質量なき鎮魂歌
第一章 軋む世界
アスファルトの裂け目から、甘ったるい腐臭が立ち上っていた。俺、朔(さく)の足元で、見えないはずの何かが渦を巻いている。それは重力の歪みだ。まるで空間そのものが捻じれ、黒い染みのように淀んでいる。他の誰にも見えないその光景は、俺にとって日常だった。
「おい、朔! ぼさっとするな!」
親方の怒声が、頭蓋骨に直接響く。俺は解体作業員だ。この「沈降区」と呼ばれる街で、いつ不安定化するか分からない建物を壊すのが仕事だった。今日の現場は、かつて繊維工場だった廃墟。錆びた鉄骨が、まるで巨大な獣の肋骨のように空を掴んでいる。
俺の体は、常に軋んでいた。この街に溜まった「社会の負債」――忘れ去られた工場の汚染、搾取された労働者の怨嗟、見捨てられた人々の絶望――それらが具現化した重力に、常に全身が引かれている。骨の一本一本が悲鳴を上げ、筋肉は鉛のように重い。
その時だった。同僚のタツさんがよろめき、古い鉄骨に手をついた。その瞬間、空気が揺れた。タツさんの手が触れた鉄骨が、まるで熱した飴のようにぐにゃりと歪み、液体のように彼の腕を飲み込み始めたのだ。
「うわっ、ああああ!」
悲鳴はすぐにくぐもった音に変わる。鉄骨は脈打つ肉塊のようなゲル状の物質と化し、タツさんの全身をゆっくりと取り込んでいく。誰も動けない。これが「物質不安定化」。この沈降区では、もはや災害ですらない、ありふれた日常の死だった。
やがて、タツさんを飲み込んだ塊は、不気味な静寂を取り戻し、ただの汚れた鉄骨の姿に戻った。何もなかったかのように。だが、俺の目には見えていた。タツさんが消えた地面に、極小の光点が明滅しているのを。俺は誰にも気づかれぬよう、それをこっそりと拾い上げ、作業着のポケットに滑り込ませた。冷たく、そして不思議なほど重い、小さな結晶だった。
第二章 浮上区からの訪問者
その夜、安アパートの軋むベッドで、俺は昼間拾った結晶を眺めていた。指先ほどの大きさしかないのに、手のひらにずしりと食い込むような奇妙な質量感がある。俺が感じる重力の歪みに呼応するように、結晶は内側から淡い光を放っているようにも見えた。それはまるで、遠い星の瞬きか、あるいは消えゆく魂の最後の吐息のようだった。
不意に、ドアがノックされた。こんな時間に誰だ。警戒しながらドアを開けると、そこに立っていたのは、この沈降区にはあまりに不釣り合いな、清潔な白いコートを着た女だった。
「あなたが朔さんね」
女は名乗った。千景(ちかげ)、と。その声は、この淀んだ世界の音とは違う、澄んだ響きを持っていた。
「あなたが持っているもの、見せてくれる?」
彼女の視線は、俺が握りしめる結晶に真っ直ぐに注がれていた。隠しようもなかった。俺が手のひらを開くと、千景は息を呑んだ。
「やはり……。あなたには、それが見えるのね」
「あんた、一体何者だ」
「研究者よ。この世界の理不尽な法則を調べている」
千景は続けた。「その重さは、どこから来ると思う? あなたが常に感じているその圧迫感は。そして、その結晶が持つ重みは」
彼女の言葉は、俺が誰にも話したことのない、俺だけの秘密を的確に射抜いていた。千景は、この街で頻発する不安定化の謎を一緒に解き明かしてほしい、と切り出した。彼女の瞳の奥には、単なる知的好奇心ではない、何か焦燥にも似た色が滲んでいた。
第三章 信頼の砂漠
俺は千景の申し出を受けた。彼女と共に、不安定化が特に激しい地区を巡った。そこは、もはやコミュニティと呼べるものですらなかった。人々は互いを疑い、些細なことで罵り合う。噂やデマが蔓延し、誰もが隣人を信じられない「信頼の砂漠」と化していた。
「社会における信頼の欠如。それが一定の閾値を超えると、世界の基盤そのものが揺らぎ、物質が不安定化する。これが現在の学会の定説よ」
千景はそう説明したが、俺には到底信じられなかった。そんな曖昧なものが、人を飲み込むほど物理的な現象を引き起こすというのか。だとしたら、なぜだ? なぜ、あの空に浮かぶ富裕層地区――「浮上区」では、ただの一度も不安定化が起きていない? あそこの連中が、そんなに互いを信頼し合っているとでもいうのか。
その疑問を口にした俺に、千景は何も答えず、ただ唇を固く結ぶだけだった。
