空虚な肩と枯れない小枝
第一章 揺らめく重み
リクの肩は、いつも空虚だった。人でごった返す中央市場を歩くとき、その感覚は一層鋭敏になる。スパイスの乾いた香りと焼きたてのパンの甘い匂いが混じり合う喧騒の中、彼はすれ違う人々の「家族」という関係性が放つ、見えない重力を感じていた。
肩を並べて歩く老夫婦からは、長い年月をかけて熟成された葡萄酒のような、深く温かい重みが。幼子の手を引く若い母親からは、守るべきものへの愛情が凝縮された、ずっしりとした重みが。それらは物理的な圧力となってリクの肩を通り過ぎ、彼の心を締め付ける。誰もが持つはずのその重みが、彼にはなかった。生まれた時から、彼の足はまるで大地から数ミリ浮いているかのように覚束ず、常に世界との間に薄い膜があるような、頼りない浮遊感に苛まれていた。
ふと、リクは足を止めた。市場の広場に根を張る、街のシンボルだったはずの巨大な「家族の樹」が、その枝の半分を枯らしている。葉を失った枝が灰色の空に向かって、助けを求める骨張った指のように伸びていた。風が吹くたび、乾いた枝がカサカサと不吉な音を立て、人々の顔に不安の影を落としていた。世界中で、同じ現象が起きているという。樹が枯れると、家族は互いを忘れ、絆は霧散する。リクは、自分だけが感じることのない「重さ」が、世界から失われつつあるのを肌で感じていた。
第二章 色褪せる肖像
「父の顔が、思い出せないの」
リクの旧い友人であるサラは、自宅の庭で力なく呟いた。彼女の家の「家族の樹」もまた、急速に生命力を失っていた。数週間前まで青々と茂っていた葉は黄ばみ、はらはらと地面に落ちていく。サラの肩から感じる家族の重みも、日に日に水で薄めた絵の具のように淡く、軽くなっていた。
彼女の手には、色褪せた一枚の写真があった。屈託なく笑う少女時代のサラと、その隣で優しく微笑む父親。
「この温もりは覚えている。でも、どんな声で私を呼んだのか、どんな冗談が好きだったのか……靄がかかったみたいに、思い出せないの」
サラの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙は、失われゆく記憶への悲痛な抵抗だった。
リクは何も言えなかった。慰めの言葉はあまりに軽く、空虚な彼の肩と同じように、何の重みも持たなかったからだ。彼はただ、サラの家族の重みが、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていくのを、無力に感じていることしかできなかった。このままでは、サラの中から父親という存在が完全に消えてしまう。それは、単なる忘却ではなかった。存在そのものの消滅に等しい恐怖が、そこにはあった。
第三章 始まりの森へ
なぜ、自分だけが例外なのか。なぜ、自分には守るべき樹も、失うべき記憶もないのか。答えを求め、リクは禁足地である「始まりの森」へと向かった。そこは、世界で最初に生まれたとされる「家族の樹」が眠り、そして枯れ果てた無数の樹々の骸が墓標のように立ち並ぶ場所だった。
森に一歩足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。湿った土と腐葉土の匂いが立ち込め、完全な静寂が支配していた。月明かりが、天を突く巨大な樹々の骨格をぼんやりと照らし出す。それは、かつて幾万もの家族が育んだ愛と葛藤の残骸だった。リクは足元で砕ける枯れ枝の乾いた音を聞きながら、森の奥深くへと進んだ。
彼には道標があった。幼い頃から肌身離さず持っている、手のひらサイズの「枯れない小枝」。どの樹から折れたものかも分からず、どんな環境に置いても決して瑞々しさを失わない不思議な枝。森の中心に近づくにつれて、その小枝が微かな光を帯び、温もりを持ち始めていることに、リクは気づいていた。
第四章 システムの悲鳴
