影纏いの都
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影纏いの都

第一章 灰色の吐息

カイの目には、この世界は二重に映っていた。秩序と調和を謳う白亜の都「アークシティ」。人々が歩く滑らかな舗道、寸分の狂いなく植えられた街路樹、空に溶けるように立つ純白の高層ビル。ほとんどの市民にとって、それは完璧な一枚の絵画だろう。だが、カイの網膜は、その絵の具の下に隠された無数の染みを捉えてしまう。

人々の「無意識の差別意識」が、対象者から奪った「色」として見えるのだ。

今日もそうだ。カフェのテラスで談笑する一団の視線が、そばを通り過ぎる一人の男に一瞬だけ集まる。その視線はナイフのように鋭く、しかし本人たちは気づきもしない。次の瞬間、男の肩から、夕焼けのような橙色がふわりと剥がれ落ち、アスファルトに吸い込まれて消えた。男の輪郭が、ほんのわずかに霞む。存在が、また少しだけ希薄になる。

彼らは「透明な人々」と呼ばれていた。色を失うたびに社会から認識されづらくなり、やがては誰の記憶にも留まらない、文字通りの透明な存在へと変貌していく。この完璧な都市の片隅で、彼らは静かに、確実に増え続けていた。人々は彼らをいないものとして扱い、その空白を、都市の完璧さの一部だとさえ信じ込んでいる。

カイは息を詰めた。この街の空気は、美しい灰色の吐息のように、ゆっくりと人々を蝕んでいた。

第二章 影の舞踏

その日、カイは中央広場で、世界のもう一つの法則を目の当たりにした。定められた「社会規範」からの逸脱。それは、この都市では最も重い罪とされていた。

一人の若い音楽家が、許可なく路上でヴァイオリンを奏で始めた。その情熱的なメロディは、統制された都市の静寂を切り裂く。人々は足を止め、眉をひそめた。賞賛ではない。非難と困惑の眼差しだ。

「規範コード7。公共空間における未登録の表現活動」

どこからともなく、冷たく無機質な声が響く。次の瞬間、異変が起きた。音楽家の足元、アスファルトに落ちていた彼自身の「影」が、ぬるり、と液体のように蠢き、立ち上がったのだ。それは人の形を保ったまま、実体を持たない漆黒の存在として、主人の前に立ちはだかる。

人々は目を逸らし、足早にその場を去っていく。まるで禁忌に触れるのを恐れるように。

影は腕を伸ばし、音楽家の胸にその黒い指を突き立てた。悲鳴は上がらない。ただ、音楽家の身体から、生命力そのものであるかのような鮮烈な緑色が、ごっそりと引き抜かれた。緑色は影の手に吸い込まれ、霧散する。音楽家は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ち、彼の輪郭は見る間に薄れていった。

独立した影は、何事もなかったかのように再び主人の足元に張り付き、ただの黒い染みに戻る。しかし、かつて情熱を奏でた音楽家は、もう誰の目にもほとんど映らない、新たな「透明な人々」の一員となっていた。カイは、影が消える間際に聞いた乾いた囁きを、忘れることができなかった。

『秩序は、影によって守られる』

第三章 黒いガラス玉の囁き

透明な人々はどこへ行くのか。カイはその問いに導かれ、都市の忘れられた一画、古い水道管が剥き出しになった裏路地へと足を踏み入れた。湿った土と黴の匂いが、秩序だった都市の無機質な香りを打ち消している。

そこに、彼らはいた。十数人の、輪郭の曖昧な人々。彼らは寄り添い、ほとんど言葉を発さず、ただ互いの存在を確かめ合うように静かに佇んでいた。彼らの周囲だけ、時間が止まっているかのようだ。

カイの存在に気づいた一人の老婆が、ゆっくりとこちらを向いた。その顔は皺以外ほとんど判別できないほどに薄れていたが、瞳だけがかろうじて微かな光を宿していた。老婆は震える手をカイに差し出す。その皺だらけの掌に握られていたのは、手のひらに収まるほどの、小さな黒いガラス玉だった。

それは奇妙な物体だった。周囲の光を一切反射せず、まるで空間に開いた小さな穴のように、ただ純粋な闇を湛えている。

「これに…私たちの…声が…」

老婆のかすれた声が、カイの鼓膜をかろうじて揺らした。促されるままにガラス玉を受け取ると、ひんやりとした滑らかな感触が指先に伝わる。その瞬間、カイの脳裏に、洪水のようなイメージが流れ込んできた。奪われた色の記憶。笑い声の赤、涙の青、希望の金色。それは、彼らが失ったアイデンティティの断片だった。そして、その全ての記憶が、一つの場所を指し示していた。

都市の心臓部に聳え立つ、中央管理塔「クロノス・タワー」。

第四章 色彩の塔

黒いガラス玉は、単なる記憶の器ではなかった。それは、影の監視システムに対する唯一の鍵でもあった。カイが塔のエントランスに近づくと、ガラス玉が微かに振動し、彼を認識するはずの影たちが一瞬だけ動きを止める。その隙に、カイは塔の内部へと滑り込んだ。