調査の最中、俺たちの目の前で地面が突如として砂に変わった。周囲の建物が次々と形状を失い、泥のように崩れ落ちていく。大規模な不安定化だ。俺の全身を、これまで経験したことのないほどの強烈な重力が襲った。まるで地球の核に直接引きずり込まれるような感覚。立っていることすらできず、俺はその場に膝をついた。
意識が遠のく中、ポケットに入れていた結晶が、胸元で灼けるように熱く、そして強く輝き始めたのが分かった。その光は、まるで助けを求める誰かの叫び声のように、俺の網膜に焼き付いた。
第四章 虚構の安定
「行くわよ、朔さん。真実を見に」
あの大規模不安定化から俺を助け出した千景は、そう言って俺を秘密のルートで「浮上区」へと導いた。初めて足を踏み入れたその場所は、沈降区とは何もかもが違っていた。空気は澄み、建物は寸分の狂いもなく整然と立ち並び、人々は穏やかな表情で歩いている。完璧に安定し、調和のとれた世界。
だが、俺の目には、その完璧さが作り出す巨大な違和感が映っていた。この街全体が、巨大で冷たい「重力の底」に無理やり固定されているように見えたのだ。街の中心に聳え立つ、天を突くほどの純白のタワー。その地下深くから、全ての重力が湧き出している。
「あのタワーが、この世界の安定を司る『天秤』よ」
千景はタワーのシステム管理者だと身分を明かした。彼女は、このシステムの欺瞞を暴くために、俺という「特異点」を必要としていたのだ。彼女もまた、このシステムによって家族を――その「存在」を奪われた犠牲者の一人だった。彼女の瞳に宿る焦燥の正体を、俺は初めて理解した。
第五章 最後の質量
タワーの最深部にあったのは、神殿のように静まり返った巨大な空間と、その中央に鎮座する巨大な装置だった。装置の中心には、俺が持っているものと同じ結晶が無数に集まってできた、黒曜石のように鈍く輝く巨大な「重り」が浮かんでいた。
「浮上区の安定は、まやかしよ」
千景の声が、冷たく空間に響いた。
「この安定は、沈降区の人々の『存在そのもの』を質量エネルギーに変換し、あの重りに絶えず加えることで維持されているの」
言葉を失った。物質不安定化は、自然現象などではなかった。それは、貧しい者たちの存在をエネルギーとして「消費」する際に発生する、おぞましい副作用に過ぎなかったのだ。俺が感じていた重力は、消えゆく人々の魂の叫びそのものだった。あの結晶は、彼らの「存在の重み」が凝縮された、いわば遺骨だった。
「あなたも、そのために生まれたのよ、朔さん」
俺の知覚能力は、システムの監視下にあった。より効率よく「質量」を抽出するための、最適な燃料候補として。そして今、このシステムは臨界を迎え、暴走寸前なのだという。それを鎮めるには、極めて質の高い、新たな「重り」が必要だった。俺という、誰よりも強く「重さ」を感じられる存在が。
第六章 重りの鎮魂歌
けたたましい警報が鳴り響き、足元の床が微かに震え始めた。システムの暴走が始まったのだ。タワーの壁の向こうで、世界が崩壊していく音が聞こえるようだった。
俺は、すべてを理解した。俺が生まれてからずっと感じてきた、あの耐え難い体の重さの意味を。俺が背負っていたのは、この不条理な世界そのものの重みだったのだ。
千景が悲痛な顔で俺を見ている。俺は彼女に向かって、かすかに笑ってみせた。
「俺が重りになれば、少しは時間が稼げるんだろう」
それが、俺にできる唯一のことだった。俺は自らの足で、ゆっくりと装置へと歩み寄る。装置が俺を認識し、眩い光が俺の体を包み込んだ。
体が内側から分解されていく感覚。肉体が光の粒子となり、巨大な重りへと吸い込まれていく。不思議と痛みはなかった。ただ、俺を縛り付けていた万物からの重圧が、今度は俺自身が世界を繋ぎとめる力へと変わっていくのを感じた。
俺という存在が完全に吸収された瞬間、世界の揺れは、まるで嘘のようにぴたりと止んだ。沈降区で猛威を振るっていた不安定化の嵐も、静かに収まっていった。完璧な、そして墓場のような静寂が世界を支配した。
千景は、静かになった装置の中心で、ひときわ強く輝きを増した巨大な重りを見つめていた。彼女の手には、俺が最初に拾った小さな結晶が握られている。主を失ったその結晶は、もう二度と輝くことはなかった。
新たな犠牲の上に、世界は一時的な安定を取り戻した。しかし、それは何一つ解決してはいない。不平等の螺旋は、ただ静かに、次の犠牲者を待ちながら回り続けるだけだった。