均された光、停滞した刻
第一章 灰色の街と点滅する光
俺の目には、他人の『社会的な価値』が光の量として映る。それは呪いであり、この時間配給制社会を生き抜くための唯一の羅針盤だった。
時間管理局の冷たい尖塔が空を突き刺す灰色の街。ここでは『時間』が通貨であり、国家から貸与されるものだった。富める者は永遠に近い時を買い、貧しい者は秒単位の負債に喘ぐ。人々から放たれる光は、その格差を残酷なまでに可視化していた。豪奢な浮遊車から降り立つ富裕層の光は、目を焼くほどに眩い。対照的に、路地裏にうずくまる時間負債者たちの光は、風前の灯火のようにか弱く明滅している。
俺の名はカイ。俺自身の光も、せいぜい薄汚れた電球がいいところだ。だが、俺が本当に恐れているのは、妹のリナの光だった。病床に伏す彼女の光は、ほとんど糸のように細く、時折ふっと見えなくなるほどに揺らいでいる。光が完全に消えれば、その人間は社会から抹消される。誰の記憶からも、記録からも。まるで初めから存在しなかったかのように。
「兄さん…」
錆びた配管が壁を這う薄暗いアパートの一室で、リナが掠れた声で俺を呼んだ。彼女の指先に触れると、氷のように冷たい。その指から伝わる微かな振動だけが、彼女がまだ此処にいる証だった。俺はリナの弱々しい光を見つめながら、焦げ付くような無力感をただ噛みしめる。この街に漂うのは、鉄錆の匂いと、人々の使い古された絶望の匂いだった。
第二章 友の解放と消えゆく影
変化は、前触れもなく訪れた。
「カイ! 見てくれ! 俺の負債が…全部消えたんだ!」
埃っぽい工場の同僚であるジンが、興奮した様子で駆け込んできた。彼の身体から放たれる光は、昨日までの弱々しさが嘘のように力強く輝き、周囲の者たちの視線さえ引きつけている。時間負債からの突然の解放。それは、この街で囁かれる都市伝説のような奇跡だった。
「どうして…」
「わからねえ! だが、これで自由だ!」
ジンは拳を突き上げ、歓喜の声を上げた。その眩しい光に目を細めた瞬間、俺は見てしまった。ジンの背後、雑踏の向こう側で、路肩に座っていた老婆の光が、まるで蝋燭の火を吹き消すように、ふっと消えたのを。老婆の姿は、次の瞬間にはもうどこにもなかった。周囲の誰も、そこに老婆がいたことすら気づいていない。
ジンの解放と、名もなき誰かの抹消。
その夜、ニュースは社会全体の『総時間資源』が原因不明の減少を続けていると、無機質な声で報じていた。俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。これは奇跡などではない。誰かが自由を得るたびに、世界のどこかで誰かが、その存在ごと代償を支払わされているのだ。
第三章 逆流する砂時計
俺はジンの解放の謎を追った。彼は奇跡が起こる直前、路地裏の骨董屋に出入りしていたという。わずかな時間を支払い、俺はその店の軋む扉を開けた。黴と古書の匂いが鼻をつく薄暗い店内で、俺はそれを見つけた。
『逆流する砂時計』。
埃をかぶった棚の奥で、それは静かに時を遡っていた。黒檀の枠に収められたガラスの中を、銀色の砂が重力に逆らい、下から上へと絶え間なく流れ続けている。店主の老人は、それは過去の時間負債者たちの遺志が宿った呪物だと囁いた。
震える手で砂時計を握りしめる。すると、冷たいガラスを通して、奇妙な感覚が全身を駆け巡った。俺自身の価値の光が、まるで燃料を注がれたように強く輝きを増す。同時に、世界全体から何かが、ほんの少しだけ失われていくような喪失感を覚えた。
アパートに戻ると、リナの光がさらに弱くなっていた。彼女の呼吸は浅く、その存在は紙一枚ほどの薄さでこの世界に繋ぎ止められているに過ぎなかった。
このままではリナが消える。
俺の心に、禁断の考えが芽生えた。この砂時計を使えば、リナを救えるかもしれない。たとえ、その代償として世界のどこかで誰かが消えるとしても。焦燥が、俺の倫理観を焼き尽くしていった。
第四章 虚構のシステム
