透明な壁の残響
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透明な壁の残響

第一章 歪んだ風景

アキラの見る世界は、常に歪んでいた。

アスファルトの亀裂から立ち昇る陽炎のように、街の至る所で空間が揺らめいている。それは他の誰にも見えない『透明な壁』だった。人々はまるで何事もないかのようにその壁の手前で足を止め、ごく自然に踵を返す。ある者はそれを「虫の知らせ」と呼び、ある者は「柄じゃない」と自嘲する。だがアキラには見えていた。彼らの行く手を阻む、絶対的な障壁の存在が。

この都市、ルミナ・ポリスでは、生まれながらにして人の価値は決まる。幼少期、手のひらに宿る『才能の結晶』。その輝きと大きさが、住む区画を、職業を、そして人生そのものを決定づける。アキラの手のひらにあるのは、ビー玉ほどの大きさの、煤けて曇った結晶だった。彼は『低階層』の人間だ。

今日もそうだ。上層区画へと続く大通りの真ん中に、巨大な壁がそびえ立っている。きらびやかな結晶を持つ人々は壁の存在に気づくことなく通り抜けていくが、アキラと同じように曇った結晶を持つ者たちが壁に近づくと、見えない力に押し返されるかのように、無意識に進路を変えていく。壁の向こう側から漂う、焼きたてのパンの香ばしい匂いが、まるで違う世界の産物のように感じられた。人々は、自分たちを阻むものが、自分自身の「才能のなさ」だと信じて疑わない。だがアキラは知っていた。これはもっと根深く、そして悪質な何かが作り出した、巨大な牢獄なのだと。

第二章 砕かれた約束

「アキラ、見て!ついに推薦状が届いたの!」

リアナが息を切らして駆け寄ってくる。彼女の白い手のひらでは、太陽の光を閉じ込めたかのような結晶が、温かい黄金色の光を放っていた。彼女はアキラの数少ない友人で、彼の見る『壁』の話を、おとぎ話のように面白がって聞いてくれる唯一の存在だった。

「これで私も、中央学術院に行ける。約束通り、壁の謎を解く手伝いができるわ」

彼女の笑顔は、この灰色がかった街で唯一の色だった。アキラもつられて口元を緩める。だが、その喜びは長くは続かなかった。

数日後、アキラはリアナと共に学術院の正門の前に立っていた。壮麗な白亜の門。その手前で、リアナの足がぴたりと止まった。

「あれ……?」

彼女は困惑したように首を傾げる。

「どうしたの、リアナ」

「なんだか、足が進まないの。まるで……」

アキラの目には、はっきりと見えていた。リアナの目の前、門までの数メートルを隔てて、巨大な透明の壁が立ち塞がっている。なぜだ。彼女ほどの結晶を持つ者が、なぜ阻まれる? リアナが焦燥に駆られて一歩踏み出そうとした瞬間、壁は微かに揺らめき、彼女の身体を優しく、しかし断固として押し返した。

彼女の瞳から光が消え、手のひらの結晶が不安げに揺れる。その光景は、アキラの心に冷たい楔を打ち込んだ。この壁は、才能の有無さえも超越した、理不尽な法則で動いている。

第三章 禁忌の遺産

リアナの一件以来、アキラは壁の正体を探ることに没頭した。都市の片隅にある禁書庫。埃の匂いが立ち込めるその場所で、彼は都市創生期に関する古文書を読み漁った。ほとんどの文献は結晶の輝きを賛美するもので満ちていたが、一冊だけ、異質な記述を持つ書物を見つけた。

それは『共鳴石(レゾナンス・ストーン)』に関する記述だった。

「石は結晶の偽りの光を剥ぎ、その内に秘められた真の色を暴き出す。だが、魂の裸身を晒す痛みは、持ち主を狂気に追いやるだろう」

石は、かつて結晶の価値を定めるために使われていたが、その危険性から禁忌とされ、都市の地下最深部に封印されたという。

アキラは迷わなかった。わずかな手がかりを頼りに、忘れ去られた地下水道へと足を踏み入れる。冷たく湿った空気が肌を刺し、滴り落ちる水滴の音が不気味に響く。何日も彷徨った末、彼は苔むした祭壇の中心で、鈍い黒色の輝きを放つ石を見つけ出した。手に取ると、氷のように冷たく、そして心の奥底を見透かすような微かな振動が伝わってきた。これが、共鳴石。世界を律する法則を揺るがす、禁忌の鍵だった。

第四章 魂の色彩

「怖い。でも、アキラを信じる」

リアナは震える声でそう言うと、そっと手のひらを差し出した。彼女の黄金の結晶は、今も変わらず美しく輝いている。アキラは覚悟を決め、黒い共鳴石をゆっくりと彼女の結晶に近づけた。

