第一章 無色の依頼人
ガラス張りの高層ビルが、合成された快晴の空を無機質に映している。僕、水無月奏(みなづきかなで)は、眼下に広がる整然とした街並みを眺めながら、指先でコンソールの冷たい感触を確かめていた。ここは「感情取引所(センチメント・エクスチェンジ)」の一室。僕の仕事は、クライアントの脳波から特定の感情を抽出し、データ化して商品にすること。人々はそれを「感情調律師」と呼んだ。
かつて絵描きを目指していた僕の指は、今や絵筆の代わりに、感情の波形をなぞるためのスタイラスを握っている。夢破れた僕にとって、この仕事は悪くない妥協点だった。自分の内側から湧き上がる衝動を信じられなくなった僕には、他人の感情を客観的に調整する作業の方が性に合っていた。人々は高揚感や幸福感を買い、退屈や不安を売る。市場は常に活気に満ちていたが、僕自身の心は凪いだままだった。
その日、現れたクライアントは、これまでの誰とも違っていた。上質なシルクのスーツに身を包んだ老人。深く刻まれた皺の一つ一つが、彼の生きてきた時間の長さを物語っていたが、その瞳は驚くほどに空虚だった。まるで、高価な額縁に収められた、何も描かれていないキャンバスのようだった。
「依頼したい感情がある」老人は、乾いた声で言った。「『純粋な悲しみ』を。混じり気のない、本物の悲しみを、可能な限り高純度で」
僕は思わず眉をひそめた。ネガティブな感情は市場での価値が低く、特に「悲しみ」は、誰もが避ける不良債権のような扱いだ。精神安定のために売却されることはあっても、わざわざ買い求める者など、ここ数年で一度も見たことがない。
「失礼ですが、お客様。当取引所には、より上質な『感動』や『感傷』のストックがございます。悲しみに似たカタルシス効果も期待できますが」
「まがい物はいらん」老人は僕の言葉を遮った。「私が欲しいのは、心の奥底が軋むような、本物の喪失感だ。君は腕が良いと聞いている。君自身の感情から抽出してくれて構わない。報酬は、君の言い値で払おう」
自分の感情から。その言葉に、僕の心に微かなさざ波が立った。僕の心はとうに枯れ果て、売れるような価値のある感情など、残っているはずもなかった。だが、老人の瞳の奥に揺らめく切実な光が、僕に「ノー」と言わせなかった。それは、僕がずっと前に捨ててしまったはずの、何かを求める光に似ていた。僕は、この奇妙な依頼を引き受けることにした。それが、僕自身の魂の奥底に眠る、封印された扉を開ける鍵になるとも知らずに。
第二章 失われたパレット
「純粋な悲しみ」の抽出は、困難を極めた。僕は書庫に籠もり、古典的な悲劇映画を何十本も観た。VR装置で仮想の別離を体験しもした。しかし、僕の脳が生成するのは、ありきたりで薄っぺらな感傷の波形ばかり。まるで、上質な絵の具を知らずに、泥水で絵を描こうとしているような無力感に襲われた。僕の感情のパレットは、いつの間にか灰色一色に染まっていた。
焦りが募る日々の中、街角で偶然、息を呑むような光景を目にした。ショーウィンドウに飾られた一枚の絵。燃えるような夕焼けを背景に、一人の少女がこちらに背を向けて立つ姿が描かれていた。その色彩の激しさと、背中が語る静かな哀愁に、僕は心を鷲掴みにされた。そのタッチは、僕が知る誰かのものに酷似していた。
「奏さん……?」
声をかけられ振り返ると、そこにいたのは、数年ぶりに会う女性だった。僕の唯一の親友だった、雪乃(ゆきの)の妹、美咲だった。ショーウィンドウの絵は、雪乃の遺作展の告知だったのだ。
雪乃は、天才だった。彼女のキャンバスは常に生命力に満ち溢れ、僕の陳腐な才能など足元にも及ばなかった。彼女は僕のミューズであり、同時に、僕の劣等感の源でもあった。そんな彼女が、数年前、自ら命を絶った。僕は彼女の死の理由を知らない。いや、知ろうとしなかった。彼女の死という現実に向き合うことは、僕自身の才能のなさを認めることと同じくらい、恐ろしかったからだ。
「姉さん、亡くなる少し前、奏さんのことばかり話してたんです。『奏だけは、私の絵を分かってくれる』って」
美咲の言葉が、僕の心の硬い殻に小さなひびを入れた。僕は雪乃の死から逃げ、彼女に関する記憶ごと感情に蓋をしてきた。その蓋が、今、ゆっくりと軋み始めているのを感じていた。
「もしよかったら、これ……」美咲は躊躇いがちに、一冊の古びたスケッチブックを差し出した。「姉の遺品を整理していたら出てきたんです。奏さんに、って」
僕はそれを受け取った。表紙をめくる勇気は、まだなかった。だが、そのスケッチブックのざらりとした感触が、僕の指先に、忘れかけていた絵筆の記憶を微かに蘇らせた。純粋な悲しみは、案外、僕のすぐ側に、僕がずっと目を背けてきた過去の中に眠っているのかもしれない。そんな予感が、胸を締め付けた。