森の最深部、ひときわ巨大な樹の骸が、まるで倒れた王のように横たわっていた。最初の樹だ。リクがその根元に近づき、光を放つ小枝をそっと触れさせた瞬間だった。
――見ツケタ――
声が、リクの頭の中に直接響いた。それは男でも女でもなく、無機質で、それでいて深い哀しみを湛えた、世界そのものの声だった。視界が真っ白になり、無数のイメージが奔流となって流れ込んでくる。
人々の出会い、家族の誕生、そして成長する無数の樹々。世界は、人々の絆をエネルギーとして自らを維持する巨大な生命維持装置「家族の樹システム」によって成り立っていた。樹は絆の証であると同時に、人々の記憶と感情を管理する端末でもあったのだ。
――容量ガ限界ダ。記憶トイウ重ミニ、世界ガ耐エラレナイ――
樹々が枯れているのは、システムの限界だった。増えすぎた家族の歴史、積み重なった絆の重さに、世界が耐えきれず、自らの機能を停止させようとしている。強制的なデータ消去。それが、今起きている記憶喪失の正体だった。
――オマエハ監視者。システム構築以前ノ、原型。重サヲ持タナイノハ、ソノタメ――
リクは、このシステムが暴走した時に世界をリセットするために生み出された、規格外の存在だった。彼はシステムの外部にいるからこそ、家族の重みを持たず、そしてシステム崩壊の影響も受けない。彼は、終わらせるために存在する者だった。
第五章 空虚な肩の意味
「どうすればいい」リクは心の中で叫んだ。
――選択セヨ――
システムの声が答える。
――コノママ世界ノ崩壊ヲ見届ケルカ。或イハ、オマエ自身ガ新タナ核トナリ、システムヲ解体スルカ――
後者を選べば、リクという存在は消滅する。しかし、システムは完全に停止し、「家族の樹」は世界から消え去る。人々は、システムによる強制的な絆からも、その崩壊による記憶喪失の恐怖からも解放される。
リクの脳裏に、市場で感じた人々の温かい重みが蘇る。サラが父親の写真を握りしめて流した涙が焼き付いている。彼がずっと感じてきた空虚な肩。その軽さは、この最後の選択のためにあったのだ。自分にはなかったあの確かな重みを、人々から永遠に奪わせはしない。
「決めたよ」
リクは、眩い光を放つ小枝を強く握りしめた。
「俺が、引き受ける」
その瞬間、彼の身体が足元から光の粒子に変わっていく。そして、生まれて初めて、彼は自分の肩に途方もない「重さ」を感じた。それは、一人の家族のものではない。この世界に存在する、ありとあらゆる人々の絆の原型。愛も、憎しみも、喜びも、悲しみも、すべてが内包された、尊く、そして途方もなく重いものだった。彼はその重みを抱きしめ、静かに微笑んだ。
第六章 黎明の風
世界から、一斉に「家族の樹」が消えた。枯れた樹も、まだ生命を保っていた樹も、すべてが優しい光の粒子となり、夜明け前の空に溶けていった。
人々は呆然と空を見上げた。しかし、彼らの心から記憶が消えることはなかった。
サラは、庭に立っていた。目の前にあったはずの枯れかけた樹はない。だが、彼女は父親の顔を、その声を、優しい笑顔を、昨日よりもずっと鮮明に思い出すことができた。頬を伝うのは、喪失の涙ではなかった。心の中に灯った、確かな温もりがもたらした安堵の涙だった。人々はもう、大地の樹に絆を委ねる必要はない。自らの心の中に、記憶の中に、決して枯れることのない樹を育てていけばいいのだ。
新しい時代の風が、大地を吹き抜けていく。その風は、どこか懐かしい、優しい香りを運んでいた。サラはふと、足元に落ちている一枚の若葉に気づく。それは、朝日を浴びて瑞々しく輝いていた。リクがいつも持っていた、あの枯れない小枝にそっくりな若葉だった。彼女はそれをそっと拾い上げ、空にかざした。
空虚な肩で世界のすべてを背負った、一人の男がいたことを、誰も知らない。
だが、人々がこれから自らの意志で紡いでいく新しい絆の中に、彼の存在は永遠に息づき続けるだろう。