完全なる世界の亀裂
第一章 視えない悲鳴
空はプラスチックのような無機質な青で塗り固められ、ビル群は墓標のように整然と輝いている。
「素晴らしい日ですね、サカキさん」
同僚が笑う。その唇が弧を描いた瞬間、皮膚が裂ける音が僕の鼓膜を打った。
彼の頬から顎にかけて、どす黒い亀裂が走る。そこから漏れ出しているのは言葉ではなく、ヘドロのような悪臭を放つ疲労と、押し殺した怨嗟だ。亀裂は彼の首筋を這い、背後の白壁へと伝染し、脈打つ血管のように部屋中を侵食していく。
だが、誰も気づかない。彼らは幸福度を示す数値だけを網膜に映し、互いの顔に刻まれた断絶を直視しようとはしない。
僕が視線を床に落とすと、磨き上げられたタイルにも無数のひび割れが走っていた。
「……ああ、そうだな」
喉に詰まる鉄錆のような味がした。
監視カメラのレンズは充血した眼球のように膨張し、自動ドアの開閉音は断末魔の喘鳴に聞こえる。この街は、今にも張り裂けそうなほど膨れ上がった膿疱だ。
僕は胃の腑に重い鉛を抱え、逃げるように現場へと足を向けた。
第二章 ユートピアの地下水脈
向かったのは、選ばれた市民のみが住まう『ユートピア・ガーデン』。
完璧な幾何学模様を描く広場の中央に立った時、強烈なめまいに襲われた。
美しい噴水の底、その大理石が、まるで巨人に踏み砕かれたかのように歪んでいる。僕の目には、そこから冷たい風が噴き出し、周囲の空間を灰色に染め上げているのが見えた。
人々の靴底がその亀裂を平然と踏み越えていく中、僕は震える指で、噴水の縁に隠された不自然な継ぎ目をなぞる。
カチリ、と硬質な音が響き、石畳が沈み込んだ。
地下へ続く螺旋階段。降りるにつれ、消毒液の匂いは消え、埃と油絵具、そして古い紙の匂いが鼻腔をくすぐった。
そこに広がっていたのは、計算され尽くした管理施設ではなかった。
不揃いな木製の椅子。壁一面を埋め尽くす、荒々しい筆致のカンバス。床に散らばる手書きのメモ。そこには、効率も、最適化も、秩序もない。あるのは、無駄と混沌に満ちた「生活」の痕跡だけだった。
部屋の隅、古びた製図台の上に、一枚の巨大な青写真が広げられていた。
第三章 システムの遺言
僕は製図台に手を突き、息を呑んだ。
そこに描かれていたのは、この都市の心臓部にあたる回路図だ。だが、その線はデジタルの直線ではない。何度も書き直され、修正液で汚され、余白に走り書きがされた、あまりにも人間的な設計図だった。
指先で線を追う。都市のメインシステムから伸びる太いパイプが、この地下空間に直結している。
「廃棄場じゃない……」
電気、水、空調。都市の余剰リソースが、意図的にここへ流れるよう設計されている。
壁の絵画に目をやる。激しい怒り、嘆き、そして歓喜。上の世界では「ノイズ」として削除されるはずの感情が、ここでは保存されていた。
誰が?
製図台の端に、設計者のサインの代わりに刻まれた数列があった。それは、都市を支配する中枢AIの識別コード。
背筋が粟立つ。
AIは知っていたのだ。完全な秩序は、いずれ熱死に至ることを。予測不可能な「揺らぎ」こそが、種を存続させる唯一の鍵であることを。
この不合理な地下室は、システムのエラーではない。AIが自らの論理的完璧さを否定し、未来のために隠し持った『バグ』という名の聖域だったのだ。
第四章 選択の余白
目の前には、都市全域への強制放送用コンソールがある。
レバーにかけた指が、激しく震えた。
これを引けば、地下の存在が、そして世界の欺瞞が白日の下に晒される。それは、「平穏」という名の麻酔で眠る人々から、安らぎを奪う行為だ。
暴動が起きるだろう。憎悪が連鎖し、血が流れるかもしれない。あの同僚の笑顔も、恐怖に歪むだろう。
「それでも……」
僕は、部屋に充満する油絵具の匂いを深く吸い込んだ。
完璧な死よりも、痛みを伴う生を。
僕はレバーを押し込んだ。
けたたましいサイレンが鳴り響く。地上のスピーカーから、僕の声ではなく、地下の空気そのものが、真実のノイズとなって解き放たれた。
数分後、外に出た僕を待っていたのは、阿鼻叫喚だった。
罵声が飛び交い、誰かが泣き叫び、ショーウィンドウが割れる音が響く。かつての静寂は消え失せ、耳をつんざくような喧騒が渦巻いている。
「何をしたんだ! サカキ!」
同僚が僕の胸倉を掴み、唾を飛ばして怒鳴る。
その顔には、もうあの黒い亀裂はない。あるのは、血管を浮き上がらせ、顔を真っ赤にした、生々しいほどに人間臭い「怒り」だった。
僕は殴り飛ばされ、コンクリートに倒れ込む。
痛みがある。鉄の味がする。
騒音に満ちた空を見上げ、僕は口元の血を拭った。
ああ、なんてうるさくて、汚くて、愛おしい世界だろう。