内部は、カイの想像を絶する光景だった。

巨大な吹き抜けの空間。その中央には、天を突くほどの巨大なプリズムが鎮座していた。そして、無数の光のチューブが、都市のあらゆる場所からそのプリズムへと繋がっている。チューブの中を流れているのは、カイがずっと見てきた、人々から奪われた「色」だった。橙、緑、紫、赤。悲しみも喜びも怒りも、全てが等しくエネルギーとして吸い上げられ、プリズムへと注ぎ込まれていく。

プリズムはそれらの色を乱雑に混ぜ合わせ、分解し、再構築していた。そして、全く新しい、一つの強大な光へと変えていたのだ。それは、都市の空を毎夜彩る、あの幻想的なオーロラの色だった。

アークシティの完璧な美しさと秩序は、透明な人々から奪い取った魂の色で塗り固められた、巨大な幻影に過ぎなかった。カイは愕然と立ち尽くす。この欺瞞の中心にいるのは、一体誰なのだ。

第五章 再会と偽りの平和

塔の最上階、都市の全てを見下ろす司令室。そこにいた人物の姿を認め、カイは息を呑んだ。

柔らかな銀髪、穏やかな微笑み。かつてカイが唯一、心を許した親友。数年前に姿を消したはずの、リヒトがそこにいた。彼はこのアークシティの最高秩序管理者、通称「アーク」として、静かにカイを迎えた。

「来ると思っていたよ、カイ」

リヒトの声は、昔と何も変わっていなかった。だが、彼の瞳の奥には、カイの知らない深い静寂が広がっていた。

「どうして…リヒト、君が…」

「この世界を救うためさ」。リヒトはゆっくりと語り始めた。彼もまた、かつてはその特異な銀髪ゆえに社会から「色」を奪われかけた過去を持っていた。彼はその経験から悟ったのだという。感情の多様性、突出した個性、それら予測不可能な要素こそが、争いや差別の根源なのだと。

「だから、私はシステムを創った。人々から過剰な『色』を少しずつ抜き取り、それを社会全体の安定を保つための『幻想の色』に変換する。誰も傷つかず、誰も突出せず、誰もが等しく穏やかでいられる世界。そのためには、いくつかの色には消えてもらうしかなかった。それが、私の見つけた唯一の平和なんだ」

彼の背後の窓ガラスには、奪われた色で織りなされた偽りのオーロラが、美しく、そして残酷に輝いていた。

第六章 選択

「君のその『眼』は、この秩序にとって危険すぎる」とリヒトは言った。「だが、私と共にこの平和を守ってくれるなら、君だけは色を失わずに済む。私と一緒に、この世界を導くんだ」

リヒトが、白い手袋に包まれた手を差し伸べる。その手を取れば、苦悩は終わるのかもしれない。この静かな絶望を、平和と呼んで受け入れることもできるのかもしれない。

だが、カイの脳裏をよぎるのは、裏路地で出会った老婆の、光を失いかけた瞳だった。情熱を奪われた音楽家の、虚ろな横顔だった。ポケットの中で握りしめた黒いガラス玉が、まるで彼らの声なき声に応えるかのように、確かな重みをもってカイの決意を固めさせる。

「違うよ、リヒト」

カイはゆっくりと首を振った。

「これは平和じゃない。感情を奪われた人形が暮らす、ただの美しい墓場だ。君が守ろうとしているのは、秩序なんかじゃない。君自身の、孤独な理想だけだ」

その言葉に、リヒトの穏やかな表情が初めて、微かに揺らいだ。カイはガラス玉を握る手に力を込める。この小さな闇こそが、この偽りの光を終わらせる唯一の希望だった。

第七章 夜明けの色

カイは、司令室の中枢に設置された巨大なプリズムに向かって、持っていた全ての黒いガラス玉を投げつけた。ガラス玉はプリズムに吸い込まれると、その内部で漆黒の亀裂となり、瞬く間にシステム全体を侵食していく。

けたたましい警報と共に、都市を覆っていた幻想のオーロラが、まるで薄い膜が剥がれ落ちるように消えていった。奪われた色が奔流となって逆流し、本来の持ち主たちの元へと還り始める。

「君は…混沌を選んだのか…カイ…」

崩れ落ちるシステムの光の中で、リヒトは力なく呟いた。その銀髪が、初めて見る朝日を浴びて白く輝いている。

カイはリヒトに背を向け、塔を降りた。街では、人々が戸惑っていた。透明だった者たちの輪郭が、ゆっくりと、しかし確実に色を取り戻していく。それは感動的な光景であると同時に、これまで偽りの秩序で抑えつけられてきた人々の不満や対立が、再び牙を剥くであろうことの予兆でもあった。

完璧な美しさを失ったアークシティは、不揃いで、欠けた部分も多い、ありのままの姿を朝の光の中に晒していた。これから始まる本当の闘いは、リヒトが創った偽りの平和よりも、ずっと過酷なものになるだろう。

それでも、カイの目には、灰色の空を破って差し込む本物の「朝焼けの色」が、痛みと共に輝く、確かな希望のように映っていた。


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