家族色の標本箱
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家族色の標本箱

第一章 色彩の記憶

僕、晶(アキラ)の手のひらには、家族の心が形を成して生まれる。母さんが僕の好きな夕食を作ってくれた時の、柔らかな喜び。それは温かいミルクを溶かしたような桜色の結晶となって、指先にそっと宿る。父さんが仕事から帰り、深い安堵のため息をつく時。その肩からは、夜の湖面を思わせる静かな藍色の結晶がこぼれ落ちる。

「お兄ちゃん、見て! 新しいリボン!」

妹のミオが駆け寄ってくる。弾むような声、くるくると回るその姿から生まれるのは、陽光をそのまま閉じ込めたような、眩しい檸檬色の結晶だ。僕はそれをそっと拾い上げ、長年使い込んだ木製の標本箱に収めた。箱の中は、家族と過ごした歳月そのものだった。怒りの燃えるような緋色、悲しみの雨雫のような青、驚きの鋭利な白銀。様々な感情の結晶が、互いの光を映し合い、小さな銀河のようにきらめいている。

この世界では、誰もがそうなのかは知らない。ただ、僕たち家族は、互いの名前を呼び合える唯一の存在だった。通りを歩けば、たくさんの人とすれ違う。顔は見えるし、声も聞こえる。けれど、彼らの名は僕の耳をすり抜け、僕の名もまた、彼らの唇から意味のある音として紡がれることはない。血の繋がりだけが、存在を確かに結びつける、細くて強い糸なのだ。

その日、事件は起きた。庭で遊んでいたミオが、石につまずいて転んだ。大きな泣き声が響き、僕は慌てて駆け寄る。膝からは血が滲み、ミオの瞳からは大粒の涙が溢れていた。なのに。いつもなら生まれるはずの、雨色の悲しみの結晶が、彼女のどこからも生まれなかった。ただ、濡れた頬がきらめくだけだった。

第二章 褪せる世界

その日から、僕たちの世界の色は、少しずつ失われていった。

食卓で父が面白い話をして、家族全員が笑い転げても、手のひらに生まれる喜びの結晶は、以前の半分ほどの大きさしかない。その輝きも、どこか曇っているようだった。母さんが丹精込めて育てた薔薇が咲いた朝も、手のひらに生まれた感動の結晶は、触れるとすぐに崩れてしまいそうなほど儚かった。

標本箱の中の、過去の結晶たちの鮮烈な輝きが、今の世界の色彩の乏しさを、より一層際立たせる。

テレビの向こうで、冷静な声のアナウンサーが奇妙なニュースを伝えていた。『家族の認識消失現象』。世界各地で、遠く離れて暮らす家族が、ある日突然、互いの存在を認識できなくなる事例が報告されているという。電話をかけても、相手が誰なのか分からない。写真を見ても、そこに写る笑顔に見覚えがない。まるで、初めから他人だったかのように。

そのニュースを見ながら、父さんがぽつりと言った。

「……ミ、いや、おまえ、そこの塩を取ってくれないか」

一瞬、父さんがミオの名前を呼び淀んだ。家族全員が息を呑む。父さんは何でもないという顔で食事を続けたが、その手からこぼれた安堵の結晶は、砂粒のように小さく、色もなかった。空気が張り詰め、食器の触れ合う音だけが、やけに大きく響いていた。

第三章 名前のない食卓

変化は、静かだが確実に、僕たちの家を侵食していった。

最初に僕の名前を忘れたのは、ミオだった。

「ねえ、あなた。その本、面白い?」

リビングで本を読んでいた僕に、ミオが話しかけてきた。その声には、いつものような親密さがない。まるで、道端で出会った見知らぬ人に話しかけるような、遠慮がちな響きがあった。「あなた」と呼ばれた瞬間、僕の心臓が冷たく軋んだ。

食卓は、静寂に支配されるようになった。父も母も、互いの名前を呼ぶことを避けるように、代名詞ばかりを使う。僕たちは同じテーブルを囲みながら、それぞれが別の島にいるようだった。視線は交わるのに、心は決して交わらない。かつて当たり前だったはずの、家族という温かい輪郭が、日に日にぼやけていく。その曖昧な不安は、どんな強い感情よりも心を蝕んだが、結晶になることはなかった。

僕は必死だった。古いアルバムを持ち出して、幼い頃の思い出を語った。

「母さん、覚えてる? この海で、僕が溺れかけたのを父さんが助けてくれたこと」

母は写真の中の僕を見て、小さく首を傾げた。その瞳には、懐かしさではなく、ただ当惑の色が浮かんでいるだけだった。父も、遠い目をして窓の外を眺めている。僕の声は、厚いガラスに阻まれるように、彼らの心に届かなかった。

第四章 標本箱の囁き

そして、誰も僕を認識しなくなった。僕もまた、目の前にいるはずの父と母、そして妹の顔を見ても、そこに宿るはずの確かな存在を感じ取れなくなっていた。家の中には三人の男女と僕がいる。ただそれだけ。血の繋がりという、世界を支えていたはずの糸は、完全に断ち切れてしまった。