その瞬間だった。

「―――ッ!!」

リアナが甲高い悲鳴を上げた。彼女の結晶から、黄金色の光だけでなく、想像を絶する色彩の奔流が溢れ出したのだ。嫉妬を映す濁った緑、優越感を象徴する刺々しい赤、そして心の奥底に沈んだ不安を示す深い青。光は乱気流のように渦を巻き、リアナは自らの内面を無理やり引きずり出されるような激痛に身をよじらせた。

アキラは恐怖に目を見開いた。だが、本当に彼を凍りつかせたのは、その次に起こった現象だった。リアナの結晶から放たれた色とりどりの感情の光が、周囲の空間に染み込んでいく。そして、それはアキラの目の前で、ゆっくりと形を結び始めたのだ。揺らめき、ねじれ、やがてそれは、アキラがずっと見続けてきた『透明な壁』そのものになった。

壁は、外からやってくるのではなかった。それは、人の心の中から、生まれていたのだ。

第五章 見えざる手の正体

真実は、悪意よりも残酷だった。

壁を生み出していたのは、特定の誰かではない。この都市に住む、全ての人々だった。幼い頃から結晶の輝きで選別され、植え付けられた優越感や劣等感。他者への羨望、自分より劣る者への無意識の軽蔑。「あいつは自分とは違う」「自分にはふさわしくない」。そうした無数の微細な感情が、結晶をアンテナとして空間に放出され、集合的な無意識の障壁として物理的に固定化されていたのだ。

輝かしい結晶を持つ者ほど、その光と影は強い。リアナが学術院の門で阻まれたのは、「自分は選ばれた存在だ」という強い自負と、「けれど、本当に自分にその資格があるのだろうか」という、ほんのわずかな不安。その矛盾した感情が、彼女自身の進路を阻む壁を生み出していた。

才能の結晶は、人々を導く光ではなかった。それは、人々の心を映し、偏見と差別を増幅させ、世界を分断する呪いの鏡だったのだ。

第六章 広場での決意

アキラは都市の中央広場を見下ろしていた。そこには、都市の情報を統括する巨大な増幅結晶が鎮座している。あれを使えば、共鳴石の波長を都市全体に広げることができる。

「正気なの?みんなにあの痛みを味わわせるなんて」

隣に立つリアナが、青ざめた顔でアキラを見つめる。彼女の結晶は、あの日以来、少し光を曇らせていた。

「痛みから目を逸らしてきたから、この世界は歪んだんだ」

アキラは静かに答える。

「壁を壊すんじゃない。みんなに『見る』んだ。自分たちが何を作り出してきたのかを」

彼はリアナの手を握った。リアナは一瞬ためらったが、やがて力強く握り返す。二人は広場へと向かった。これから行うことは、世界の根幹を覆す行為だ。もはや後戻りはできない。広場に集う人々が放つ、偽りの美しい光の洪水の中を、二人は静かに進んでいった。

第七章 残響の始まり

アキラが共鳴石を増幅結晶にかざした瞬間、世界から音が消えた。

次の瞬間、都市全体に低く、長く続く共鳴音が響き渡った。それは人々の魂を直接揺さぶるような音だった。広場にいた人々が、空を見上げ、隣人を見回し、そして自らの手のひらを見つめる。

誰もが見えなかったはずの『透明な壁』が、虹色の不気味な光を放ちながら、その姿を現した。街を分断し、人々を隔てる無数の障壁が、世界を覆う巨大なステンドグラスのように眼前に立ち現れたのだ。

同時に、人々は自らの結晶から溢れ出す、おぞましい色彩の奔流を見た。信じていた輝きの中に、嫉妬の緑が、傲慢の赤が、卑屈の青が渦巻いているのを目の当たりにした。

そして、世界の誰もが壁の存在を『認識』した、その瞬間。

パリン、とガラスが砕けるような微かな音と共に、ルミナ・ポリスに満ちていた光が消えた。人々を縛り、導いてきた才能の結晶が、一斉にその輝きを失い、ただの冷たい石ころへと変わったのだ。

静寂が訪れる。輝きを失った世界で、人々は立ち尽くす。壁は消えていない。むしろ、誰の目にもはっきりと見えるようになった。彼らは初めて知ったのだ。自分たちの社会を、そして自分自身の心を隔てていた、醜くも確かな障壁の存在を。

これは、救いではない。罰でもない。

輝きという名の言い訳を失った世界で、自らの内面に潜む差別意識と向き合う、終わりなき旅の始まりだった。アキラは、輝きを失った自分の手のひらを見つめ、そして、どこまでも続く透明な壁の向こうに広がる、灰色の空を静かに見上げていた。

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