第三章 魂の残響
自室に戻り、僕は震える手でスケッチブックを開いた。そこに描かれていたのは、僕の肖像画だった。絵を描いていた頃の、希望と不安がないまぜになったような、未熟な僕の顔。雪乃は、僕が見ていた僕よりもずっと、僕の本質を見抜いていた。ページをめくるたびに、雪乃と過ごした日々の断片が鮮やかに蘇り、僕の灰色の世界に少しずつ色が戻っていくようだった。
最後のページに、一通の手紙が挟まれていた。それは、雪乃の日記の切れ端だった。
『私の色が、消えていく。私の情熱が、枯れていく。あの日、あの人に「創作の喜び」を売ってから、私は何も描けなくなった。キャンバスが、ただの白い布にしか見えない。生きる理由を、自分で売り払ってしまった。仲介してくれたのは、駆け出しの感情調律師だった奏。彼は、私の苦しみに気づかなかった。彼はただ、それが高値で売れる取引だということしか見ていなかった。彼を責めることはできない。この世界が、そうできているのだから。でも、奏、あなただけには分かってほしかった。魂を売るということの、本当の痛みを』
一文一文が、鋭い刃となって僕の胸を突き刺した。
そうだ、思い出した。新人だった頃、僕は生活のために必死だった。そんな僕に、雪乃は「自分の感情を高く買ってくれる人がいるから、仲介してほしい」と頼んできたのだ。僕はそれがどんな感情なのか深く聞くこともせず、ただ、高額な仲介手数料に目がくらみ、事務的に取引を成立させた。あの時のクライアントは……そうだ、あの老人だ。僕に「純粋な悲しみ」を依頼してきた、あの空虚な瞳の男だ。
僕が、親友の魂を奪った。僕が、彼女の才能を殺した。
その事実が、雷のように僕の全身を貫いた瞬間、心の奥底で何かが決壊した。堰を切ったように、熱いものが頬を伝い、止めどなく溢れ出した。それは、後悔だった。罪悪感だった。そして、かけがえのないものを永遠に失ってしまった、どうしようもない喪失感だった。嗚咽が漏れ、僕は床に崩れ落ちた。それは、何の色も混じらない、純度百パーセントの、僕自身の「悲しみ」だった。
僕の左腕にはめられた生体モニターが、激しく振動し始めた。ディスプレイには「高純度感情『悲哀』を検出。抽出しますか?」という無機質なメッセージが点滅している。光の粒子が、僕の涙から立ち上り、きらきらと宙を舞っていた。それは、あまりにも美しく、そしてあまりにも残酷な光景だった。
第四章 僕だけの色
翌日、僕は抽出した「純粋な悲しみ」のデータクリスタルを手に、あの老人のオフィスを訪れた。彼は窓の外を眺めていた。その背中は、以前よりもずっと小さく見えた。
「依頼の品です」
僕は、光を湛えたクリスタルをテーブルに置いた。老人はゆっくりと振り返り、それに視線を落とした。その中には、僕の魂の慟哭が、雪乃への贖罪の念が、凝縮されて眠っている。
「……美しいな」老人は呟いた。「これが、本物の感情か。私が彼女から買い取り、そして失ったものだ」
彼は、雪乃から「創作の喜び」を買い取って以降、数々の名画を描き、名声を手に入れた。しかし、それは借り物の情熱だった。心が満たされることはなく、残ったのは深い虚無感だけ。彼は、自分が犯した罪の重さを実感するために、せめて本物の「悲しみ」を感じたいと願ったのだ。
「この感情は、売りません」僕は、静かに、しかしはっきりと言った。
老人は驚いたように顔を上げた。
「これは、僕が一生背負っていくべき、僕自身の感情です。あなたに譲ることはできない。これは、僕が雪乃にしたことへの、唯一の証だからです」
僕はクリスタルを懐にしまい、彼に深く頭を下げた。「感情調律師を、辞めます」
オフィスを出た僕の足は、自然と画材店に向かっていた。埃をかぶったイーゼルと、真っ白なキャンバス、そして、いくつかの絵の具を買った。帰り道、空を見上げると、合成された快晴ではない、本物の雲が流れる、不確かな空が広がっていた。
自室に戻り、僕はキャンバスをイーゼルに立てかけた。深呼吸をして、パレットに絵の具を出す。赤、青、黄色。そして、黒。何を描けばいいのか、まだ分からない。でも、描きたいという衝動が、確かに僕の内側で再び燃え始めていた。
僕は、懐から「悲しみ」のクリスタルを取り出した。それは、僕の罪の証であり、僕が人間であることの証でもあった。僕はそれを売り払うことも、忘れることもしない。この悲しみを抱えたまま、生きていく。
真っ白なキャンバスに向かい、僕は震える手で、最初のひと筆を入れた。それは、雪乃の瞳の色によく似た、深い、深い、黒だった。その一筋の線から、僕の新しい物語が始まる。それはきっと、痛みと後悔に満ちた道だろう。だが、それは紛れもなく、僕だけの色で描かれる、僕自身の物語なのだ。