絶望が、冷たい霧のように部屋を満たしていた。僕は自室に逃げ込み、震える手で『感情の標本箱』を開けた。

箱の中は、まだ昔のままの輝きを保っていた。家族が家族であった頃の、眩いばかりの記憶の欠片たち。僕は無意識に、その中で最も大きく、優しい光を放つ桜色の結晶を手に取った。それは、僕が生まれた日に、母の喜びから生まれた最初の結晶だった。

指先が触れた瞬間、閃光が僕の意識を貫いた。

それは、世界の記憶そのものだった。家族という単位で蓄えられた無数の感情エネルギー。喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも。それらが飽和点に達した時、世界は新たな段階へ移行するために、そのエネルギーを一度回収し、再分配するのだという。『感情のリサイクル』。そして、僕のこの能力は、その循環を円滑に進めるための、世界が生み出したシステムの一部だった。

家族の認識が消えるのは、絆が失われたからではない。彼らの感情が、個人の所有物であることをやめ、世界全体の共有財産として還元されるための、聖なる儀式だったのだ。別れではない。拡散であり、融合だった。

第五章 最後の結晶化

全てを理解した時、僕の心は不思議なほど穏やかだった。涙は出なかった。やるべきことが、たった一つだけ、はっきりと見えたからだ。

僕は標本箱を抱え、リビングへ向かった。そこにいる三人は、僕を見ても何の反応も示さない。僕は彼らの前にひざまずき、箱の中の結晶を一つずつ手に取った。

父の厳格な愛情が宿る藍色の結晶。それに触れると、不器用ながらも僕の頭を撫でてくれた、ごわごわした手の感触が蘇る。妹の無邪気な笑顔が詰まった檸檬色の結晶。触れれば、家中を明るくした彼女の笑い声が聞こえるようだった。

そして、母の無限の優しさを宿した桜色の結晶。その光は、僕の存在そのものを肯定してくれるようだった。僕はそれらの結晶を、一つ、また一つと、自らの胸に当てていった。結晶は光の粒子となって僕の中に溶け込み、家族の記憶と感情の全てが、僕という器に注がれていく。

最後に、僕は目の前の三人にそっと手を伸ばした。彼らの心に残っていた、最後の感情の残滓。世界の大きな流れに対する漠然とした不安、失われた何かへの微かな寂しさ、そして、心の奥底で忘れられたように眠っていた、家族への愛情。それら全てを、僕は引き出した。僕の手のひらに、三つの淡い光の結晶が生まれる。これが、僕の最後の仕事だった。

結晶を生み出し終えた彼らの顔には、不思議なほどの安らぎが浮かんでいた。まるで、長い旅を終えた旅人のように。

第六章 世界に還る日

全ての感情をその身に宿した時、僕の体は内側から輝き始めた。もはや、晶という個人の輪郭は意味をなさなかった。僕は、僕の家族の感情の集合体であり、世界に還元されるべき『感情の核』そのものだった。

僕の体は、ゆっくりと光の粒子に変わっていく。足元から、指先から、透き通るように世界に溶けていく。標本箱の中に残っていた全ての結晶もまた、呼応するように輝きを増し、僕と共に宙へと舞い上がった。

桜色の喜び、藍色の安らぎ、檸檬色の好奇心。緋色の怒りも、雨雫の悲しみも。僕の家族の全ての感情が、僕という記憶と共に、一つの巨大な光の奔流となった。

それは、光の雨となって、静かに世界に降り注いだ。

僕が住んでいた街に、僕が知らなかった国に、あらゆる場所に、平等に。それは血縁という古い繋がりを洗い流し、新たな結びつきの種を蒔く、祝福の雨だった。

雨に濡れた街角で、見知らぬ者同士が、ふと目を合わせる。どちらからともなく、微かな笑みがこぼれる。名前も知らない相手に、不思議な親しみを覚えて。世界は、ほんの少しだけ、優しくなったのかもしれない。

第七章 希望のひとかけら

誰もいなくなった部屋に、朝日が差し込んでいる。そこに、あの古い木製の標本箱が、ポツンと残されていた。

蓋が開いたままの箱の中は、もう空っぽのはずだった。家族の感情は、全て僕と共に世界に還ったのだから。

だが、箱の底のビロードの上で、何かがちいさな光を放っていた。

それは、たった一つの結晶だった。

今まで見たこともない、不思議な色をしていた。朝焼けのようでもあり、深い海のようでもあり、若葉のようでもある。虹色の光が、その中でゆっくりと揺らめいている。

それは、僕自身の感情だったのかもしれない。家族を愛し、世界に還すことを決めた、悲しみと希望が入り混じった、最後の感情。あるいは、それはまだ見ぬ未来の、新しい家族の物語の始まりを告げる、希望のひとかけらだったのかもしれない。

結晶は、静かな部屋の中で、新しい世界の夜明けを待つように、ただ淡く、優しく輝き続けていた。


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