俺は決意した。リナのベッドの傍らで、逆流する砂時計を強く、強く握りしめた。彼女の光を、存在を、この世界に繋ぎ止めるために。
銀色の砂の逆流が激しくなる。視界が真っ白に染まり、意識が身体から引き剥がされるような感覚に襲われた。次の瞬間、俺は無限に広がる純白の空間に立っていた。目の前には、静かな玉座に腰かける一人の男がいた。その顔は、鏡に映したかのように俺自身と瓜二つだった。
「ようこそ、世界の調停点へ。我々は『調停者』だ」
その声は、男一人のものではなく、幾千、幾万もの声が重なり合って聞こえた。
「お前は…誰だ?」
「我々は、お前だ。そして、時間負債に苦しみ、未来でシステムを構築した者たちの集合意識。言うなれば、未来のお前たちの複製だ」
調停者は語り始めた。彼らはかつて、この不平等な時間格差社会の果てに絶望した。そして、『完全な平等』を実現するために歴史を改変し、この時間と存在価値をトレードオフするシステムを創り上げたのだと。
「誰かが富めば、誰かが貧しくなる。それがお前たちの世界の理だ。我々はそれを是正する。逆流する砂時計は、そのためのトリガー。個人の価値を高める願いを吸収し、それを時間として還元する。だが、無からは何も生まれん。その代償として、最も価値の低い存在から徴収する。全てを均すために」
彼らの瞳には、狂信的なまでの正義が宿っていた。歪んだ救済。犠牲の上に成り立つ平等。リナの弱々しい光が、その犠牲の列に並んでいるという事実が、俺の胸を抉った。
第五章 選択の刻
「選ぶがいい、創造主よ」
調停者の声が、純白の空間に響き渡る。
「このシステムを維持し、緩やかな平等の実現を見届けるか。犠牲は続くが、いずれ全ての光は等しくなる。あるいは――」
彼は俺の心を見透かすように続けた。
「システムを破壊し、全てを混沌に戻すか。時間負債は消えるだろう。だが、人々が価値を求め、時間を奪い合った情熱そのものも失われる。時間の概念が希薄になった世界で、人々は何を目的に生きるのかね?」
脳裏に、様々な光景が駆け巡る。歓喜に沸くジンの顔。ふっと消えた老婆の姿。そして、今にも消え入りそうなリナの光。
偽りの救済か、目的を失った自由か。
どちらを選んでも、何かが失われる。だが、誰かの犠牲の上に成り立つ平等を、俺は肯定できなかった。それはただ、痛みを弱い者へと押し付けるだけの、欺瞞に満ちたシステムだ。
「俺は…」
俺は唇を噛みしめた。答えは、とうに決まっていた。
「このシステムを、破壊する」
俺がそう告げた瞬間、調停者の顔に微かな、しかし満足げな笑みが浮かんだように見えた。
第六章 均された光の中で
世界は、音もなく崩壊し、そして再構築された。
俺が意識を取り戻した時、窓の外の灰色の街は、何も変わっていないように見えた。だが、決定的に何かが違っていた。時間貸付局の冷たい尖塔はただのモニュメントと化し、人々を縛っていた時間負債の概念は綺麗さっぱり消え去っていた。
解放。人々は自由になったのだ。
しかし、街に歓声はなかった。誰もが無限とも思える時間を手にしながら、その使い道がわからないかのように、虚ろな目で宙を見つめている。活気は失われ、かつて人々を駆り立てていた渇望や情熱の匂いは、どこにも感じられなかった。
そして、光が。俺の目に映る人々の『社会的な価値の光』が、変わっていた。
誰も彼もが、同じ光を放っている。強くも弱くもない、ただ均一で薄暗い、生気のない光を。それはまるで、曇り空にぼんやりと浮かぶ月光のようだった。
リナは消えずに済んだ。彼女はベッドから起き上がり、俺の隣に立っている。だが、彼女の光もまた、他の人々と同じ薄暗い光に変わっていた。彼女の瞳には、かつてあった儚い輝きすらない。
俺は、本当にこれを望んでいたのだろうか。
手の中には、逆流を止め、ただのガラスと砂の塊になった砂時計があった。俺はそれを強く握りしめる。
選択を失った世界。価値が均一化された世界。これは平等なのか、それとも停滞なのか。答えは出ない。俺はただ、誰もが同じ薄暗い光を放つ人々が静かに行き交う街を、いつまでも見つめ続けていた。