っていたのだ。そして、レンを傷つけないように、ただ静かな風景として、父の最後の愛情を託そうとしてくれたのだ。

レンはチップをポケットにしまい、代わりに口を開いた。「俺にも、記憶があります。火事の後、呆然と道端に座り込んでいた俺に、誰かが温かい毛布をかけて、おにぎりを握らせてくれた。顔は覚えていないけど、優しい声だけが……ずっと耳に残っていました」

さちの目に、涙が滲んだ。「……そうでしたか」

二人の間に、長い沈黙が流れた。それは、二十年の時を超えて、二つの記憶がようやく出会えた瞬間の、静かで神聖な沈黙だった。

レンは今、かつて「記憶買取人」だった自分が、これから「記憶の修復師」になるのだと感じていた。デジタル社会の片隅で、価値がないと切り捨てられた無数の物語を拾い集め、その本当の輝きを取り戻させる。それが、彼の贖罪であり、新たな使命だった。

最後に、彼はあの路地があった場所を訪れた。そこには、かつての面影は何一つなく、冷たいコンクリートとガラスでできたビルが聳え立っているだけだった。だが、レンは立ち止まり、足元に目をやった。アスファルトのわずかな亀裂から、一輪のツルニチニチソウが、かつての記憶と同じ鮮やかなピンク色の花を咲かせていた。

彼はそっと屈み、その花弁に指で触れた。ひんやりとして、しかし確かな生命の感触があった。

社会がどんなに価値を否定しようと、忘却の闇に葬り去ろうと、記憶は死なない。誰かの心の中で、あるいはこんなコンクリートの隙間で、名もなき花のように、ひっそりと、しかし力強く咲き続ける。

その小さな花を見つめながら、レンは静かに微笑んだ。それは、過去と和解し、失われた者たちの物語と共に未来へ歩き出すことを決意した、彼の新しい人生の始まりを告げる微笑みだった。

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